TODAY'S
 
人との境界線

SNSで人との境界線がない世界を作ったように見えるが、もともとこの国には境界線が存在していないのではないか。


最近、SNSを見ていると、人々が個人の境界を越えて自由に繋がり合っている光景が日常の風景となっているように見える。

 

投稿の内容、感情、そして私たちの日常が、あたかも無限に繋がり、重なり合い、切り離すことができない一つの流れのように思えてくる。しかし、こうした世界が新しく創られたものだと考えるのは、少し違う。

実は、私たちの住むこの日本社会には最初から「境界線」など存在していなかったのだと気づくべきだろう。いや、むしろその境界線を無理やり引くことで、私たちはその存在を意識し、形作ってきたのだ。

例えば、仕事で出会った誰かがSNSで繋がり、急にプライベートな部分が見えてきたり、逆に自分が他人の生活の中に無意識に踏み込んでいるような気がする。

 

こうして、SNSというツールが普及する前から、私たちはすでに「見えない線」の上に生きていた。私たちが持つべき「プライバシー」や「個人の空間」といったものは、実は一部の幻想に過ぎなかったのだ。

例えば、昔から「赤の他人」と呼ばれるように、私たちは社会的な距離を意識して生きてきた。だが、それが果たして本当に“境界”だっただろうか。たとえ物理的に遠く離れていても、想念や感情の世界では、その境界はすでに曖昧だったのではないか。隣の部屋にいる誰かの声が聞こえたり、街を歩く誰かの表情に心が揺れる瞬間、私たちの内面で交わる何かが確かに存在していた。

SNSが生まれ、私たちが一瞬で相手と繋がれるようになったことで、もともと存在していなかった境界線を、あたかも新たに創り出したかのように感じているだけなのだ。

 

SNSの普及が、私たちに「プライバシーの侵害」や「自己表現の自由」といったテーマを突きつけたのは、実は私たちが最初からその“境界線”をあいまいにしていた証拠に他ならない。


SNSが生まれる以前から、私たちは常に他者と繋がっていたし、その繋がりがあったからこそ、今の私たちがいるのだ。そして、境界線がないことこそが、逆に私たちの自由そのものであることを、今の時代において再び思い出すべきだ。

私たちは一つの大きな流れの中で共鳴し合っている。

そして、この世界で「境界線」という言葉が指すものは、

ただの幻想に過ぎなかったということを、節々で感じる。

 

境界線のない世界に、境界線のないものを持ち込むことで

更にそれはエスカレートし、じわじわと入り込んでくるのだ。

 

まるで、知らない間に、すっと入り込む風のように。