HSBC銀行ってどんな経緯で開業できたの?

ササッとおさらい。

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HSBCは、「国際的なニーズに対応する地方銀行」という発想から生まれました。

設立メンバーである香港上海銀行(The Hongkong and Shanghai Banking Corporation Limited)から名付けられたHSBCは、ヨーロッパ、インド、中国間で拡大する取引の資金調達を支援するために1865年に設立されました。

当行設立の発案者はスコットランド国籍のトーマス・サザーランドです。彼は当時、ペニンシュラ・オリエンタル汽船会社に在籍していました。彼は香港と中国沿岸に地方金融機関に対する大きな需要があることに気付きました。彼の尽力により、1865年3月に香港に銀行が設立され、1ヶ月後には上海支店が設立されました。

 

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HSBCは香港会社法により1865年3月3日 香港に設立

設立翌年の1866年には日本支店を横浜に設立した。

西暦1868年10月23日(明治9月8日)から1912明治45)7月30日までの期間

明治政府ができる2年前である。

その後神戸大阪長崎にも次々に支店を開設した。日本政府の貿易金融政策の顧問業務を担い、大阪造幣局における通貨の造幣にも協力した。横浜正金銀行(後の東京銀行東京三菱銀行三菱東京UFJ銀行)がその体制を作る際には、香港上海銀行がモデルとなったし、香港上海銀行も支援した。もっとも、横浜と神戸の支店は洋銀券を発行していたこともあって明治政府との関係は良くなかった。

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出てきました、大阪造幣局!

横浜と大阪造幣局の関係もちらほらありましたね。

横浜と神戸の支店は洋銀券を発行していた

日本で最初に開業した銀行は、第一国立銀行

(旧第一勧業銀行、現みずほ銀行)で、

明治 6(1873)年 7月20日 

現在のみずほ銀行兜町支店の位置(現在の中央区日本橋兜町 4-3)に開業しました

つまり日本の銀行が出来上がる7年も前に外国取引の銀行があった。

奴隷売買で有名な「東インド会社」が前身だということも・・・

お金のない国との取引は、人間であったと言う噂。

日本は金銀小判の国で、千両箱は山程、大砲に変わったんだろうね~~~

マセ孫様によって。

戊辰戦争1868年 - 1869年

1860年のナポレオン三世の発行した金貨

これね、10円玉にそっくりなんだよね。(笑)

写真の説明はありません。

ナポレオン・ボナパルト、フランス革命はショパンの時代

数年前にショッパン200年って騒いでたよね。

調べてみたナポレオン3世はボナパルトの甥なんだって。

 

横浜行ったときにね、ミュージアム回りしてたんだけど、

フランスと日本の意外なつながりがシルクだけじゃないなって思ったよ。

ラグビーとかスポーツもねあったし。

私は美術館に行くのも好きなので、

頻度は多くないけど本物見てるよ。

モネとかルノアールのシルクの光沢は日本製シルクかもしれないと思ってる。

鎖国の終わり時代が1850前から始まってるって感じたから

その時代にはヨーロッパに送られてる可能性は十分あるから。

 

そしてミュージアム回りしてて、ペリーが来る前に

1846年フランス人は横浜に来ていたと確信したのよ。

当然そこが始まりで、交渉がいっぱいあったのだと感じた。

何度も交渉を重ねて、うまくいかず、ペリーが来て話をまとめていった。その後は歴史教科書で習ってて私より詳しい人がたくさんいる。(;´∀`)

 

外貨取引には銀行が必要で

それがHSBC香港上海銀行の開設につながった。

明治政府樹立の2年前にすでに銀行が横浜にあった。

日本で一番古い銀行は第一国立銀行(注)(旧第一勧業銀行、現みずほ銀行)で、明治 6(1873)年 7月20日

そして三井銀行と続く。

一圓コインが確認できたのは明治8年で現在20万円だって。

一銭コインは明治6年に補助貨幣として製造・発行

そしてこのナポレオンコインにそっくりのデザイン配置(笑)

銀行ができるまでの取引は何を使って貿易してたんだろうね。

日本は武器をたくさんマセソン商会から買ってるんだよね?

横浜(英一番館)からも長崎(グラバー邸)+大阪造幣局(神戸)からも。

どっちもマセソン商会👉HSBC=「後ろの正面」なのでは?

 

何度も当ブログで書いてるけれど

かごめかごめ の詩は戊辰戦争で

「鶴と亀が滑った、後ろの正面だ~~れ」

と書き換えられている。

これって童たちに教えた暗号だよね。

 

 

私が長年不思議に思っていたのは、杉田玄白の『蘭学事始』

鎖国してる日本にどうやって蘭学が届いてたのかが不思議でしょうがなかった。

玄白の生きていたのはフランス革命の時代だよ。

ネットの時代になって簡単に検索でヒットするようになって

やっと繋がりが見えてきた。

 

 
シーボルトは江戸時代末期にあたる1823年、27歳の植物学者だった。
彼は、東洋学研究を志し、ドイツ人でありながらオランダ人医師と偽り、
長崎の出島のオランダ商館へ来日を果たします。
シーボルトは長崎の出島に入ると、
徳川幕府から、市中の病人の診療と、私塾を開講をすることを許可をされた。
シーボルトは楠本滝と結婚し1827年楠本イネが誕生します。
入国から5年後地図を持ち出した罪で国外追放されます。

1859年(安政6年、幕府は神奈川・長崎・函館を開港)の8月14日、

シーボルトは再び長崎に寄港した。

その翌日、オランダ商館長の家で、シーボルトとお滝といねは、30年ぶりで再会を果たしたのであった。

漫画『JIN-仁-』にも登場した日本初の女性産科医である・楠本イネ
日本初の女性産科医士 です。
 

 

湯島聖堂(ゆしませいどう)は、東京都文京区湯島一丁目にある史跡。江戸時代の元禄3年(1690年)、江戸幕府5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟であり、後に幕府直轄の学問所となった。

大阪は私学が発達して学問所が数箇所ある。

つまり学問は鎖国していても情報集めてたってこと。

長崎屋(江戸)っていう薬屋が杉田玄白とつながった。

西洋の薬はどのように輸入されたのか?

調べたら面白いかもね。

 

適塾:幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉や大村益次郎など、天保9年(1838)から文久2年(1862)までの24年間多くの志士を育てた蘭学塾適塾:幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉や大村益次郎など、天保9年(1838)から文久2年(1862)までの24年間多くの志士を育てた蘭学塾

 

開国前に私塾ではたくさんの情報があって、

語学を学べる環境にあったってことが凄いと思う。

 

 

 

今月横浜に行って実際に展示物見てきたんだよ。英一番館(シルク博物館)ジャーディン・マセソン商会 を見てきたんだよ。それと、横浜開港博物館ね。そしたらペリーが来る数年前、1846年にフランス人が来てるんだよ。それが始まり。シルクもね、香港上海との取引があったよ。明治になる2年前HSBCが日本の外資銀行のはじまり。それで今までのもやもやがす~~とつながったの。もっと興味深かったのは横浜ユーラシア文化館これは知りたかったモンゴルの情報満載。答えは横浜にあったのよ。

 

アホウは吉田茂の孫だから、吉田家が横浜マセソンの支店長だったのが奴らの日本売国の始まり。

霞が関は財務省の言いなりってことね。財務省はアホウの言いなり。アホウは、マセ孫(HS◯c)の言いなり結局 東インド会社の支配から逃れていない。米国の属国でも中共の属国でもなくマセ孫の属国だという認識持たないと、トランプの指摘したDSがわからんちんだわ

 

50年前まであった「ああ野麦峠」のシルク貿易(英一番館)が現在の木綿貿易ウイグル版「ああ野麦峠」(ふぁースとリフティング)ではないのかな?

 

日銀が大いに買ってる株が(ふぁースとリフティング)

なんでだろう???

 

でね、私が言いたいのは 黒船が来る前から、

長崎には外人との取引ができる通訳が居たってこと。

これは多分で調べてないけれど、イネさんのような混血児が他にも居たのではってこと。

文献も結構日本にはたくさんあって

教科書には困っていないってこと。

 

それらを持ち込んだのは、オランダ商船で{東インド会社」だったのではってこと。

そして国際貿易取引のための 銀行というものがフランスで確立されて始めていたってこと。

 

ここ大事なところなのに、教科書では全く触れないところよ。

 

 

ナポレオンのコインの話に戻るけど、

フランス中央銀行のコインね。

10円玉は日本は日銀のコイン 

日銀の株主49%がロスチャイルド。

あとの51%は関西人。私の予想では天皇家。

HSBCはロスチャイルド(東インド会社)の牙城

ヨーロッパのコインの紋章に、日銀の紋章が似ている!? | アンティークコインで資産防衛 | ユニバーサルコイン

日銀の紋章

 

 

2000年前から、クリスチャンに都合の良い解釈で
利子が利用されてきた!
日本は、金融侵略を受けたのが明治維新だ!
江戸時代は俸禄はコメだったのだ。
藩札、大判、小判も流通してたし、
決して貧乏の国ではなかった。
なのに、銀行が出来て、金融支配がはじまった。

勿論、日本だって、大陸と貿易していた証拠が卑弥呼であり、
平清盛の時代には、貿易が盛んになり、
金のやり取りはあったのだけれど、
独自通貨は、守ってきた。

大量の金=小判が日本から消えた。
それが、金融支配の明治維新だ。

^---リチャード・ヴェルナー氏の「円の支配者」に詳しく書かれている事柄ですーー

1882年10月10日, 日本銀行が設立された

作ったのは松方正義氏

松方は、1877年に渡欧し、1878年3月から12月まで

第3共和制下のフランスのパリに滞在したのです。

そのときフランス蔵相のレオン・セイから次の3つのアドバイスを受けている

1.日本が発券を独占する中央銀行を持つべきである
2.フランス銀行やイングランド銀行は参考にならぬ
3.最新のベルギー国立銀行を例として精査するべし

レオン・セイは、あの「セイの法則」で有名なフランスの経済学者、

ジャン=バティスト・セイの孫です。

松方正義首相が

政府紙幣を今の紙幣(日銀紙幣)に変えさせロスチャイルドの日本支配を許した!

レオン・セーの示唆によって

日本に中央銀行を設立した松方正義は、

フランスのロスチャイルド家に見込まれて日本に中央銀行設立案をたずさえて帰国し、

権力の中枢についた人物であることが分かるのである。

日銀の役割は、不換紙幣、つまり、

政府紙幣および国立銀行紙幣の償却である。

引用元☛https://mizu888.at.webry.info/201407/article_40.html

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突然ですが 質問です。

 

財務省は国債を発行します。

さてどこからお金を借りているのでしょうか?
答えは日本銀行です。

(ここで金融機関という答えを外すと単純になります)
日本銀行はお金を刷ることができるのでその気になればいくらでもお金を作れます。

1997年日銀法の改正で可能になりました。

政府の歯止めが無くなりました。
その日本銀行に国債を持っていってお金を借りるのです。

金融機関が持ってる国債も、

融機関がお金が足りないと日銀が国債を買ってくれます。

日銀は国債を引き受けたら、数字を振り込むだけ。

いくらでも数字の書き込みできますから。

日銀の通帳がゼロになる事がないんです。

ドンドン円の数字が膨らんできました。

世界中にばらまかれて円がいくらあるかは、分からないんじゃないかな?

タンス預金もあるわけだし。(笑)

実は、数字だけが動いているから、

実質経済で紙幣の数量を抑えていれば、暴落しない。

というからくりがあるのではないですか?

木を見ても、森を見てないのが経済学よ

森を見たら 通貨発行権が今の経済学を根底から覆せるって気が付くわよ。

木しか見ていないから

「お金がないのに何ができる?」

税金集めないと 社会保障ができない。

消費税は上げるべきだ!

という凝り固まった発想から抜け出せないのよ。

参考記事👉仮想通貨と金融デープステイトは不仲?

ここが大事

銀行家の作ったルール以外のルールが

シリアにあったのよ。

システムを変えれば、お金に執着した人生を送る必要が無いのよ。

そういう社会を作りませんか?

 

簡単です、政府がお金を発行すればいいだけです。
政府が発行したお金で国を運営する、何か問題がありますか?
発行量をきちんと制御する仕組みを作れば、できないことではありません。

 


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