わたしは、崖の下の花を見守る人間でありたい。
たとえ崖の下に落ちた種でも、
必死に花を咲かせる雑草は
雨風が当たり、波風が当たっても、逆境に耐え育つよ。

たとえ鳥にたべられた種でも、
種を消化しない鳥たちなら、どこかにふんを落とし、
それを栄養に育つよ。

砂漠に種を植えて育てる人たちがいる。
私はそういう人間になりたい。
水が無いように見えても、
生物が生きる最低限は、残っている。
ただし、見えないだけだから引き出せばよい。

イバラに覆われても折角芽を出したなら
救い出して育てようよ。
難民たちを救い出す。
シリアの人たちは、生きて居た地に帰れるように、
ロシアが支援してる。
何故、イスラエル圏の人たちを逆境に陥れたのか?
理解できない。
あきらめを受け入れるのではなく
イバラから救い出せばいいんだよ。

良い地に落ちた人達
恵まれた家庭に生まれ何不自由なく暮らし、
人の痛みを知らない
麻生や安倍にはなりたくない。

神でない人間に天変を言うのは無理がある。
自然の摂理の中に生きる方がよっぽどいい。
と反論してみた。
聖書に反論いう人が居ない。

なんでだろう。
私は大馬鹿者だから。(;'∀')

 

ルカの福音書8章

8:4さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
8:5「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。 

8:6また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。 

8:7また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。 

8:8また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。
 

8:9さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。 

8:10そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。

 8:11このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。

 8:12道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。 

8:13岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。 8:14いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。 

8:15しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
8:16あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。 

8:17隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。

 8:18だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」
8:19イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへ近寄れなかった。 8:20それでイエスに、「あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています。」という知らせがあった。 8:21ところが、イエスは人々にこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。」
8:22そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。

8:23舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。 

8:24そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。 

8:25イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 

太陽は、毎日の奇跡をうむ

明るく照らしてくれる。

太陽に感謝だ。

たとえまっくら闇でも、朝には明るくなる。

毎日ね。

だからお天道さまに申し訳ない事はしない。

自分に嘘ついたら、お天道さまに申し訳が無い。

だから、騙すようなことはいない。

 

環境によって、人それぞれの「言葉の受け入れ」の素地がちがう。

どんな環境に居るのかで、受け止め方がまるっきり違う。

ならば、その環境に共鳴する言葉で話しかければよい。

思いやりがあれば、閉ざされた心を開くこともできる。

 

この福音書はとても私に悲しみを与える。

どん底を経験した者にとっては、厳しいからだ。

排除された気分になるからだ。

キリスト教の信じる神だけが神ではないと叫ぶからだ。

存在を認めてもらえないのか?

 

きっとこの宗教は私を受け入れない。

私には、西暦は世界共通の物差しの意味しかないが

クリスチャンには、イエス誕生の意味が含まれている。

 

グランタナモで米国・軍事裁判が始まれば、
キリスト教から離れる人が出てくると思われます。

その時にどうするのかを考える下地になれば幸いです。

司教は法の裁きを受けるでしょう。
ヨーロッパでは、
キリスト教から離れる人たちが出始めています。

アメージンググレースが推奨されてはいけないんです。
たとえ戦争であっても、
レイプや人殺し(ドローンでスイッチ押すだけ)
もしてはいけないのです。
そんな罪は許してはいけないと思います。

たとえ強盗であってもその人を殺すという選択肢があり、
銃を持って対戦するという事であってはいけないんです。

当たり前の道徳。
「お天道さまに申し訳ない」
自分にも他人にも嘘はダメなんです。

許されるのではなく罪を償う、罰を受ける。
罰を受けるようなことをしない。
罪を犯したら、罰を受けなさいと言えばいいんです。

レイプしたら、人身売買したら、臓器売買したら、道徳的に許されない罪は罰を受けなさいと言わない宗教が
何千年もわたって、
これらを廃絶することができない原因だと思います。

 

共産党員や、

クリスチャンが嫌う天皇制も、

私は保守的なところがあって 意見が合わない。

 

元号をなくしたとして、
4月はじまり3月年度末がなくなるわけがない。
便利に官庁で使ってるわけだ。

西暦だけにする? 
それもキリスト教だけ肯定するようだ。
2019年3月=2018年度3月 これをちゃんと説明できる?

 

世の中には、私のような保守の日本人はまだまだ多いですよ。

天皇制を捨てきれていないし、

キリスト教を中心にした西暦に首をかしげてるのです。

 


じゃそれに660年を足す? 
それも困ったちゃんになる。

余計世界とのバランスが難しくなる。
という事年度を表すには、元号がなくなれば不便だ。

日本は立憲君主国なんだから、
元号があって便利に使えばよいし、

「浅くしか考えてないから、おヴぁかな議論しかできないんだよ。

日本人の知恵が元号だって事に気が付けよヴぁーーか 」って言いたい。(笑)
西暦表記も世界との歴史のすり合わせには必需品だ。

西暦で覚えるカッコガキ付け加えとけ。

使い分けるくらいの脳みそ持ってるだろう。

それともアベデンデンの脳みそよりちっチャイいのか?

これに代わる、便利なものが出てくるまで
このままで良いと思う。

それに西暦にだけにするならそのダメな理由、

それが上記にあげた「ルカの福音書」

八百万の神を認めない宗教だからだ。

多神教は駆逐される。

成り立ちを3日くらいかけて、
エジプトのピラミッドの時から説明しないとならなくなる。

聖書と突き合わせて喋ればもっとかかるかもしれない。

 

天皇が攘夷っと言ってるのに、退位にこだわる安倍政権には問題が多いと感じる。

立憲君主国なので、元号自体には問題はないです。

問題なのは安倍が「安」という感じを入れ込む話で盛り上がっている事です。

 

現在使いやすいのです。

そこを何故重視できないのか? 

考えが甘すぎで、

キリスト関係者が西暦を使いたがっているようですが、

西暦年度の混乱は避けなければなりません。

外人と話するときには混乱を招きます。

あくまで年で話するので1月から3月までの前年を年度に付けることは

気を付けなければなりません。

すると元号表記の年度は日本独自の物なので便利です。

 

山下 友宏 

元号法を見直して、西暦でも元号でも併記できれば問題ないと思います。
使いやすさと文化(元号は文化、西暦もあくまでキリスト教圏の文化)

キリスト教圏の押し付けは、また思想良心の自由に反します。
(安倍嫌い、安倍が決めた元号はヤダ、元号なくせ、は乱暴ですし)

ーーーend

 

2018年度(平成30年度)は
一般的に2018年(平成30年)4月1日~2019年(平成31年)3月31日のことを指すことになりますが
3月31日までは平成30年度ですよね

 

年と年度の違いをまとめると
・年とは、西暦もしくは和暦のこと。
2018年(平成30年)は
2018年1月1日~2018年12月31日を指す。

 

学校教育法においても、学年は4月1日に始まり翌年3月31日に終わると制定されています。
なので卒業証書って、西暦で書かれてないのでは?
で、卒業は年になるので西暦で書けば世界に通用する履歴書が書けます。

一般的には2018年度という言い方はほとんどしない。
西暦とのすみわけが行われている。
日本は便利に使う事が出来ていますよ。

世界レベルで話すときに年度の話は
混乱が起きて通じないからです。

で今年は 5月1日までが 平成です。

平成31年3月現在、平成30年度です。

新元号の発表もされていないためどう取り扱うか
まだ不明です。

^---井戸端より --

堀川 幸男 

主は罪を犯した者に対して罰を与えない事はありません。イエス様は時が来たら、必ず罪人を罰しますから、待っていてください。私は祈ります。確かに犯罪を犯した者が捕まっておりませんが、必ず主が裁判よりも重い罰を与えますから待っていてください。だが、その犯罪を犯した者が真の悔い改める事ができた方は本当に許したいですが、それを許す事が出来ないのが、人間なのです

Hikaru Narita 

 

許さなくても良いと思っていますし、憎しみを加えるものでもありません。

忘れて自分の思いの中から追い出すことができるのが人間です。

憎む心を私は嫌いますが、

許しては、再発されている現状を変えることができません。

 

ーーーend


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(*一部省略しています。書き起こしは時間がかかるので、誤字・脱字・変換ミス等はご容赦ください。「校正」より、記事のUPや 書き起こしに時間使っていますご理解ください。)