ヨハネの書いた文章は、協会に対してシビアだ。
津波の時に、逃げるのは、個々の判断。
生き延びれるのは
「命てんでんこ」
組織に頼っていては、命を守ることはできない。
という教えです。
21章は 20章で完結していたのに、噂の修正の為に
エピローグを書き足したのでは無いかと言われていますね。
噂とは違う意味があるという事だと思います。
聖書の文章を先に載せますが、
下記の文を後から読んだ方が
何が書いてあるのか?
の気づきがあると思います。
^---口語訳新約聖書(1954年版) 引用ーー
第21章
21:1そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。 21:2シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。 21:3シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。 21:4夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。 21:5イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。 21:6すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。 21:7イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。 21:8しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。 21:10イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。 21:11シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。 21:12イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。 21:13イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。 21:14イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
21:15彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。 21:16またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。 21:17イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。 21:18よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。 21:19これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。 21:20ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。 21:21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。 21:22イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。 21:23こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
21:24これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。 21:25イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/
ーーーend
ヨハネによる福音書第21章 の登場人物とその会話を
アニメにしたら分かりやすいのに。
<<<広い海原に数隻の船があって、
漁箱は空っぽで、船に乗っている連中はおなかがすいていた。
シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、
ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
(ここに登場するのは、ユダと、この福音書を書いているヨハネが
二人の弟子なのではないでしょうか?)
シモンペテロと二人の弟子、そして数名が
岸で、イエス様を待っていたのだけれど、
数日過ぎてもイエス様は来なかった。
お腹が空いていたので
漁師であるペテロの提案で魚を捕りに出かける。
なかなか網にかからずに遠くまで船をこぎ出す。
ペテロ一行が船出している最中に
イエス様は「大漁があるので、炭を炊き、パンを持ち寄りなさい。」
と言ったかどうかは知らないけれど、人を集め、
人々は、大喜びで大宴会を開く準備がされていた。
明け方近くなったので、漁をあきらめてペテロ一行が岸に近づくと、
夜が明けたころ、岸にイエス様が復活した姿で現れ、立っておられた。
しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
海に居た弟子は3人で、遠くてそれが誰であるのか分からなかったのね。
岸では、炭火がたかれ、パンも用意されていた。
そして、岸にはイエスを知る弟子が居なかったのですね。
イエス様が岸から、船に居る者たちに網を降しなさいと言うと、
魚が網にかかった。
21:7イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
(海には、ヨハネとユダが居たのでそのどちらかが、言ったのですね
ユダかヨハネは愛されていた弟子という意味になりますね、)
シモン・ペテロは主であるという他の弟子の言葉を聞いて、
裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8しかし、ほかの弟子たち(ヨハネとユダ)は舟に乗ったまま、
魚のはいっている網を引きながら帰って来た。
陸からはあまり遠くない五十間(1・8×50=90m)の所にいたからである。
声の届く距離って事ですね。
しかも漁師でなくても網を引ける距離。
(岸にはイエスの他に誰かが居て、炭火を起してパンを用意していた。)
一晩中漁をして岸から離れたところまで行ったけれど
明け方近くに岸近くに来たら、
海岸に立つイエスと会話できる距離に来たって事よね。
ペテロは、漁の手伝いもせずに
泳いでイエス様の御前に急いだのよね。
岸から、こんな近い浅瀬で魚が急に獲れるって
神業ですね。( ´∀` )
この期に及んで、神の言葉を、信じて無いって凄いです。
ペテロは漁師だから、こんなところで漁ができるわけがないって思うはず。
イエスは、ペテロが驚く事したんですね。
21:10イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。
ぺテロはこの奇跡の魚に立ち会えなかった。
なぜなら、一人で泳いで先に岸についていたから。
大漁なんですね(笑)
二人の弟子(ヨハネとユダ)が漁をしたんです。
この百五十三びきの大きな魚は、信者さんを表していると言われているようです。
シモン・ペテロが漁師だったのに、漁をしていない。水揚げしただけ。
今のバチカン統制と同じで、
他の誰かが布教活動したのを 横取りで手にする姿がここに予言されているのかもね。
イエスとペテロの会話は、
3度「わたしの羊を養いなさい。」 と指示した事。
漁師ではなく牧師になれって言ってます。
3度も!!
しかも、イエスを待ってられなくて、一晩中漁をしていて、
ボウズで漁箱空で岸につくところだった。
というよりペテロだけ、漁をしないで 泳いで岸にたどり着いていた。
【21:15彼らが食事をすませると、
イエスはシモン・ペテロに言われた、
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。
ペテロは言った、
「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」
イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16またもう一度彼に言われた、
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。
彼はイエスに言った、
「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」
21:17イエスは三度目に言われた、
「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」
ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、
心をいためてイエスに言った、
「主よ、あなたはすべてをご存じです。
わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。】
3回も「わたしの羊を養いなさい。」と言われたペテロは
今現在、牧師ではなく神父の頂点に立っている。
残念ながら、イエス様のミッションを無視してしまった。
マタイによる福音書です。第23章から
23:6また、宴会の上座、会堂の上席を好み、 23:7広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。 23:8しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。 23:9また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。 23:10また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。 23:11そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。 23:12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
3回も愛してるのか?って聞いたって事は、
イエス様が、
ペテロを疑っているっていう意味でヨハネが描いた可能性がある。
男女でも
「愛してるの?」
って聞くときは、別れっていうのが背後に迫ってて、
信用してないときなんだよね。
ヨハネは
ぺテロは嘘つきだよって言ってるのでは?
わざわざ。エピローグを書き足してるって、
とっても重要な事だったのでは?
そこで、ペテロは、安倍ってみた(笑)
ネトウヨの朝ごはん食べたか?いいえ。パンは食べたけど理論を持ち出す。
論点をすり替えちゃうんだよね。
俺を疑うより、イエス様を売ったこいつをどうにかしろよっていう気持ち。
【21:21ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、
「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22イエスは彼に言われた、
「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、
わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。
あなたは、わたしに従ってきなさい」。
21:23こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、
兄弟たちの間にひろまった 】
この部分ではユダを指さし、
ペテロが、『裏切り者のユダを従えて、許してるのか』という気持ちがこもった言葉が、
「主よ、この人はどうなのですか」だとしたら、
イエスの答えは、素直に文章を読むと
「復活の時にユダが生きていても、
ペテロには関係がないだろう?
ぺテロは俺の命令を聞けよ」と言ってるよね。
この話をペテロは、自分に都合よく解釈して、
他の弟子にも人々にも、後の世にも、
俺が、「わたしの羊を養いなさい。」と言われた
聖書の計画は、ペテロの墓「バチカン」の存在を認めてる?
これにつながるペテロの言動が聖書の予言なら
偶像崇拝や、神父につながる教えを伝えたとすると、
ヨハネにしてみれば、違うんじゃないの?
って話になってくる。
羊を養うって牧師であって神父ではないから。
この話を聞いた3回目のイエスの出現を他の弟子たちは、
ペテロが、ミッションを受けたので、
永遠の命をもらったと勘違いしていた。
この場には3人の弟子以外の弟子は出てきませんので、
ペテロの話を鵜呑みにした人は
信じちゃいますよ。
「ペテロを信じたら、永遠の命がもらえる」とね
【こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、
兄弟たちの間にひろまった】ところが、
ヨハネは、この言葉はたとえ話だとくぎを刺している。
ぺテロはイエスのミッションを遂行して協会を建て、
「羊を養う」という仕事をするけれど、
衰退するだろうと、
イエスの言葉を付け加えている。
【21:18よくよくあなたに言っておく。
あなたが若かった時には、
自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。
しかし年をとってからは、
自分の手をのばすことになろう。
そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、
行きたくない所へ連れて行くであろう」】
これはたとえ話で、協会が全盛の時(若かった時)と
衰退・荒廃した時(年を取ってから)を言い表しているのではないでしょうか?
ヨハネは、協会についていくと行きたくないところは連れていかれますよ。
っていう釘を刺していた。
「わたしの羊を飼いなさい」というのは信者を協会に集めるという計画で、
それは衰退するので、
その時、イエスの教えを信じる者は個々{命てんでんこ」ですよ。とね。
---END
ペテロは嘘つきな人間の象徴ではないのかと思います。
なので、彼を嘘つき、あなたを正直者
と置き換えると、ストレートにわかりやすい。
イエス様とペテロの会話ですが、
誰に向かって話されていたのか?を状況想像すると、
この場には、この光景を書いたヨハネとユダが出てきます。
21:23こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、
兄弟たちの間にひろまった。
しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく
と釘を刺して書いてあるので、
ペテロに向かってしゃべったのではなく、
イエスについてきている人々に向かって話されたのではないかと想像できます。
岸にも、海にも、弟子の他に人々がいたことが書かれているので、
ペテロと向き合って話し合いしたのではなく、
聴衆の前で、ペテロの質問に答えていると考えたら自然ですよね。
この言葉の根底にある意味は、
彼が死ぬことはないと言われたのではなく=永遠の命の聖所に入れない。
と書かれているのではないですか?
ユダはイエスの予言を実行するためにミッションを受け、
イエスの復活を信じて、事を起すんですよね。
ペテロは3度イエスを知らないという。
ユダはイエスを知っているといった。
捉えに来た人の前で、イエスだと、公言しちゃった。
この違いは重要だと思います。
13:27この一きれの食物を受けるやいなや、
サタンがユダにはいった。
>>ユダを別人にしたのはイエス自身ですよ?
ユダに裏切らせないと秘儀は起こせなかった。
聖書が成就するためと、
イエスの復活という言葉を信じているものしかできなかった
ヨハネの福音書を読む限りにおいて、
イエスはユダを一番信用していたし、
神の国にも名前がある人物だと推測できます。
21:7イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
イエス様はペテロの事を「愛している」とは言わないんですよ。
なのに、この場に居るユダとヨハネどちらかが、
愛されていると書かれている。
ヨハネが自分の事をこういう風に描くのかな?
と考えたら、答えは「ユダ」になってしまう。
マグダラのマリアのマリアは自分の髪の毛でイエスの足をあらうのですよね。
香油を持っていたことから、娼婦だという推測がされています。
イエスにとっては信じてる者、
イエスを愛しているものはすべて一番弟子かもですが。
イエスが愛してる弟子、って聖書に特定されて書かれているって凄いと思います。
イエスを売るという一番の悪者のミッションを、
ペテロにはできなかったと思います。
イエスを知らないというキャラクターも必要だから。
イエスは「イエスはこの人だと、」正直に言う役目を、愛している弟子に与えた?
と言えるのではないでしょうか?
私は聖書学者ではないので、
素直に聖書を読んだ感想ですが。
イエス様は、2000年後の今を
聖書を通して予言されていると言われています。
ヨハネは、この予言を黙示録に書き残します。
その予言の一つが、このぺテロを聖人にするために建てる
協会の事ではないでしょうか?
ペテロの墓=サン・ピエトロは「聖ペトロ」
バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山
今ではあらゆる宗教の要になっているのではないでしょうか?
カトリックの総本山となっていますが、
ピラミッド構造は、このバチカンを要にした2重構造が見えてきています。
彼らは、対立する組織を作り上げ互いに戦わせます。
それが「かごめかごめ」の構図です。
二つの組織を操る後ろの正面。
裏表のある、ある意味人間的な組織です。
人間は嘘をつきます。
それをブリード、調教するのがバチカンの役目なのではないですか?
心に投影されるシンボルと言ってもいいキリスト教の「十字架」が、
イエスキリストの計画で、
それを実行したのがミッションを受け取ったユダ。
ただ正気ではできないので、
キリストが、一切れの食物を与えて、悪魔の心にした。
ユダの福音書が外典になっているのは、
ヨハネが描いた復活とユダの関係を
できるだけ世間の目から遠ざけたかったのかもしれません。
ローマ帝国、バチカンが関わって改ざんしていると言われていますね。
ペテロは嘘つきな人間の象徴ではないのかと思います。
なので、彼を嘘つき、あなたを正直者
と置き換えると、ストレートにわかりやすい
関わりはありますかと言ったのは、
ペテロ自身にイエス様は言っています、
>>>ヨハネはしかしと、くぎを刺しています。
ただペテロへ言うだけならこの文章は必要がないのに
二つの含みを持たせた文構造になっています。
=~=
しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、
ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、
わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
=~=
という注釈を書いたのは何故でしょう?
私の勝手な想像ですが、
これはたとえ話であって、別の解釈
「たとい、私の復活の時まで嘘つきが生き残っている事を私が望んだとしても、
正直者に何のかかわりがあるのか」と置き換えたら、
聖書の計画が見えてくるんですけど。
^---引用ーー
13:21イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、
「よくよくあなたがたに言っておく。
あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
13:22弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、
互に顔を見合わせた。
13:23弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、
み胸に近く席についていた。
13:24そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、
「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
13:25その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、
「主よ、だれのことですか」と尋ねると、
13:26イエスは答えられた、
「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。
そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、
シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
13:27この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。
そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。
13:28席を共にしていた者のうち、
なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。
13:29ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イ
エスが彼に、「祭のために必要なものを買え」と言われたか、
あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。
13:30ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
引用元☛http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html
ーーーend--^
牧師様にならずに、神父様になったがペテロの正体ですね。
カトリックでは牧師ではありません。
3度も牧師になれって言われているのに。
牧師は羊のリーダーではあっても、神の父ではありません。
その教えは聖書を紐解きます。
祭司は神父と言われるように、神の父 です。
祭司の言葉が、神の言葉になります。
ナザレのイエスという人物が現れ、
神の国の福音をもたらし、
人々に悔い改めを説き、
腐敗したユダヤ教の聖職者たちを批判しました。
イエスは自ら、名乗り出て、
自らの意思でユダとキスします。
キスは一人ではできないのです。
決められた聖書の言葉を成就したと書かれています。
マルコによる福音書
14:44イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。 14:45彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 14:46人々はイエスに手をかけてつかまえた。 14:47すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。 14:48イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。 14:49わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。 14:50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
ルカによる福音書
22:47イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。 22:48そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。 22:49イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、 22:50そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。22:51イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触て、おいやしになった。
それは、神との約束を果たすためという意味でヨハネの福音書では
「父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」とペテロに答えています。
18:10シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落した。その僕の名はマルコスであった。 18:11すると、イエスはペテロに言われた、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」
マルコによる福音書には最後の晩餐について書かれているのですが、
14:10ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。 14:11彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
14:12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。 14:13そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。 14:14そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。 14:15するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。14:16弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。
14:17夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。 14:18そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。 14:19弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 14:20イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。 14:21たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
14:22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。14:23また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。 14:24イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 14:25あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
ヨハネによる福音書とマルコによる福音書ではユダに関する記述が
まるで違う。
「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。 14:21たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
マルコの福音書では裏切るという言葉で書かれているが、
人の子を裏切るその人は、わざわいである。
その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」
生まれない方が良かった??
本当にイエスの言葉なの?
と疑いたくなる文章で書かれている。
ヨハネによる福音書では
「父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」
聖書の予言を成就すると言ってるのである。
そこには、ユダへの憎しみは感じない。
マタイの福音書では
27:3そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して 27:4言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。27:5そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
サタンの呪縛から解けて、イエスを後追いしたのですね。
26:56しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」
その片耳を切り落した。 26:52そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 26:53それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 26:54しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」
ペテロを戒めています。
天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか?
聖書の予言通りに十字架につけられるのです。
聖書の言葉を成就するために、
何故、密告した弟子を憎むのか?
弟子を憎むより、成就したなら祝福なんじゃないの???
イエス様は、ユダを愛している存在であり、
ペテロを疑いの目で見てる存在であることを
ヨハネの福音書 21章 エピローグに書き添えたんですね。
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(*一部省略しています。書き起こしは時間がかかるので、誤字・脱字・変換ミス等はご容赦ください。「校正」より、記事のUPや 書き起こしに時間使っていますご理解ください。)