一般社団法人みらい

與那城 満氏 体験談

 

皆様こんにちは。私は一般社団法人みらいの與那城満と申します。

今回は、この素晴らしい場において大勢の方の前で、少し緊張はしていますが、お話しできることを光栄に思います。

これから話すことは、私の精神障がいについての実話であります。

私のお話を聞いていろいろなことを感じ、私の思いなどが皆さまに少しでも伝われば幸いです。

 

今から26年前、私は福岡にある大学にかようごく普通の学生でした。

1年目はごく平穏に過ごしていましたが、2年目からは先輩よりいじめを受けてアパートに引きこもり状態になり、受講へも参加せず、部屋から出るといえば近場のコンビニで食料を買いに行く時だけでした。

 そんな生活が1ヵ月ほどたち、私に異変が起こりました。

当時の私のニックネームはみっちゃんでしたが、ある時急に8階のベランダのほうから

「みっちゃん、何してる」「みっちゃん最悪」

などという謎の声が聞こえてきました。初めはさほど気にはしませんでしたが、その謎の声は日に日に増していき、頭が壊れそうなほどになりました。

 その謎の声は絶対誰かが妨害電波を発しているんだと思い、おじさんの住む横浜へ逃げました。

おじさんの家で一泊しましたが、朝になると「おじさんに迷惑をかけてはいけない」と思い、福岡へ戻ることにしました。

なんとか博多駅についても状況は変わらない。仕方なくビジネスホテルにチェックインして部屋に入り、あることを決断したのです。

それは、沖縄の伊江島の実家へ帰ることです。

翌朝、飛行機に乗り那覇空港へ着きました。しかし、まだ誰かが追っかけてくるのです。私は伊江島の実家へ着き、すぐに母に事情を説明しました。

それから1週間後、「僕、病気かもしれないから病院へ行きたい」と母に言い、母と一緒に病院へ行きました。

 初めての精神科受診でドクターから告げられたのは「與那城君、聞こえるものは病気なんだよ。この病院には君みたいに幻聴で苦しんでいる患者が多いよ」でした。

そして入院生活が始まりました。

私は一日目で病院生活が怖くなり、ナースに頻繁に苦しいから退院したいというと、筋肉注射をうたれるだけで、しまいには主治医が勝手に閉鎖病棟という刑務所のような外気をも遮断された病棟に無理やり入れられました。

私はその主治医に反抗するとまる1日、牢屋のような保護室に入れられました。

閉鎖病棟の患者の中には裸でお風呂から出てくるもの、大声で軍歌を歌うもの、そしてシンナーを吸う患者などがいました。

 毎週金曜日は主治医の面談日でしたので、私は早く開放病棟へ移りたくて一番初めに面談をしていましたが、主治医は毎回

「與那城君はまだ落ち着きがないから閉鎖病棟で治療します」

と言われるだけで、もう開放病棟には行けないだろうと思い、さじを投げて面談も期待はしなくなりました。

どんなに調子がよくなっても主治医は私の状態を知ってはくれません。

医者は患者の体調を全ては把握していないのが現状です。

私は閉鎖病棟で調子が良くても開放病棟へはいけないのならそれでいいやと思い、閉鎖病棟で生活を送る日々が続きました。

 煙草をくれだとか、空き缶で手首を切るものを目の前にして、何とかしてこのひとたちもいつかきっと私が救ってあげたい。こんなにつらい思いをしている人たちを救いたいと真剣に心から思いました。

 

それから7ヵ月が経ち、何とか開放病棟へ移されました。

自由って天国だと思はしましたが、病院側の規則・制約に私は違和感を感じていました。しばらくして、出会ったのが前の妻です。

彼女はアルコール依存症で、私と同じ伊江島の出身でした。

3ヵ月くらいがすぎ、彼女が先に退院することになりました。

彼女は、「私は季節労働で名古屋に行くからあなたと私の二人部屋を予約しておくから来てね」と言われたのです。

彼女は退院し、名古屋についてから病院にいる私に誘いの電話が1度だけありました。しかし連絡はそれで最後でした。

会いたくてどうしようもなくなり、友達から5万円を借り、病院から逃亡して飛行機に乗り名古屋へと向かいました。

名古屋空港に着くと私の知っている人は誰一人としていません。

彼女の家まで行きましたが会うことはできず、私は途方に暮れアパートのビルの1階にある居酒屋でビールを飲んでいました。するとなんと彼女がやってきたのです。

二人ともびっくりしましたが、その日はお酒を飲みながら病院から逃げてきたことなどの話をしました。

その2日後、私の仕事が始まりましたが彼女はすぐに仕事をやめました。アパートは会社に相談して、私が仕事を続けるのなら、そのまま彼女と一緒に住んでもいいということで、二人の生活が始まりました。

夜勤明け、私が朝8時に仕事から帰ってくると、彼女はすでにお酒を飲んで酔っていました。彼女は起きている間ほとんどお酒を飲んで酔っていました。

そしてある時、二人でお酒を飲んでいるときに彼女が

「ごめんなさい、私あなたの会社の同僚と寝っちゃったの」

と言われ、私の怒りが爆発しました。

 

そしていてもいられず、彼女と二人沖縄の伊江島へ帰ってきました。そのころには名古屋で酒代に使った借金が利息がついて75万円あり、借金の取りたての電話が毎日ありました。

私の障がい年金などを使いなんとか全額返済しました。

 伊江島に帰ってきてしばらくしてから彼女はスナックで働きました。そして数か月後のある日に

「ごめんなさい、私10人の男と寝たの」

と言われて頭の中が真っ白になりました。

こんなに尽くしても自分の思いがつうじないのか、そう考えると辛かった。

それでもいつかは私の思いが伝わって幸せになれるんだと信じ続けました。

信じて信じて真実づけることで幸せになれるんだと、どんなことがあっても15年間信じました。

 10年たったある日のこと、スナックの帰りに原付バイクにのって家に向かった時のことです。私の後から彼女がついてくるはずでしたが、バックミラーを見ても、彼女のバイクが映らないのです。

Uターンして戻ってみると、彼女がなんとバイクで事故を起こして路上に倒れていたのです。

病院に搬送されたものの、両耳負傷、片足・片腕不自由になりました。一人では歩くこともできず耳も補聴器がないと聞こえない身体障がい者になったのです。

私は、彼女の世話をするために、お風呂を入れてあげたり、料理を作ってあげたり、夜中から尿を漏らした彼女の紙オムツを変えてあげたりと、大変な日々をおくっていました。

それでも彼女は酒を止めませんでした。

それから時が過ぎました。

彼女は精神と身体の苦痛を訴えながら睡眠薬を大量に飲んで、帰らぬ人となりました。

私は、悲しかった。どうしょうもない現実から逃げたかった。もう、行く場所もない。

仕方なく、彼女の死後、沖縄本島に出てきて今の妻と結婚と巡り合いました。

 前の彼女は身体障がいとアルコール依存症という二つの障がいを持っていましたが、今の妻は睡眠障害だけで私の体調が悪い時には優しくメンタルケアをしてくれます。

そして、伊江島にいたころにはありえなかった仕事ができることに、大変自分は成長したと実感しています。酒浸りの毎日から一転して、今は一般社団法人みらいという事業所で仕事をしています。みらいは妄想性人格障害、双極性障害、発達障害、アルコール依存症、うつ病、などの職員でいっぱいで、始めは「この事業所大丈夫かよ」と内心不安でした。

しかし、しばらくみらいに通っているうちに、私は病気になってよかった。こんなに苦しんでいる人がたくさんいることを知ることができてよかったと思います。

 理事長がよく口にする言葉で「これからは弱者が健常者を救う時代が来る」という口癖は私の生きる過程において大変な勇気をもらいます。

 そしてホームページも作れるようになったのは何よりの財産です。私のホームページを見て県外からも沖縄に移住してみらいに入所したいという連絡がかかってきます。

そしてホームページ作成の依頼が増えており、自分が誇りに思えるようになりました。だからこそ自分の人生をかけて仕事ができます。障がいは隠れた才能だと実感します。

障がいを持っていることで不安もあり、お金もありません。でもお金がないから遊ぶこともできず仕事に夢中になれるのです。

 またもう一つみらいに入って得たものがあります。それは共に歩む真の仲間がいるということです。

皆いろいろな障がいを持っていて弱いので、それを互いに助け合うことが本当の幸せだと思い、他の人を助けたいと思えるようになりました。

 共に歩む真の仲間がいること、それを互いに助け合うことが大切だと思い、自分も他の方を助けたいと思えるようになりました。

どん底からはい上がった私でさえ障がいを持ちながらも頑張れるのだから、他の方々も自分に自信を持てば、絶対に負けずに社会貢献できるはずです。

皆で助け合い、新しい社会を私たちで切り開いていこうではありませんか。

以上でわたくし一般社団法人みらい與那城満のお話を終わらせていただきます。

最後までお聞きくださり誠にありがとうございました