ブロードバンドじゃなくて、

トヨタのミニバンでもなくて、

ブリジット・バルドーです。


女性ファッション誌を読むと必ず馬鹿の一つ覚えみたいに

ブリジット・バルドーかオードリー・ヘプバーンか、という比較対象で

ファッションアイコン的に扱われているのをご存じでしょうか。

私ははっきり言ってどっちもどーでもいい!

だってどっちも嫌いだもん。


オードリー・ヘプバーンは嫌いなりに一応『ローマの休日』とか『ティファニーで朝食を』とか『マイ・フェア・レディ』とか代表作はざっと見ていたのですが、

実はBBに関しては『可愛い悪魔』くらいしか見たことがありませんでした。

もちろん、ロジェ・バディム監督の許で家にいるときは常に裸でいるとか様々な調教を受けたというような悪趣味なエピソードくらいは知っていましたが、

何も見ずに判断するのもだめかな、と思って、

デビュー作の『素直な悪女』をTSUTAYAで借りてきました。


で、とりあえずの感想。

確かにたぶんああいうタイプに弱い男性は多いかもしれない。

でも実は、ああいうタイプをオカズにはするけど

最終的には敬遠する男性の方が多いんじゃないかな、と思います。

映画の結末の通り。

(・・・このへんがほんとロジェ・バディムずるいよ、と思う。)

そして女性はあんなのを小悪魔とか言って迂闊に真似したら、

間違いなく痛い目に遭うと思うし、

間違いなく痛い女扱いされます。

彼氏なんか絶対にできません!たぶん。

真似するなら体型だけですね。無理だけど。ウエスト49cmって!


要するに人としての魅力はとりあえずおいといて、

男にとっての女の魅力だけ純粋培養して、オカズとしてどーぞ、という感じで出した映画なんだな、という感じです。

いまどきの感覚から言うととっても奥床しい露出やらベッドシーンやらなのですが

公開された当時としては相当ショッキングな作品だったらしいです。

愛妻の裸を映画で見せびらかすなんて何て廉恥な!と随分物議を醸したそうですが

(そういえば破廉恥なんていう単語、最近聞きませんね)、

この時代のこのような映画によってモラルが崩壊したおかげで、

今の男子諸君が数々のポルノグラフィの恩恵に与っているのかもしれません。

男子達は感謝した方がいいかも。

でもこの手の映画以降、女優さんは肌の露出を要求されることが確実に増えたでしょうね。

女性には大変な時代になったもんだ。

・・・でもま、私はおっさんなので眼福ということにしておこう。(いいのかよ!)



ヌーベルバーグだとか真面目腐って構えて論じる方々(元東大総長様とか)が多いので

ビビッてフランス映画を敬遠していたのですが、

見てみれば何のことはない、ただのエロ映画でした。

いや、ただの、じゃないとは思うけど。


確かにプロットとかカメラワーク、間の取り方等々いろいろ分析すれば面白い物が出てくるのかもしれないし、

スノッブな方々がご大層な理屈を付けたがりそうなややこしさ満載ですが、

何かそういう変な後の引き方をする映画は個人的にはあまり好きではないですね。

もっともらしいヒントをてんこもりにして、

評論家なんかがもっともらしそうに「この場面でBBがオレンジを落としたのは・・・」とか

分析すればするほどロジェ・バディムの術中にハマっているんだな、と思うと

実にけったくそ悪い映画です。

どーせ意味なんて無いか、あってもどうでもいいことなのにね。

なので、ここは能天気にBBのボディ観賞を楽しむのが一番だと思います。



ところで話がちょっと小難しくなりますが、

時代の移り変わりによってアンチテーゼがジンテーゼをもたらさず単にテーゼ化してしまう、という現象は実はかなり多いパターンなのではないかな、と思います。

BBの登場もたぶん当時としてはアンチテーゼとしての衝撃だったのだと思われます。

しかし今では冒頭でも触れた通りファッションの王道としての扱いを受けています。

BBがアンチテーゼだった当時のテーゼだった価値観は存在したことすら忘れられてしまっているようです。

アンチテーゼがテーゼ化した場合、多くの人は深く考えずにそれをジンテーゼだと思い込む傾向がある気がします。

つまり、テーゼ化した時点でそれがもう結論だとして、それ以上の問題意識が無くなってしまう、という現象です。


たぶんBBの登場は、それまでの画一的な「女らしさ」を打ち破って「女」の生々しさを表現した画期的な映画だったのだと思います。

脚を広げる、大口を開けて笑う、汚い言葉も使う、欲を持って生きている生身の人間であることの魅力は確かにありますが、それももうだいぶ使い古されてきた価値観のように思います。

流行りのピークは山口智子・今井美樹あたりかな。

で、今はやっぱり「女らしく」ならなきゃ、という揺り戻しが来ているけれど、

そこでやっぱりオードリー。

とりあえずオードリー。

最近はグレース・ケリーも来てるけど、やっぱり断トツオードリー。

永久不滅オードリー。

繰返しじゃん!


そろそろ、BBとオードリーをアウフヘーベンしたアイコンや価値観が出てきてもいい頃かと思うんですけど。

心ある一部の雑誌では模索中みたいです。

楽しみにしています。


というか今改めて思ったんですが、

私の癖として、テーゼだと思われていることを、初めからそうじゃないんだ、

こういう見方も価値観もあったんだ、次はどうするんだ、こんなのはどうだ、というのを

確信犯的にやらかすのが好きなんだな、と。

人の投げないところに(ど真ん中とかね)投げるのが自分のポリシーなのですが、

テーゼとかちょっとインテリぶった単語を使うと意外と簡単に説明できるもんですなぁ。

ま、もっと簡単に言うと、


天の邪鬼


っていうんだ!失礼!



あと、余談ながらというかこれまた全然話が変わるのですが、

時代推移のよるアンチテーゼのテーゼ化という意味では、

法律は常にそういう状況に晒されているといっていいでしょう。

法律には必ず作られた当時の社会背景と価値観が反映されているものです。

今までOKだったものをNGにする法律を作ったらその時点で、

アンチテーゼとテーゼが入れ替わるという宿命を持っているのが法律なのだと思います。

あることが法律化されると、それが最終的な解決や結論だとしてそこで思考停止してしまう人はとても多いのですが、

それは必ずしもジンテーゼではないということにもっと多くの人が気付くべき時が来ている気がします。


法律家や立法に携わる人がするべきことは2つ。

1つは、その法律が作られた時代背景を正しく理解し、現代との違いを的確に把握する眼を持つこと。

そしてもう1つは、その違いの中から、時代が変わっても本当に変わらないものは何か見極める努力をし続けること。

要するに、人間とは何か、という問いを忘れないことだと思います。



・・・ていうかロジェ・バディムの策略にはまってまんまとこれだけ長々書いているってのが実に、実にけったくそ悪い!

あぁもうこれだから考えさせられる映画って嫌!!(←おすぎ風に


口直しに韓国ドラマ『フルハウス』の続きでも借りてこよ!

じゃ!