こんばんは😊
ゴキゲン波動コーチ みかりん です。


自己紹介も、4回目を迎えました(*ˊ˘ˋ*)

ここまでお読みくださっている
あなたに感謝です😊

ありがとうございます❤

ここからが
本当の自己紹介かもしれません笑


✨✨✨✨✨✨✨✨

私は1971年、昭和46年の6月


高校の体育教師をしていた父、
宗教ではない教えに
ハマっている母の元に
四番めの次女として生まれました。

そこは海が見える青森県の小さな漁師町で、学校から帰宅すると

サザエとりに出かける小学生の兄を見ながら

スクスクと育ちました。



一見普通の家庭に見えますが
ひとつ違ったのは
専業主婦である母はいつも家に居なくて、
朝早くから夜まで会の活動に勤しんでいたため
保育園から帰宅しても
誰も私を迎えてくれてなかったんですね。

普通、保育園は
お家の人が園まで迎えに行って
帰ることになります。

が、私の家の場合は母も、当然父も誰も迎えに来ないので
私はひとりで、勝手に歩いて帰っていました。

お母さんが迎えにきてくれている、
他のお友達を横目で見ながら。。

母が活動している会の教えでは
「捨て育て」と言って
母が会の活動に勤しむ間に
小さな子どもをひとりで自宅に置いたり、
保育園が休みの日は
近所のご家庭に預けたり
ということが教えにあったようで

そんな環境だったので私は、
ひとり遊びが得意だったり
ひとりで留守番して

家族が帰るまでひとりで過ごすことが多い子どもでした。

私のいちばんの良き理解者の姉が
小さい頃から家にほとんどいなかった母に代わって
家族のご飯を準備したり
家事をこなしたり、
私や妹の世話をしてくれたり
していました。

なので昔から私は姉を母のように感じていました。


子ども心に

私は将来もし、結婚し子どもができてお母さんになったら


保育園に子どもを迎えに行く

お母さんになろう!と

強く強く決意したのを覚えています。


何故なら

迎えにきてほしかった、

寂しかった、


私と同じそんな気持ちを

子どもには絶対に味わってほしくなかったからです。


会の教え、捨て育ては

どんなに素晴らしいものかは

わかりませんが

この感情だけは子どもには

絶対に味わってほしくない!


そこだけは

絶対に叶えようと思っていました。



成長するにつれて、両親から
教えを守るように言われたり
親孝行の大切さを刷り込まれて、

親孝行をしないと
親を喜ばせないと
不幸な人生を歩むという価値観が
成長とともに大きくなりました。

こうしなきゃ、
こうであるべき、
これをしないと不幸になる

などなど。。

子ども心に
私は将来もし、結婚し子どもができてお母さんになったら

保育園に子どもを迎えに行く
お母さんになろう!と
強く強く決意したのを覚えています。


会の教え、捨て育ては
どんなに素晴らしいものかは

わかりませんが



この感情だけは子どもには
絶対に味わってほしくない!

そこだけは
絶対に叶えようと思っていました。

そして

大人になり夫と結婚し(今では離婚しましたが)

四世代が暮らす

農家の長男の嫁として

昔の風習やしきたりが色濃く残る

集落に嫁ぎました。


やがて

子ども達を保育園に迎えにいける母になり

家に帰ると私以外の家族もいるため

子ども達には寂しい思いをさせなくて

よかったなぁと心から感じていました。


嫁ぎ先の地域は

閉鎖された狭い世界の中でした。



そんななか、会で教わった

「良妻賢母」になろうと

必死になっていました。

良妻賢母にならなければ
生きている価値なんてないとさえ
思っていました。


ただ、良妻賢母になったら
周りから認めてもらえる、

良い嫁、良い妻、良い母になることだけが、ぼんやりだけど

自分の目標だったとも言えます。



やがて子ども達も成長し
家から離れて都会へ出たら
巣立ち症候群?なのか

子どものために
一生懸命だった私が
急に生きる力みたいなものが抜けて
毎日どうやって過ごしたら良いのか?
わからなくなってしまいました。

生き方がわからない、とは
どういうことかしらと
自問自答の日々です。

自分の好きなこと
興味あることをやってみたり
スピリチュアルの本を読んでみたり。。

でもどこにも答えはなく。。

人生このまま、
何も知らず、何もしないまま
終わっていいの?

本当にやりたいことって
何だろう?とか
ここで初めて自分と向き合うことになるのです。


そこでついにある決意をし、
以前から旦那さんと離婚を考えていたから
それを決行することにしました。

しかもこの離婚も
普通の離婚じゃなく、
エネルギーをあまり使いたくなかった私は
「明るい離婚」をゴールに設定し、

当時から学び始めた
NLPのワークをヒントに
明るい離婚に持っていくように
計画しました。

このへんのことも
ブログで紹介していきますので
楽しみにしていてくださいね。

そしてワークの通り、
明るい離婚に快諾してくれた旦那さんと、

当時はまだ別居という形で家を出て


住み慣れた青森を出て

旅館の仲居として、不安と期待を胸に見知らぬ土地

三重県鳥羽市に移りました。

49歳の金なしコネなし人脈なし
特技もなし、荷物も僅かの
第2の人生が始まったのです。