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ついに、いくちゃん覚醒!
お呼びでない。だれもいくちゃん(生田魅音)など知らない。
でも、しゃしゃり出るのです!
『邪馬台国論争』にいくちゃんもの申す。

 卑弥呼の都が、纏向だったのか、吉野ケ里だったのか、はたまた別のところにあったのか。決定的な結論は今なお得られていない。それは『魏志倭人伝』の「南至る、邪馬台国。女王の都するところ。水行十日、陸行一月」が指し示す所が、九州内にはおさまらず、畿内方面には方位を変更せねばならぬからである。これが原因で、邪馬台国はどこにでも主張できるということになって、各研究者がそれぞれに持論を展開できる「邪馬台国論争」が今日まで続いている。説得力があるように論じても、結論は出ない。それが「邪馬台国論争」である。そうして二〇一八年四月、私は、邪馬台国論争の決着は、未来永劫不可能だと思い至った。各地の学芸員さんとのやりとりで、これ以上の遺跡の発見、卑弥呼に関連する遺物(魏から貰った銅鏡・金印・封泥のある箱など)の発見は困難で、発見されてもその地が邪馬台国だと結論づけられることはなお困難だと思えるからである。特に、九州からの遺物の発見は、マスコミの取り上げが弱く、学界からも無視される傾向にあるらしい。
 私は『大和説』『畿内説』の主張にも耳を傾けてきた。意見は当然尊重しなければならない。だがその中には、根拠や証拠を示すことなしに、勝手な言い分、畿内にあって当然だ的な発言や著作が少なくない。興味本位、お国自慢で書かれた本や、デタラメの上に平気で嘘を重ねたようなネット上の記事・ユーチューブを多く見かけてしまう。畿内論者は、前方後円墳のはじまり(箸墓)を邪馬台国が在った根拠とする。また三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡だという。数多の桃の種の出土は卑弥呼が鬼道に使った証しだともいう。いちいち検証することは割愛するが、魏志倭人伝との整合性や年代の適正はあるのだろうか。とにかく、畿内説は無理矢理感が否めない。我が国の古代史で、聖徳太子とならんで人気の高い卑弥呼なれば、「卑弥呼をわが故郷へ」と思う気持ちがわくのであろう。だが、結論を得るには、あくまで客観的に調査された事実に基づいて、合理的な解釈に基づいて判断すべきである。歴史学者や考古学者であれば、そのようなことは至極当然なことである。そういう私もじつは、三十五年ほど前までは奈良県大和に卑弥呼の都があったと信じてきた。しかし、その考えを一変させたのは、まさしく吉野ヶ里遺跡に出向いた時である。弥生時代の暮らしをありのまま示す吉野ヶ里は、まさに卑弥呼の育った処にふさわしい。残念ながら、纏向遺跡は崇神王朝繁栄の都であり、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫のお墓である。日本書紀の記述に素直に従いたい。

 さて、いくちゃん著『卑弥呼物語~愛の誓約(うけい)』は、8月1日に発売となります。(歴刻文庫・446p・¥2970)

※自費出版本1冊印刷製本代¥5100かかってしまいました・・・
本代高めで恐縮ですが、ご協力お願いします。

さらに、各地の書店に並ぶわけではありません。自費出版本で、なかなか取次が相手してくれません。読んでみたい方は、お手数ですが、歴刻文庫事務所にお電話下さい。送料無料で御送りします。

 



 

 

私が本物語のなかで、カリン(卑弥呼の幼少期)が倭地の方々を旅するように設定したのは、ムラを巡り、クニを渡って、人々の暮らしを知ることの大切さに気づいたからである。卑弥呼(カリン)は、ムラを生かし、暮らしを守り、クニが築いてきたものを大切にした施策を行ったからこそ、当時三十国の民から支持されたのだ。カリンが旅をする場面を描きながら、ふと「当時の人々の往来は如何ばかりであったのだろうか」と思った・・・ 旅の手段は・・・船だけ・・・陸路は徒歩だったのか・・・寅さんならば、汽車もタクシーも飛行機も利用できるが、弥生時代の卑弥呼は、そうはいかなかった。当時の倭地には馬も牛もいなかったと魏志倭人伝にある。はて、卑弥呼の施策の伝達方法・・・伊都国にあった「一大率」への伝言・伝達は・・・ 遠く大和の地からでは、かなり難しかったはず・・・大和と筑紫は遠く離れ、ほとんど交流はなかったのではないか・・・そうか、大和の王権は、九州を支配するには至ってなかったのだ(事実、纏向遺跡からは九州北部の土器や半島系の土器は出土していない)と私は重大なことに気づくことができたのである。
 この交通・伝達の問題を直視したとき、私は伊都国からそう遠くない所に「邪馬台国」はあったという結論に達した。
当時の船や徒歩であれば、大和から筑紫までの片道を、ひと月では足りない時間がかかったであろう。大和の卑弥呼がどのように伊都の一大率と連絡を取り合っていたのか。そのことが明らかにされない限り、私は、九州説をとる。

都の場所を決定し、卑弥呼の人となりを描く
 『卑弥呼物語』執筆の基本情報元は、魏志倭人伝、古事記・日本書紀、各地の遺物や遺跡の状況から分かること、さらに各地に残る伝承である。しかし、卑弥呼の生涯を書いていくことは困難を極めた。弥生時代後期晩期の人々の暮らしを描き、卑弥呼の生い立ち、卑弥呼が「共立」されるに至ったいきさつ、卑弥呼の家族・功績、狗奴国との戦いなどを描くにあたり、想像たくましく描いているところは多々ある。カリンの祈祷の術は、鬼道となり、人の心が読め、神の声が聞こえる能力を持って、人々を導いたと描いた。物語では、出雲・吉備連合軍の八俣や大和のニギハヤヒとの対決で、卑弥呼は銅鏡の不思議な力で危険を乗り越えている。そして、卑弥呼は、高牟礼(筑後平野とその周辺)からとおく大和や東海の地まで、影響力を及ぼしていたと設定した。出雲や大和などには徴税はしていなかったにせよ、三十国のうちであって、女王の施策を受け容れていたとした。これらの設定は、ほとんど事実ではないと思っているが、ドラマチックに物語を綴る上で核となるところである。
 そもそも卑弥呼の父母はどのような人物であったのだろうか。『魏志倭人伝』には何も書かれていない。それを解くカギは『古事記』『日本書紀』にあった。イザ・ナギとナミを両親として、月読(アマミツ)と素戔嗚(スサオ)の二人の弟を家族だと定めること、これが一番自然だと私には思えた。すなわち、天照大神の正体を卑弥呼だとすることを、作品の根幹に据えたのである。実際、福岡市西部の吉武高木遺跡に行けば、最も古い三種の神器の出土を見、稲作が古くから行われていた地だと分かり、此処がナギの前王の都が在ったところだと思い到った。さらに、記紀によれば、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にて、三貴子は産まれたとあるので、《小戸》を調べたら、現在の福岡市西区小戸辺り(伊都国の東部)だとする説が有力だと分かった。ナギ・ナミは、吉武高木の地から伊都国の三雲井原へ都を移し、その後伊都国は代々王をだし栄えたと私は捉えた。そして、母ナミやカリンが使っていた鏡こそ、巨大内行花文鏡である。我が国最大の銅鏡が発見された平原遺跡一号墳(現在の糸島市)こそ、母ナミの墓地であろうと私は確信を持つことができた。そこで、ナギ王子とナミ姫の出会いから物語を始めることとし、ナギは伊都の王子、ナミは出雲の姫という設定にした(三雲・井原遺跡の発掘に携わった地元のタクシードライバーによれば、「伊都は古代より出雲との繋がりが強く在った」とのこと)。そうして、ナギとナミのふたりは、結婚して夫婦となり、三貴子が産まれ、王と妃となっていく。いつの時代も親は子を想い、時に笑い、時に涙して、子どもの成長を何よりも考えて生きていく。そのような人間らしさを描くことに私は努めた。
 人間らしさといえば、アマミツ(月読尊)もスサオ(素戔嗚尊)もそれぞれに個性的である。アマミツは長男で両親からも王室の家来たちからも尊重され、いずれは伊都国を中心に倭国を統一する王として期待されて育った。しかし、アマミツ自身は、これが全く面白くなかった。周囲の期待に反発し、吉野ヶ里で土木作業の技術者としての腕を磨いていくのである。真面目で堅実なアマミツ王子だが、反発心と好奇心の強さから、王となることはきっぱり棄てて、土木作業の道を選んだと私は決め込んだ。そして、姉カリンこそ大乱の世を纏めきる王になると彼は思い、全力を挙げて姉の右腕となって内政に力を注ぐのである。三貴子のうち月読(アマミツ)の存在が薄いと感じる理由も、縁の下の力持ちに徹したからだと私は思うのである。一方、スサオは、わがままで、甘えん坊。荒くれだが、母想いの一面もある。そうして父の依頼をきっかけに安曇氏、宗像氏の元で海の男に成るべく修業を積んでいった。彼の航海の技術はまさに倭国一となったのである。この航海の技術力と海を知り尽くした男の力が、のちに一大率として、さらに、魏への朝貢の遣いとして発揮されていくのである。後世、素戔嗚尊として人々の信仰を集めた理由も、倭国の軍事と外交の礎を築いた英雄であったからだと私は思う。
 そして「鬼道」について。弥生時代の人々の間に芽ばえた豊作を願う祈りのなかに太陽の恵みへの感謝があって、母ナミと卑弥呼によって鏡を用い日神を呼び寄せ、日神の声を聞くことで施策を決定する能力に昇華したのだ。民の間でも森羅万象信仰から日神信仰に変わっていったと捉えている。鬼道とは「祈道」のことで、のちに神道と呼ばれる。自然と神とを一体として認識し、神と人を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀をとり行う者が巫女で、聖域とされた神籬で行われた。自然の恵みと自然の猛威とに向き合う祈りの姿こそが、祈道である。その背景には、稲を神となしそれを育む太陽をお日様と崇めた倭人の心、生命が産まれくる不思議さに畏敬の念を抱く縄文の心が存すると見なければならない。私は、伊都国や奴国を中心に祈道は広まり、やがて、ムラごとに銅鏡を置いて、銅鏡を太陽に向けて祈りを捧げるかたちの祭祀が行われていたと考えている。
 また、卑弥呼には元の名前があったとすべきであろう。物語を書くに当たって私は便宜上カリンとした。そして卑弥呼とは「日巫女」のことだと私は思う。日巫女だからこそ「七,八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年」をおさめることができたのだ。大乱の世を鎮めきる祈道の力に、人々は大いに期待したのであった。
 共立とは何か。邪馬台国論ではよく話題になる。しかし、「各国の豪族たちが鬼道の力に怯え、なんとなく卑弥呼共立に応じた」という考えでは私は全く納得できない。弥生時代の人々は決して愚かでも未開でもない。三十国の豪族が私利私欲を棄てて大きな纏まりを選んだのには、相当の理由があったはずである。何故、一国をかまえた豪族が「共立に応じた」のか。それは、卑弥呼を愛してやまぬ圧倒的な民の声があったからだ。しぶっていた諸国の豪族たちを突き上げたのは、圧倒的な数の民だった。この理由でなければ、共立は成り立たず、平和が訪れるはずもない。そうして私は、倭国大乱の最終戦争を、出雲・吉備連合軍の筑紫方面への侵攻だとしたが、これが歴史的事実だとは思っていない。ただ、吉備の豪族(王)においては、半島や大陸への海路の確保は絶対必要であったと思うし、鳥取市の青谷上寺地遺跡の老若男女百九体の人骨には、鋭い武器で切られたり刺されたりした殺傷痕が見られることから、出雲地方と吉備地方との激しい戦闘があったと言えなくもない。戦乱をおさめ連合に成功した出雲・吉備は、北部九州攻略に打って出たのだと私は考え、物語に組み込んだ。「女王卑弥呼の誕生」は「倭国成立」という歴史的大事件だったのである。
 私は、卑弥呼の幼少の頃は吉野ヶ里の先生について修業して祈祷師になったとした。私の描く卑弥呼は、心優しく思いやりのある、人の為に尽くすことを厭わない正義感の強い人物である。旅に出た目的も、困っている人々・対立する人々の間に入って解決に努めるためだとした。女王となってからも人々と行動を共にしていたのである。歳長大となった女王も、人の子。恋に落ち、ひとりの男性(陽炎丸)を愛した。さすがに晩年は病に苦しんだであろう。卑弥呼の直接的死因は、私は病気(老衰)だと思っている。
 さて、いよいよ卑弥呼の居た場所を特定せねばならぬ。「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」という魏志倭人伝の記述から、佐賀県の吉野ケ里遺跡こそがもっとも有力な候補地だとしなければならない。大規模な環濠を持ち、強靱な城柵を構え、立派な楼観そびえる吉野ヶ里遺跡。ここに至り、私は、卑弥呼は、伊都国に産まれ、吉野ヶ里で育ち、女王となってからは高良山にその居(王城)を構えたという結論に達した。吉野ヶ里から北にある背振山系を一気に越えれば、伊都国に到る。また、吉野ヶ里から高良山までは十七kmぐらいである。「王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ」という記述から、平野部に王宮が在るというよりは小高い山の上に在って、民はめったに見ることの出来ない王となったのである。私は、吉野ヶ里の周囲の小高い山をずっと探してきたが、高良山がもっともふさわしいと感じた。
 高良山中腹に鎮座する高良大社は、九州最大級の神社建築であり、古代から筑紫の国魂と仰がれてきた。主祀神は、高良玉垂命。近くに存する伊勢天照御祖神社と併せて、この山が古くから信仰の対象となってきたことは間違いない。また今日、本殿に合祀されている豊比咩神社の祭神豊比咩大神こそ、台与(壱与)であろう。さらに、卑弥呼が実際に住んでいた王室は、高良山頂付近にある⦅奥の院⦆に存したであろうと考える。卑弥呼は、勝水といわれる霊泉を生活用水として利用し、山頂から倭国の民の暮らしを窺い見ながら、ここで祈祷をし、側近の弟(アマミツ)や愛人である男(陽炎丸)に命を下していたのである。
 そして、魏志倭人伝言うところの、一大率及び難升米を素戔嗚尊(スサオ)とすれば、魏志倭人伝と日本書紀双方の記述に、おおむね矛盾せずに歴史物語が描けると思いついた。伊都国については、「代々王が有り、みな女王に従属している。帯方郡の使者が往来し、常に駐留する所である」との記述がある。三貴子が伊都の出身であるとする私の説であれば、代々の王が従属し、のちに倭国外交の拠点である一大率をここに置いた理由の裏付けにもなると思う。
 さらに自説を披露すれば、卑弥呼の墓は、高良山の麓にある祇園山古墳に比定するのがよいと思っている。この古墳から出土した甕棺は、伊都産の物だとされ、埋葬者は女性であったと結論づけられている。古墳の周りには殉死者のものと思われる小型墓が多数見つかっていて、殉葬のかたちが明らかな弥生時代末期の古墳は此処だけしかない。残念なことに、九州自動車道建設のため、一部が破壊された。私が診たところでは、かなり昔から破壊や盗掘が続いていたと感じる。じっさい、墳頂部箱式石棺は大昔に盗掘を受けており、内部の副葬品は失なわれている。現在、福岡県指定史跡に指定されているものの、古墳やその周辺の保存は十分とは言い難い。早急な対応を関係各位にお願いしたい。
 そして、倭国の南には、ライバル狗奴国があった。私はその範囲を、現在の熊本県から鹿児島県、宮崎県に及ぶ連合国家だったと捉えて物語に書いた。王都は、免田式土器が多く出土する熊本県あさぎり町に在ったと考える。そして、軍長の狗古智卑狗(菊池彦)は、倭国攻略の拠点を、方保田東原遺跡(熊本県山鹿市)に置いたとした。方保田東原遺跡の発掘は、まだ全域の五パーセントほどしか進んでいないとのこと。それでも、非常にめずらしい圧倒的な数量の土器が出土し、さらに鉄製の石包丁や多くの鉄鏃、鉄剣の出土を見ている。つまり、戦いのための道具を使用した数多の人々が住んでいたのだ。ということは、この地こそ狗奴国の前線基地だと言えまいか。国境を接し、卑弥呼は、いつ狗奴国が攻めてくるか、常に恐怖を感じていた。だからこそ、魏に使いを送り、皇帝のうしろだてを得て、狗奴国との戦いを何とか凌ぎきろうとしたのだ。
ちなみに、狗古智卑狗の墓は、方保田の某宗教施設内にある古墳がそうだと、私は睨んでいる。
 

 私は、卑弥呼が倭国の女王になれた理由、のちに天照大御神として崇められた理由を、次の六点とし、この物語を展開した。
○伊耶那岐命、伊邪那美命の子で、伊都の王女として生まれ育ったこと。元々高い位の生まれであったこと。
○母伊邪那美命の始めた銅鏡を使った祈祷を完成させ、その日神信仰は、多くの民衆を惹き付けたこと。
○稲作を広め、水田を各地に根付かせる施策をとったこと。米を主食とすることを列島各地に広めたこと。
○ムラに出向いて、民の声を聞き、暮らしを守り高めようとしたこと。それ故、民衆から圧倒的な人気があったこと。
○なによりも平和を愛する人だったこと。数十年にわたる大乱の世を鎮めた日巫女としての力は偉大であった。いがみ合った三十国の豪族たちが、卑弥呼でなければまとめきれないと認めたことは、倭国という統一国家を生んだという意味で、非常に大きい。
○女王卑弥呼は、稲作の技術や銅や鉄を作る技術、環濠集落や運河を作る技術などを大陸(技術者)から取り入れ、渡来人と現地人との争いを鎮め、「縄文と弥生のせめぎ合い」を、融合していった。

 

『女王卑弥呼の誕生』より

 


以上のような内容のいくちゃん渾身の力作『卑弥呼物語~愛の誓約』
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