一、
木を殺る。
木を伐るということは、木を殺るということにすら多くのことを含んでいる。
或いは木を育むことを含んでは、木を生るということでもあるし、そもそもが木のことだけに留まらないとすることには森林、林や森にまで広がる概念でもあり得る、ことを指してもいるわけだ。
そういうことを社会や制度のこと、更に言うなれば言葉にまで昇華されている認識が経験となる要であることを忘れているわけではない。
但し、そこには表象化されたスタイルやモードといった形や容となってすら意味している超越の臨界の姿に気づくのだろうか。
これらのことを、喩えて英語的な文脈構造で考えてみるならば、この風土や歴史の意味も、こうした意味すらもその森のうちにあるわけだ。
要するに自然の循環、自然界ということをそういうふうに考えている言葉の成立についてまで下りてみなければ現実の経験が見えないだろう。
一、
自らの招くこと。
理屈ではなくて呼吸すること、ヨーギは自らを招く、呼吸、ふたなりなのではなくて螺旋のように連なってみえている。 或いは、円環、死と再生のようにみえては繰り返しのことに過ぎないということ。
二つの際とか底のようにみえているのはなぜかをよく鑑みることだ。
自らの招き入れるということ。
一、
封印。
「人がうまっている。」
果たして、何処にヒトは埋まっているのだろう。
最近ではすっかりお馴染みの組織ソリューション、伝統的統治システム。
代表格の日本放送協会では、先鋭化する帝国主義に殉じてのご苦労絶えないのだろう。 線状降水帯によって今年も西日本方面で酷い災禍をもたらしている、その報道のなかでの一表現には、封印された痛みなのだろうかと訝しい。
もうひとつの封印では、死刑執行によって封じられたことに何を見出すのであろうか、島の民度は明らかなのだろうか。