焼肉弁当とコカコーラを買ってコンビニを出た。久しぶりに見た太陽は僕の日焼けしていない肌をじりじりと照りつけた。早くクーラーの入った家に帰ってアイスでも食べよう。汗をたらしながらそそくさとアスファルトの道路を歩く。踵を擦りながら歩いていると、小さい段差に躓いて変な歩き方になってしまった。少し顔を赤らめて俯きながら、また踵を擦って歩く。僕はわざと周りに聞こえるように舌打ちをした。今日は久しぶりに学校の授業に行った。このままだとダブり確定だから仕方なく、だ。久しぶりに教室に入ると何人かが「お、やっと来たのかよぉ」とか「心配だったんだよ」とか声を掛けてくれた。しかし、ぼくは「うん」としか答えられなかった。そこで会話は終了。予想はついていたんだ、こうなることは。チャイムが鳴り、先生が来ると、号令だけして僕はまたすぐに机に突っ伏す。それの繰り返し。気がついたら下校のチャイムだった。今日はたまたま試験前の午前授業だったみたいだ。――部活を辞める前までは授業がどんなにつまらなくても、休み時間に周りに話す友達がいなくても、惰性で学校に通うことはできた。「日本の学校教育は個性の芽を摘む」というのは本当にその通りだと思う。僕が通っているのは県内でも有数の進学校で、だからなおさら周りが向かう方向は一つしか無かった。僕は取り残された。日を重ねるごとに学校の授業を受けるのが辛くなった。部活を辞めてしまった以上、学校に行く意味なんて無い。そう思った次の日から僕は学校に行けなくなった。
公園に寄ろう。ふと思いついた。理由はわからない。ベンチに座って弁当を食べるのもいいかな、なんて思ってしまった。このくそ蒸し暑いってのに。平日の昼間にも関わらず、ウォーキングをしているおじさんや、犬を散歩に連れている若い女の人で公園は賑わっていた。都会では貴重な憩いの場だ。ぼくはイチョウの木の下にある小さなベンチに吸い込まれるようにして座った。一回大きな溜息を吐き、さっき買った焼肉弁当を開けるために下を向いた。すると、足元に猫がいることに気がついた。丸まって顔は見えないが、ピンと張った薄い耳と細くて長い手足と尾で明らかにシャム猫だとわかる。飼い猫にしては周りに人もいないし、首輪もしていない。きっと捨て猫だ。そう思うと虚しく なって僕はその猫をじっと見つめていた。――いや、違う。正確にはその猫から自分の意思で目を離すことができなくなっていたのだ。まるで金縛りにでもあっているかのように。不意に猫が顔を上げて僕のほうを見た。サファイアブルーの吸い込まれるような美しい瞳をしていた。やっぱりシャム猫だ――そう思った瞬間、意識が遠のいた。
目を開けるとまず、夕焼けに染まった空が目に飛び込んだ。陸上部の掛け声も遠くで聞こえる。しばらくしてから、ようやく自分の前に男が立っていることに気が付いた。
「やっと目が覚めたか」
男はそう言って右手に持っていた携帯電話をスボンのポケットにしまった。その携帯電話についていた木彫りのストラップが何故か懐かしかった。
「君、弁当を地面に落としてたからまさかと思って声をかけて、そしたら返事しなかったから救急車を呼ぼうと思っていたところだったんだ。」
男は少し早口でそう言った。
「あ、すみません」
僕はベンチから起き上がってペコリと謝った。不思議と汗をかいてはいなかった。気味悪く思ったが、きっと熱中症で倒れたんだと割り切った。ゆっくりと顔を上げて男の顔を見た。面長で眉毛が薄く、おまけに鼻が高い。同い年くらいに見えないことも無かった。僕はまた俯いた。
「あの、弁当は――」
「ああ、あそこのゴミ箱に捨てといたよ。もう食える状態じゃなかったからな」
面食らった。こんなにいい人が世の中にいたものか。
「ほんとに迷惑かけてすみません…あの…何かお礼をさせてください」
申し訳なさそうに言うと、男はニコッと笑って言った。
「じゃあ君の家に行って飲み物でももらおうかな。君、この近くの学校の生徒だろ。」
「はあ…まあいいですけど」
一瞬躊躇ったが、冷静に考えてみれば、お礼なんてできるほどお金も持ってないということに気づいた。
部屋に入ると一気に視界は暗くなった。カーテンを締め切った部屋のなかで、パソコンの無機質な光だけが唯一の部屋の様子を確認できる明かりだった。辺りにコンビニ弁当のゴミや漫画が散らばり、異臭が漂っていた。改めて思うことでもないが、すごいところで生活している。
「どうですか僕の部屋は。いい部屋でしょ」
僕はやけになって言った。知らない男だし、二度と会うこともないと思ったからだ。
「うん、本当にすばらしいね。早く麦茶でももらって帰りたい気分だよ」
男は薄ら笑いで答えた。
「じゃあ麦茶いれますね。」
僕はパソコンの隣にある腰くらいの高さの冷凍庫から麦茶を取り出そうとした。
「なんだ、君ってずっとつまらない人間だと思っていたけど、ひどく個性的じゃないか」
男は小さな声でそう呟いた。僕は麦茶を取らずに冷凍庫を閉じて、すこし声を低くして言った。
「それはどういう意味ですか。僕は個性って言葉が一番嫌いなんです。」
「だって、そっちの本棚には限定版の漫画が山ほど飾ってあるし、あっちには見たこともない種類のネコの写真が所狭しと貼られているじゃないか。こんなに面白い人間はなかなかいないと思うがね」
馬鹿にしてるんだ、きっと。
「そんなの個性でも何でもありませんよ」
男は急に大きな声で笑い出した。
「よくわかってるじゃないか。」
不意を衝かれた。本当に馬鹿にされるとは思わなかったからだ。男は僕に背中を向けて玄関のほうへ歩いた。
「個性ってのは人より多く”物”を持っていたり、価値のあるものを持っていたりすることじゃない。みんなはそれに不安を持っているようだけど、実際は何の価値もないことだ。…最も価値がないのは人の個性を馬鹿にする人のことだろう。その点、君はまだマシだと私は思うがね」
全くその通りだ。だから僕は部活をやめて、学校に行く意味どころか生きる意味さえも失った。でもそれを認めてしまったら僕はどうなってしまうんだろう。
「じゃあ個性って何なんですか」
男は玄関のドアに手をかけながら言った。
「さあね。人を勇気づけたり、楽しませたりできることなんじゃないか?君が捨ててしまった体操のように。」
扉は閉まり、部屋は静寂に包まれた。なんなんだよ…。僕は心の中で呟いた。
麦茶を飲んで、頭を掻きながらパソコンの前に座ると、隣の写真立てが目に入った。僕が体操部にいたときにみんなで撮った写真だ。これは確か、去年の夏合宿で撮った写真のはず。右から中山、藤田、僕、齋藤…。どうして忘れていたんだろう。僕は立ち上がって玄関に走った。齋藤は今年の2月、僕が部活をやめる直前に交通事故で亡くなった体操部のエースだった。面長で眉毛が薄くおまけに鼻が高い、あの男のことである。玄関のドアを開けて、勢いよく道路に出たところで僕は石に蹴躓いて転んだ。さっき躓いた何倍も足首が痛かった。今度は捻挫したかもしれない。「なんなんだよ」と声に出して呟いた。顔を上げて遠くを見つめると、昼間の公園にいたシャム猫が逆立ちをしながら道路を歩いていた。
