
「世界は誰にでも」
「門を開いて待っている」
前記事に続き…皮肉な表現という意味では、このあとに続く歌詞もまた皮肉ですね(^^ゞ
「平等の名の下に」
「請求書と一緒に」

まぁ、さらにその先を聴けば~歌詞は前向きな展開を見せ…
リスナーへの救いが用意されているのですが…
寛大さ、寛容さの代償に「請求書」が登場する歌詞は、桜井さんならではですね~

思考が負の側面にばかりとらわれてしまい、何をするにもやる気が起きないということ、、、誰にでもあるでしょう
そんな思考は、生産性がなく、手足の動きを止めてしまうものだから
そこにわざわざ光を当てて考えるより、
「ヘッドフォンで塞いだ」方が利口なのかもしれません
でも

考えずにはいられない「理不尽」を突きつけられることがあり
怒りを持つ理由は、はっきりあるはずなのに、言っても仕方のないことだからと…
理由がない振りをして
自分だけの「孤独な叫び」としておさめてしまう・・・
「悲しみの場所に灯された」光も、「にわか詩人の蒼い願い」に過ぎないという自分自身への無力感を味わいながら
「誰にでも」開かれた「門」を通れば「請求書」がやってくるという理不尽な世界に目を向けても、やはり無力な自分を思い知るしかなく
「やわな手足をもぎ取られた」
「バッタみたいに」
「もがく思い」
を抱き、「暗い目」をしてやり過ごす日常。。。
こんな風に暗い表現を畳み掛ける作り手の意図は何なんだろう?
再び、『かぞえうた』のときに語られた、桜井さんの言葉が思い起こされます…
“誰かを励ましたい、感動させたいという気持ちで音楽を作ることが、やましいことのような気がした”
――『もっと』も作品であり、巧みな比喩が用いられ、何らかの意図により構成されている
ただ、その意図とは、感動を売ることでも、励ましを届けることでもなく
悲劇が生んだ孤独の深さまで、まずは降りていこうとするものだったのではないかと、考えてしまうのです
―続く―