mimpi-DONのブログ @ミスチル20th-20120813215952.jpg


「世界は誰にでも」


「門を開いて待っている」




前記事に続き…皮肉な表現という意味では、このあとに続く歌詞もまた皮肉ですね(^^ゞ




「平等の名の下に」


「請求書と一緒に」


mimpi-DONのブログ @ミスチル20th-20120813215959.jpg


まぁ、さらにその先を聴けば~歌詞は前向きな展開を見せ…




リスナーへの救いが用意されているのですが…




寛大さ、寛容さの代償に「請求書」が登場する歌詞は、桜井さんならではですね~


mimpi-DONのブログ @ミスチル20th-20120813220005.jpg


思考が負の側面にばかりとらわれてしまい、何をするにもやる気が起きないということ、、、誰にでもあるでしょう




そんな思考は、生産性がなく、手足の動きを止めてしまうものだから




そこにわざわざ光を当てて考えるより、




「ヘッドフォンで塞いだ」方が利口なのかもしれません




でも


mimpi-DONのブログ @ミスチル20th-20120813220036.jpg


考えずにはいられない「理不尽」を突きつけられることがあり




怒りを持つ理由は、はっきりあるはずなのに、言っても仕方のないことだからと…




理由がない振りをして




自分だけの「孤独な叫び」としておさめてしまう・・・




「悲しみの場所に灯された」光も、「にわか詩人の蒼い願い」に過ぎないという自分自身への無力感を味わいながら




「誰にでも」開かれた「門」を通れば「請求書」がやってくるという理不尽な世界に目を向けても、やはり無力な自分を思い知るしかなく




「やわな手足をもぎ取られた」


「バッタみたいに」


「もがく思い」




を抱き、「暗い目」をしてやり過ごす日常。。。




こんな風に暗い表現を畳み掛ける作り手の意図は何なんだろう?




再び、『かぞえうた』のときに語られた、桜井さんの言葉が思い起こされます…




“誰かを励ましたい、感動させたいという気持ちで音楽を作ることが、やましいことのような気がした”




――『もっと』も作品であり、巧みな比喩が用いられ、何らかの意図により構成されている




ただ、その意図とは、感動を売ることでも、励ましを届けることでもなく




悲劇が生んだ孤独の深さまで、まずは降りていこうとするものだったのではないかと、考えてしまうのです


―続く―