#304 マイウォッチ(12) クリスティアン・エティエンヌ
最高の時計皆さん、最高の時計とは何でしょう?見識の深い皆さんならご存知の通り、そんなものは人によって違って当然でして、これは哲学の話です。時計好きならばそれぞれに最高の時計があり、それを求めて我々は買ったり売ったりを繰り返しているのです。今回は久しぶりに私が所有する時計のご紹介なのですが、この時計はまさに「最高の時計とは何か?」を模索した上で辿り着いた時計であり、私の時計趣味を終わらせた一本でもあるのです。まずこの時計を探す道のりについて説明する必要があります。この時計を買う前に私はピアジェのアルティプラノを購入していました。『#261 マイウォッチ(11) アルティプラノ』憧れをこの手にさて、私のTwitterをフォローして下さっている方は既にご存知かと思いますが、この度新たに時計を買いました。題名にある通り、私が長年憧れていた…ameblo.jpこの時計は本当に美しく、購入して5年経った今なお、その美しさに目を奪われるほどです。ピアジェの薄く美しい時計を創るというコンセプトは、私の嗜好に完璧に一致しており、最高の相棒なのです。そんな私はもはや新たな時計など欲してはいませんでした。俗にいうアガリ時計にアルティプラノは“なった”のだ、と買ってからしばらくして思い至った程でした。しかし、しばらくして私はある疑問を持ち始めました。確かに最も美しい時計は手にした。しかし、これは本当に最高の時計なのだろうか?と。私は散々時計はアクセサリーと豪語してきました。いまだにその考えを改めるつもりもありませんが、一方で、機械式腕時計の技術的な側面にも首を突っ込んでそれを楽しんでいるオタクな自分もいるわけです。アルティプラノは、この自分の中に存在する僅かばかりのオタクを納得させるものではありませんでした。それは主にムーブメントの部分で。洒落者を気取って、時計はアクセサリーだから中身には拘らないと嘯(うそぶ)いていたのに、結局自分自身を心底納得させるムーブメントを欲していることに気付いたのです。と同時に、外装と機械、全ての面で自分を100%納得させる理想の時計というものは恐らく存在しないのではないか、という考えにも至ったのです。何故なら優れた機械は必ず一定の厚みを必要とします。これは美しい仕上げを施す意味でも、精度を担保するための機構の面でも真実だと思います。また性能面においても、極薄型はどうしても劣ります。香箱を薄くすればゼンマイのトルクが落ち、部品が薄ければ堅確性に難が出るのは避けられない宿命です。むしろその繊細さが情緒的な美しさを増すという心理効果になったりする訳ですが(病気)。長い前置きになってしまいましたが、兎に角、最も美しい時計は手にしたのだから、次は最高の機械を持つ時計を探そうという事になったのです。最高の機械じゃ最高の機械ってなんだという話です。これもまた哲学論争。複雑機構か、キャリングアームのクロノグラフか、最上級の仕上げが施されたムーブメントか、色々な基準があると思いますが、大きな方向性は比較的すんなり決まっていました。それはスモセコ3針の手巻きムーブメントという事です。オタク的な観点から満足を満たすのは見た目の美しさではなく、機構の正当性だと思っていたのです。その意味では時を計るという原点を突き詰めたものであるべきだと私は考えたのです。となるとやはり秒針は必要で、それもスモールセコンドが良い。時計の歴史を振り返れば分かるのですが、時計は精度技術の向上とともに1針→2針→3針へと発展しました。秒針があるのは当たり前ではなく、しっかり秒単位の精度が出るようになった証なのです。そして3針による表示形式はスモールセコンドが最初です。これは自然に輪列を組めば、2番車軸で時分針、4番車で秒針がそれぞれ駆動される事によります。そんなわけで、精度を追い求めた機械式時計の一つの到達点がスモセコ3針の時計だと思ったのです。もちろんそこからセンター3針や自動巻、デイト表示などといった機構も生まれるのですが、それらは全てスモセコ3針からの派生であって、精度の追求には必ずしも必要ではない機能だと思うのです。それに何より私はスモセコ3針の顔が好きなのです。色々理屈を捏ねたところで、好きであることが一番大事ということです。そんなわけで、自分にとって最高の機械はスモセコ3針の手巻きムーブメントだと結論しました。スモセコ3針手巻きムーブメントしかしこのカテゴリに属する機械は非常に多いです。私も到底すべては(どころかその半分も)知りませんが、幾つか条件は考えていました。高トルクのゼンマイ大きなテンワチラネジブレゲ(巻き上げ)ヒゲスワンネック緩急針キドニーヒゲ持ち歴史的名機このあたりです。必ずしも精度に直結する条件ばかりではありませんが、見た目も含めて、これらの条件を満たしていれば最高だと思っていました。それでもなお候補となるムーブメントは数多くあります。Zenith 135Longines 30LPeseux 260Audemars Piguet VZSSPatek Philippe 12-120JLC 479Minerva 48Omega 30mmざっとこんな所でしょうか。興味がある方は調べてみて下さい。いずれ劣らぬ歴史的名機であると分かるはずです。この他にも知名度では劣るものの素晴らしいムーブメントは沢山あります(Revue 81とか)。あとは好みと実際手に入るかどうかの問題です。その前にあげた理想の条件に照らし合わせると、すべてを満たしているのは実は一つしかなく、それは12-120です。特にスワンネックにキドニーヒゲ持ちというのがジュネーヴシール機でなければ満たすのが難しいんですね。他は審美性をそこまで重視してはいません。12-120搭載機となれば、思いつくのは初代カラトラバ(Ref 96)です。そりゃもう正真正銘の名作ですし、ドレスウォッチの原点にして頂点と言えるかも知れません。価格だって当時であれば法外というわけではありませんでした。しかし個人的に96は問題がありました。それは有名すぎる事と古すぎる事です。有名すぎるとなんか嫌という意味不明な情緒を持ち合わせている私にとって、Ref 96(というかカラトラバ全般)は永遠に手にすることの無い時計でしょう。加えていわゆるヴィンテージ・ウォッチを所有したことがなかった私にとって96は古すぎました。せっかく高精度の機械を求めるなら気を使わずに思う存分実用したいという思いがあったのです。もっともこの点については単に私の知識と経験不足が問題なのですが。それに、精度を追求した名機を探すのであれば、審美性は最重要ポイントではないので、スワンネックとキドニーヒゲ持ちはまだ諦めがつくのです。Nice to haveではあるけれどMust haveではない、みたいな。上に挙げたムーブメントはいずれもとうに生産終了しており、それを載せた腕時計も実用性が高いと言えるものは殆どありませんでした。そんな中で例外的な時計がありました。それがオメガが創業100周年を記念して1994年に発売したルネッサンス1894です。この時計は30mmキャリバー・ファミリーの一つであるCal 269をレストアし、94年当時の外装にリケースした作品でした。つまりムーブメントは伝説的な3針手巻き30mmキャリバーでありながら、防水性やサファイア・クリスタルの採用で実用性を大きく高めた時計でした。これこそが私の理想の方向性であると思ったのです。当時ルネッサンスの中古品は幾つか市場にあり、そのままそれを買うという選択肢も十分あり得たのですが、同じような過去の名機をリケースした時計は他にもあるのではないかと思って、もう少し調べてみる事にしました。すると結構あるのですコレが。中でも私に衝撃を与えたのが、アトリエ・ド・クロノメトリーという独立系ブランドの作品でした。彼らの作品はOmega 266などをベースに徹底的に仕上げを施し、一部は設計変更までして、非常に高品質な外装を与えたものでした。<Atelier de Chronometrie / AdC 11,12,14,15>出典:https://www.atelierdechronometrie.comAdC11,12,14,15 - Atelier de Chronométrie BarcelonaFour watches for four brothers with a very special story behind them. The dials were signed with the family name and the birthplace of “Rawlins hermanos -www.atelierdechronometrie.comただし彼らはフィリップ・デュフォーとかその辺りを指向するレベルで、価格的に到底手の届くものではありませんでした(とはいえ当時は500万円とかだったので、今思えばかなり安いです)。しかしここで得た30mmキャリバーに関する知識は役に立ちました。ルネッサンスが採用していた269は量産最終型であるものの、平ヒゲにスムーステンプを採用した普及版。一方でそれ以前にはチラネジ、ブレゲヒゲ採用モデルがあり、古すぎると耐衝撃機能がなかったりする、というようなことが分かりました。こんな事を色々調べた結果、チラネジ・ブレゲヒゲの30mmキャリバーを再仕上げして、現代のケースにリケースした時計が手の届く価格であれば、それこそ最高だなと思ったわけです。そんな都合のいいものがあるはずないだろうって今こうやって書いていても思うのですが、それがあったのです。Ref:-ケース径:39.0mmケース厚:11.0mm重量:63gケース素材:ステンレス・スティール風防:サファイア・クリスタル裏蓋:サファイア・クリスタルベルト素材:レザーバックル:ピンバックル防水性:2気圧(20m)価格:4,500CHFクリスティアン・エティエンヌというブランド(というか時計師)を知っている人は殆どおられないでしょう。私だって全く知りませんでした。私が彼に行き着いたのは上述のように思考を巡らせ、オメガ30mm系をリケースした時計がないものかと、的を絞ってネットの海を徘徊していたからです。そんな都合のいいものが…あった-!!というひとりノリツッコミをしたのは言うまでもありません。30mmキャリバーをレストアし、現代的な実用性のあるケースに収めて、文字盤デザインもクラシック、そして裏スケまで揃っている。そして何よりも4,500CHF(当時のレートだと60万円くらい)という価格。これ以上何を求めるんだと思いました。こういう得体の知れないブランドの時計を物も見ず買うという経験はオフィオンで経験済みなので怖い物などありません。それ以上に各モデル3-5本程度しか在庫がな買った事に焦りました。直ぐにでも買わなければと。いやしかし、一体誰なんだクリスティアン・エティエンヌって?と思って同社のウェブサイトを漁っていると経歴が出てきました。すると結構すごい感じがします。中でもグルーベル・フォルセイの二人が企画し、リシャール・ミルがスポンサーを買って出た超複雑天文置時計プラネタリウム・テルリウムのプロジェクトに参画し、最終組み立てと調整を担当したという話は、中々インパクトがあります。出典:https://lacotedesmontres.comLa Cote des Montres: The Richard Mille Planetarium-Telluriumlacotedesmontres.comその後もオーデマ・ピゲやジラール・ペルゴのミュージアムピースの修復に関わるなど、スイスで高い信頼を得ている時計師である事は間違いなさそうでした。さて、この時計で一番面倒だったのは決済手続きでした。時は2022だというのにクレジットカード決済ができず、同社のメインバンクと思われるスイスのローカル銀行への送金以外決済手段がないというのです。国際送金は勿論電子的に出来るのですが、マネロン規制が厳しい昨今では手続きが面倒なのです。私の普段のメインバンクだとなんと紙の書類のやり取りが必要でした。しかし別の銀行だと全てウェブ上で手続き出来そうだったので、これを利用しました。それでも購入品とか購入先の情報などを細々入力して、時間も取引完了まで一週間くらい掛かった記憶があります。果たして、やってきた時計は私の期待を上回るものでした。驚いたのはその外装のクオリティです。ケースも自作とは知っていましたが、ポリッシュ面の鏡面仕上げが素晴らしく、覗き込む自分の姿がくっきりと映し出されます。エッジも鋭く、サイドのヘアライン仕上げもしっかり入っており、一眼見て手の掛かった仕上げだと分かります。タンポ印刷の文字盤はしっとりとした質感で、ハンドクラフトの針が趣深く鎮座しています。インデックス、レイルウェイ・トラック、そして針の長さが完璧に調和しており、視認性の高さは私が持つ他のどんな時計より優れていました。φ39mmというサイズがやや気になっていたのですが、腕に乗せてみると収まりは決して悪くありません。厚みも11mmとそれなりにあるのですが、堅牢性を求められる実用時計としては寧ろ正しいのではないかと思えてきます。見返し(文字盤の縁)部分が垂直ではなく、傾斜をつけてすり鉢状に処理してあるのも資格効果として面白い点です。型番:Omega 266ベース:-巻上方式:手巻き直径:30.0mm厚さ:4.00mm振動:18,000vph石数:17石機能:スモセコ3針精度:-PR:37時間そして今回の目玉となるのがOmega 266です。冒頭にも述べた通り、今回は最高の機械を持つ時計を探していたのですから、これについて触れないわけには行きません。数ある30mmキャリバーの派生群の中でも、この266は限りなく理想に近いバージョンでした。大きなテンワに頑強なブリッジはこのシリーズ共通ですが、チラネジテンプにブレゲ(巻き上げ)ヒゲを備えているというのが重要です。それをエティエンヌ師が再仕上げしているというのですからら堪りません。ブリッジ、丸穴・角穴車のサンレイ仕上げ、ネジと緩急針を青焼し、面取りと石穴の縁まで綺麗にポリッシュ仕上げされた266は非常に美しい姿を見せてくれます。5振動で37時間パワーリザーブというのは現代の目線からすれば全く物足りませんが、当時は世界最高精度を誇ったムーブメントですから、私としては何も文句はありません。それよりもヒゲゼンマイを巻き上げて収縮運動の重心を安定させるとか、チラネジで緩急微調整を突き詰めるとか、当時の時計師の執念を感じるディテールにロマンを感じるのです。それが旧式の技術であって、素材開発や工作技術が格段に向上した現在とは比べ物にならないほど粗いものであったとしても、そんな事はどうでもいいのです。当時の情念を感じる事自体に意味があるのですから。60年以上も前のムーブメントが現在の名工の手によってレストアされ、今なお正確に時を刻む。機械式腕時計の世界では使い古された話法ですが、こんなにニヤニヤできる玩具はそうはないですよね。そんなわけで、これを買って以降の私は憑き物が落ちたように時計を買わなくなってしまいました。何せこれで最も美しい時計と最も優れた機械を持つ時計(当社比)を手にしたのですから。どんな時計を見るにつけても、これらとの比較になり、そしてすべての時計が敗れ去って行くのです。もちろんバリエーションを拡張するという方向に歩みを進める人もいると思うのですが、私はあくまで時計はアクセサリーと考える派閥に属しており、着けもしない時計を無闇に増やす意思はありません。というか既にある12本の中でさえややキャラ被りが発生しているので、むしろ取り組むべきは増やすではなく減らす事だとさえ思っていたのです。しかもそうこうしている間にインフレやら円安やらで時計の価格は天井知らずに上昇し、今や3年前の倍近い定価が定着しつつあります。こうなると最早新しい時計を買うなど馬鹿らしくさえなってしまい、一時は時計の情報を集めるのもやめてしまったのが、今年の年明け位までの私でした。しかし性懲りもなく、時計の世界に舞い戻ってきたというのが今年の2月に書いた記事の通りです。『#280 時計探しは宝探し』再開私にとって時計探しは宝探しでした。子供の時には誰しもが宝探しに興じた事があるでしょう。学友と遊ぶ公園の隅や雑木林の中、家族と訪れた旅先の浜辺なんかで。木の…ameblo.jp長々と綴って来ましたが、大きな熱量を以て探し当てたクリスティアン・エティエンヌを私はとても気に入っています。しかしその結果ある意味では燃え尽きたというのもまた事実。私の時計探求の旅は、間違いなくこの時計を手にして第一章が終わったと言えるでしょう。それで終幕になってもおかしくなかったのですが、今は第二章が始まりました。手の届く範囲内で、新たな出会いを求める今も、それはそれで新鮮な気持ちではあります。趣味なんていつ辞めたっていいし、いつ戻って来てもいい。そういう気軽な気持ちでこれからも楽しんでいきたいものです。