8/4(日)、月に一度の佐藤暁先生(岡山大学 学術研究院教授)主催「実践障がい学 日曜ラボ」。毎月開催されるのですが、今月は夏休み中ということもあって、いつもより少し人数が少なめで、勉強会の内容もドゥルーズの『千のプラトー』を進めるのを待って、最近の支援エピソードなどをシェアしてくださいました。

現場のお話はとてもリアルで、考えさせられることが多々ありました。


教育や保育の現場は、少しずつよい方向に変わっていくところがある一方で、あまり変化がないところもある。具体的に何か理由が挙げられるわけではないが、それが何なのかよくわからない。しかし何か理由があるように感じるとのこと。


そこから「ケア」の話につながった。制度的ケアと制度外的ケア。


🟡制度的ケア →  合理的配慮など

 制度として決まっているのでやる、しかし、「ここまでしかできません」とも言えてしまう(例: お金がないからできません)


🟡制度外的ケア  →  マイクロ・カインドネス(ほんのささいな親切行為)

 やろうと思えばできる、ある意味その人の気持ちしだい


最近、目の前の困った人を見て見ぬふりをする風潮がある

→ なので、制度外的ケア、いわゆる、困っている誰かに手を差し伸べるようなことが少なくなってきているのでは...?誰かが起こした犯罪は、はたしてその人だけの責任なのか?いささかなりとも、他の人に責任があるのでは...?


それで、教育や保育の現場で、柔軟な対応やちょっとした配慮などができない人がでてきているのでは? ...というお話でした。私の印象でも、コロナ以降は人との接触を控えるようになり、困ってる人がいてもスルーするような距離感ができたように感じます。それも関係あるんじゃないのかなぁ、なんて思います。




🟡子どもをつなげること


特性のある子に対して、支援だけするのは、やはり違う。保育現場なら「保育+支援」、学校なら「学習+支援」であるべき。子どもは支援のために来てるのではない。ちゃんと保育・学習をしましょう、というお話。


子どもを保育や学習と【つなぐ】には...


・【モノ】とつなぐ

モノとは、教材や活動のこと。教材や活動とつながれば世界が広がる。モノとつながっていないと「宙づり」になる。なかなかモノとつながれない時は、『何回も見る』。反復が大事。つながっていないときは、つながれそうなモノと反復してかかわる。そうすると「私」という主体があらわれる。主体は先にあるのではなく、あとからあらわれる。なので、子どもの主体を求めすぎないこと。


・【流れ】につなぐ


「これをしたら、次はコレ」という流れを作り、それが日々の活動のなかで定着すれば、子どもは自発的に動く。


🟡世界をどんな風に認識していたのか?


文字が読めなかったとき、私たちは世界をどんなふうに認識していたのか?おそらく初めは、触れたもの→視線がいく、...いう感じだったのでは?


例えば、体が不自由な子どもたちに、「世界」はあるのだろうか?目の前に空間はつくれているのだろうか?発達特性のある子どもたちも、発達段階によって世界の広げ方は違うはず。


なので、子どもを見る時、その子がどんな風にできてきたか、その子の「記憶」と「手持ちの力」をに思いを巡らせることが大事なのでは?


今までと違った世界につながると、「自分」が変わっていく。