インドネシアの歴史から日本を見る | 岐路に立つ日本を考える

岐路に立つ日本を考える

 私は日本を世界に誇ることのできる素晴らしい国だと思っていますが、残念ながらこの思いはまだ多くの国民の共通の考えとはなっていないようです。
 日本の抱えている問題について自分なりの見解を表明しながら、この思いを広げていきたいと思っています。

 今回はインドネシアの歴史について考えてみましょう。インドネシアには1万以上の島嶼があり、大まかに分類しても70余りのばらばらの民族が住んでいるそうですが、ではそんなインドネシアが現在は1つの独立国となっているのは、どういう経緯を経てのことなのでしょうか。

 15世紀末にバスコ・ダ・ガマが喜望峰を通過してアジアに向かうルートを発見したことから、16世紀にはヨーロッパ船がインドネシアにも訪れるようになりましたが、実はそこにその鍵があります。

 この当時はインドネシアにはインドネシアとしての統一的な意識などはなく、バンテン王国・マタラム王国・アチェ王国など、多くの国が分立していました。このばらばらに分かれた国家群のなかに、互いの対立を煽ったりしながら、徐々にヨーロッパ諸国が浸食を始めました。そしてやがてインドネシア地域においては、ヨーロッパ勢の中ではオランダの勢力が強くなっていったわけです。ちなみに「蘭印350年の植民地支配」と言われたりすることもありますが、オランダは350年間インドネシア全体を支配したわけではなく、徐々にその支配領域を広げていったと考える方が適切です。

 さて、1830年頃にオランダは深刻な財政危機に陥り、この財政危機から逃れるために、オランダ政府はインドネシア地域において、指定農作物の強制栽培制度を実施しました。これは国際市場で高価で取引される商品作物(コーヒー、サトウキビ、タバコ、藍、茶など)を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げ、高価で取引されるヨーロッパなどに持ち込んで、政府が莫大な利益を上げるというものです。オランダ政府の国家財政の約1/3が、この強制栽培制度に基づく利益からなっていたほど、オランダ本国にとってはこの強制栽培制度は大変利益の大きいものでしたが、水田を潰して換金作物を作らさせられることで、稲作を中心とする伝統的な村落が解体されたばかりでなく、凶作に陥ると深刻な飢饉に見舞われ、現地の人たちは大変厳しい生活を強いられました。例えば、1850年の凶作時には、ゴロボガン村では人口8万9500人が9000人にまで減少したそうです。

 19世紀末まで、オランダは現地人に教育を与えることもしてきませんでした。過酷な植民地支配の実情が徐々に知られるようになる中で、20世紀に入ると、3年間の初等教育を一部の現地の子供たちに提供するようにはなり、その中で優秀な生徒は上級学校にも通えるようにし、年に10人ほどはオランダの大学を卒業できるようにもしました。しかし、武力反乱を恐れて、体育や団体訓練を行うことはなく、住民の集会も禁止していました。オランダ人が最上位を占め、オランダ人と現地人の混血児や華僑が中間層を占め、純粋な現地人がその支配を受けるという構造は固定化され、純粋な現地人が統治に関わることはほとんど認められていませんでした。

 こうした中で、オランダ支配に反対し、独立を希求する声が出てきました。オランダを共通の敵として認識することから、雑多な民族が1つの国民としての意識を持つに至ったというわけです。日論戦争において黄色人種の国家である日本が、白人国家であるロシアを破ったということも、独立意識には大きな影響を与えました。

 1942年2月末に日本はインドネシアに軍を進めましたが、これはもちろん直接にはインドネシアの独立のためではありません。アメリカの対日経済封鎖は1939年から徐々に強められていき、1941年8月には石油の全面禁輸が実施されたため、石油がある地域を配下に置かないと、日本国が存立しえない事態に追い込まれたためです。しかし、インドネシアの独立のことを日本は考えていなかったのかといえば、そういうわけではありませんでした。

 日本軍は圧倒的に強く、10日ほどでインドネシアからオランダを放逐しましたが、スカルノ・ハッタなど民族運動の指導者をすぐさま釈放し、民族統一に向けた全国遊説を許可しました。農業、漁業、造船、工業、医学などを教える学校を相次いで設置し、わずか3年半の日本統治時代を通じて、こうした専門家を10万人育成しました。そしてこうしたインドネシア人を積極的に高級官僚にまで登用し、行政能力を培わせるようにしました。バラバラに使われていた250を越える言語のなかからジャワを中心に使われていたムラユ語を統一インドネシア語として定め、新聞やラジオ・映画、学校教育などで普及させ、インドネシア民族としての統一意識を育てることが行われました。祖国防衛義勇軍(PETA)を創設し、インドネシア人に厳しい軍事訓練を与え、勇敢な軍隊として育てることもしました。

 こうした日本の統治は、オランダの統治とは根本的に相違するものだったと言えるでしょう。もし日本がオランダに代わってインドネシアをずっと植民地支配するつもりであったならば、インドネシア人の中から行政を担える専門家を養成するようなことはしなかったでしょう。統一した国家意識を持たせるような政策も行わなかったでしょう。いつ自分に刃向かってくるかわからないような勇敢な軍隊を育てるようなことも行わなかったでしょう。現地人を搾取するための植民地統治を行うためであれば、オランダ流の統治の方が遙かに「適切」なものです。

 日本は、自国をしっかり支える気構えと実務能力を獲得した人材が育たなければ、国家の独立が維持できないことを理解し、インドネシアがまさに自立できる基盤を築き上げていったのです。

 そして日本が敗戦した後に、オランダはインドネシアに戻ってきて、再び以前同様の植民地支配を再開させようとしました。その中で必然的に戦争が始まりました。インドネシア軍は旧日本軍から一部の武器を横流ししてもらったりもしましたが、オランダ軍とは軍備のレベルが違い、「竹槍と戦車の戦争」とまで言われました。その中でも、日本軍に鍛えられたインドネシア軍は勇敢に戦い、1949年まで断続的に戦闘が続く中で、80万人にのぼる戦死者を出しながら、不屈の戦いを続けました。旧日本兵も2000名ほどがインドネシア独立のために残り、インドネシア軍の最前線で戦い、その半分が戦死しました。このような多くの尊い犠牲を払った結果として、インドネシアは最終的に独立を実現し、今に至っているのです。

 東京都港区にある青松寺には、1958年にインドネシアのスカルノ大統領が来日した時の記念碑が建てられています。その碑文には、独立戦争で指揮官の役割を演じた、市来龍夫氏と吉住留五郎氏(共に独立戦争で戦死)を顕彰する、以下の文が書かれています。

 市来龍夫君と吉住留五郎君へ
 独立は一民族のものならず 全人類のものなり
 一九五八年二月十五日 東京にて
 スカルノ




 このような話を知らなかったという方も多いかと思います。ではなぜ私たちはこのような話を知らないのでしょうか。祖国の誇りになるようなことを教育するのは軍国主義の復活に繋がるとして、事実上禁止してきたからではないでしょうか。

 日本軍がインドネシアに向かったのは、アメリカの経済封鎖に対抗する必要からであって、かわいそうなインドネシア人を助けてあげようと考えたからではありません。厳しい戦争を闘う中で、インドネシア人にも過大な協力を行わせるようにしたのは事実で、そのために日本統治時代に苦しさを覚えた人もたくさんいました。戦争遂行のための鉄道敷設のために、10万人に上るインドネシア人を労務者としてタイに送り、衛生環境も整わず食料事情も悪い過酷な環境下で酷使し、2万人近い方を犠牲者としてしまったということもあります。日本式の文化を押しつけたために、要らない摩擦が起きたこともありました。日本兵の中に、現地の人たちを見下す人も、手荒なことをする人もいました。

 しかし日本は、インドネシア人が自らインドネシアという国を運営していけるように心から支援をし、日本人自身も多くの犠牲者を出しながら、インドネシア独立に大きく貢献をしていったのです。そして、インドネシアのように日本人が軍事教練を行った諸地域で、植民地からの独立がどんどん進んでいったことが、世界中の植民地で独立機運が高まることにつながっていったのです。

 そこまで大きな世界史的な役割を果たしたことを、日本人が誇りに思うことは、果たしていけないことなのでしょうか。少なくとも日本は、欧米諸国以上の侵略国家ではなかったとは思いますが、それでも日本は世界の中でも特別な謝罪を必要とする国家だと考えなければならないのでしょうか。

 もしそうだと考えるなら、そこには明らかに認知の歪みがあるはずです。そしてこの認知の歪みは、大半の日本国民が共有していながら、そのことに気がついていません。そしてそのことがリアルに世の中を見る目を失わせ、日本の国家としての危機につながっていることに、私たちは気付くべきだと思うのです。

 そしてこの認知の歪みは、諸外国が自国の国益を実現する見地から仕掛けてくる情報戦争に敗北した結果として生まれているものです。自然発生的に起こるものではありません。それなのに、そもそも諸外国が様々なルートを通じて情報戦争を仕掛けてきているということにすら、大半の日本人は気付いていないのではないでしょうか。

 例えば、情報工作は「被害者の証言」を通じてなされることもあります。「被害者」が語ることに対しては、まずは信じて同情を寄せるところから出発しなければ、人間として失格だと感じてしまうということは、心やさしい人間にとっては当然の機微です。ですが、その結果として、被害が本当にあったのかどうなのか、あったとして本当に証言通りのものだったといえるのかを、冷静に見ることができなくなってしまうということも、もう一方で起こるわけです。このような心の隙を、情報工作は突いてきます。

 中国や韓国が我が国の歴史に対して様々なことを言ってきますが、これらについてどこまで正しくてどこが間違っているのか、しっかりと検証したことはあるでしょうか。頭ごなしに100%否定するのも正しい態度ではないですが、100%疑いを差し挟まないのも正しい態度ではないはずです。自分たちに認知の歪みがありそうだと考えつつ、先入観を排して事実をしっかりと検証していく知的態度こそ、現在の日本人に求められているものだと、私は思っています。