今日NHKで、「ベトナム戦争・枯葉剤」の内容の特集を見た。




昨年訪れたVietnam War Museumで見た枯葉剤の影響で生まれてきた奇形児のホルマリン漬けを前に、カメラのシャッターを押すことさえできなかったことを思い出した。


枯葉剤は、直接的な犠牲者だけでなく、そのベトナムと言う地にも、帰還したアメリカ兵にも、生まれくる子ども達にも、大きな傷跡を残した。


その影響を受けた人はまだ存在する。


ベトナム戦争はただの「物語」でも「歴史」でもない。




戦争を考えた。一冊の本を思い出した。



「ダイヤモンドより平和がほしい/後藤健二著」

以下、気になる内容のみ要約。




:::平均寿命の一番短い国、シエラレオネ。


上国は質の高いダイヤモンドの産地として有名である。

しかし、このダイヤモンドは国民の生活を豊かにするのでなく、その利益は戦争の費用となり、銃などの武器に充てられた。


ここには、子ども兵が存在する。



どのように兵士になるのか?


― 村が反政府軍に襲われ、その時子ども達は連れ去られる。


抵抗する両親を殺し、戦争の訓練を受ける。抵抗すれば上官に殺される。



なぜこども兵なのか?


― 子どもは大人と違い、武器を持っていなければ敵に怪しまれることもなく、スパイとして役立つ。
― 体が小さくすばしっこいので、遠くの敵から攻撃されにくいため、子どもが戦闘の最前線に送り込まれる。
― 純粋な子ども達は、洗脳により簡単に戦闘マシーンに育てあげられる。


戦争の最前線に駆り出される子ども達。

戦闘マシーンに育て上げるために、大人たちは「麻薬」を子どもに投入する。

体内に直接入れた方が効果は高いが、注射は高いため、皮膚を切り、そこに麻薬粉を埋め込む。
麻薬を埋め込まれると理性を失ったままに人を殺したくなるという。
人を殺すこと、そこに意思はもはや存在しないのだ。


こうして麻薬中毒になる子どもたちは、反政府軍から逃れ、施設に保護された後も、その禁断症状に苦しみ、社会復帰への厳しい壁が立ち尽くす。


(元少年兵ムリアの言葉・一部略)

「今、ぼくは人を殺すのは絶対にいけないことだと思う。

たった一度でも人を殺したらそのことは決して消えないよ。



彼ら(殺された人)は何も悪いことはしていない人たちだった。
そういう人たちを殺すと言うのは悪い事なんだ。



でも、よくわからない。


今は戦争なんだよ。

ぼくの両親も殺された。
お父さんもお母さんも何も悪いことはしてなかったのに、殺された。
それが戦争なんだ。



『許す、自分たちは許さなければならない。』


例えば、今もしあなたの言うその人が僕の家族を殺したとしても、ぼくは許す。
なぜなら、まだ戦争は続いていて、誰の家族だって殺されるかもしれないんだ。」





以上、抜粋と要約。


私が鼻水たらしながら木に登ったり、川で泳いだり、友達と駄菓子を食べながらままごとをしたり、給食を残したりしている時に、私の知らない国で、でも、同じ地球の上で、同じくらいの年齢の子どもたちが、こんなに苦しい思いしていたことを私は知らなかった。




戦争で両親を亡くして、それでも「許す」という彼の強さ。

きっと、私たちには想像もつかない葛藤と苦しみと、癒えない傷を抱えている。

今も、多くの子どもたちが肉親を奪われ、銃を持たされ、薬に酔わされているのだろうか。

兵器を生み出す職に就く人は何を考えて仕事に従事しているのだろうか。

給料のために、深く考えることもなく働いているのか、それとも、自分の仕事の重みを考えて働いているのか。



自分が生み出した銃を、自分の子どもたちと同じくらいの少年が持っていると知ったら何を思うだろうか。


子どもに職業を聞かれたらば、「人を殺す兵器を作っているんだよ」なんてきっと言えないだろう。

「国を守る武器を作っているんだよ」って「悪い人をやっつける武器を作っているんだよ」って言うのかな。

悪い人って、誰 かな。



兵器経済なんて 嫌な 言葉だよ。





こうした、「平和」とか「戦争」とか「貧困」とかいう話題になった時に思うことがある。

大抵の人は、「わたし一人が考えたところでどうにもならない」とか「私たちには関係のないこと」と、無関心を装ったり、見て見ぬ振りをしたりするってこと。



でも、私は事実を知ったことで意識が変わったし、少しだけれど生活が変わった。
この本に限った事じゃなく、戦争貧困環境、そうした全て一人の力では解決不可能な問題に対して全て当てはまること。

例えば、生産の裏にある児童労働や低賃金労働、廃棄問題の行く末を知り、なにを購入するにも働く人々のことを考えるようになった。

そして仮に、日本中の全ての人が、そんな意識を持ったとして、労働の透明性の見えない企業の製品を買わなくなって、無駄な消費をしなくなったら、地球規模でも大きな良い影響を与えるし、自然と企業は透明性を追求するようになり、児童労働や低賃金労働の改善や、廃棄責任をしっかりとるようになる。
そうすれば、間接的に中国やインドネシアの工場で不当に働かされている人々を救うことになる。
(経済問題や新たな雇用問題等生んでしまうことに関しては言及しないとして、これは極論。)
(労働と環境問題、と、論点からずれたが一例として。)




少しの変化が生涯を通して大きな変化になる。
その大きな変化が伝われば、もっと大きな変化になる。

「どうせわたし一人が」という概念は、あほらしい。
一人が変わらなければ世界は変わらない。


全体を作るのは、結局はひとつひとつの主体だということを忘れてはいけないんじゃないかな。



学んで、考えて、何になるかわからない。

けど、知らないと何もできないのだけは確実だから、人に無駄だと言われることでも学びたいと思う。





アウトプットって難しい。言いたいことが上手くまとまらない。


私は感情論で文章を書くことが多いから、頭の中に流れる感情を文章化するのってすごく難しい。

色々書いたけど、ブログって、あくまでも個人の思想であって考えを押し付けるつもり場ではなくて、読む人によって解釈も全く異なる。

でも、文章は人それぞれに吟味されて解釈されるから面白いと思う。






とか色々書いてたらテレビから怖い音楽流れて、内容は怖くなくても、ちょっと怖い音楽が流れるだけでガクブルして、目を開けてシャンプーをしなきゃいけなくなるの私は、さっさとお風呂入って寝る。



( 3) < oyasumi


今日は1,2限戸塚で授業。からの二時からインターンのお話のために白金台。

からの授業。からのビジコンMTG。からの美容室。


授業前の時間を使って今日の思いを忘れないうちに綴らねばと思いパソコン室にいる次第です。


かれこれ三時間睡眠の私。今日は一瞬で眠れる気がする。

でもこれだよね!クタクタになって布団きもっちいいあああ!ってくらい布団を愛おしく感じて、深い眠りに入るの!これ、いいよね!週3くらいで。


今日感じたのは、とにかくとにかく何よりもまず、人前で話すことに慣れなければならないとゆうこと。

何かを始めるためには、自分の思いを人に伝わるように話さなければならない。

伝えようとしなきゃ何も伝わらない。伝えようとしたって、自分の頭の中の半分だってきっと伝わらない。

理論ではわかっているけど、どうしても出来ないわたし。悔しい。


文章にすると出てくるのにいざ話そうとすると何も出てこない。

別に感情とか、思考をアウトプットするのが苦手なわけではない文章にはできるのだから。

文章を書きながら、具現化することと何が違うのか考えてみた。

まず何よりもスピード。文章にするには考える時間がある。

でもそれだけじゃない何故か文章にしようとすると頭が道筋立てようと動き出す。

まずはこれ、話すときにも使えるように意識改革。


話上手、話下手って生まれつきの能力ってゆうよりは、育ってきた環境に帰依すると思うの。

私は小さいころから両親共働きで家にいなくて、学校での勉強も、交友関係も、全て私に一存されてきた。

誰にも批判なんてされなかった。誰にも自分の存在を叫ぶ必要なんてなかった。

人間はその必要に応じて進化していく生き物だとしたら、私は自分の感情を誰かに説明するとゆう必要性から逃れてきた。

だからその能力に欠けているんだよねきっと。

でもさ、環境に依存するならば練習次第で、努力次第で改善できるはず。

何もしないより数倍数百倍いい。


とゆうことで、話下手を少しでも改善できるように、まずはぬいぐるみとの対話から始めたいと思う。(客観視すると危ない)



そしてもう一つ思ったのは、わたしはあまりに漠然とした人間だとゆうこと。

具体的な「何か」を得ることに夢中になり、その「具体的」とゆう言葉自体が曖昧だと気付かない。

私を遠くから見たらきっと消えそうなくらい漠然と、そして、背景と同化してしまうほど曖昧だろう。目を何度も何度もこすって、「ああ、人か」みたいなさ。

広い広い砂漠の真ん中にぽつんと立っているようなアリンコのようなわたしだよ。


迷走中。ただ今迷走中。



どうでもいいや授業行かナイト。

考えてたら頭ぐちゃぐちゃになっちゃったなんか脳みそに通る血管のうち5本くらいに何か生物がいて、血液の流れを邪魔してるような感じ。



そしてわたしやっぱり両親憧れだよ。


「人間は、逆境に置かれているときほど、なんとかこの境遇から抜け出したいと一心不乱に自分を磨き鍛えるため、人間的に大きく成長できる。ただ、当の本人が気付かないだけだ。

逆に、何もかもうまくいっているときほど、人はその境遇に安心しきって、努力や鍛錬を怠ってしまうため、成長が止まってしまう。ただ、当の本人が気付かないだけだ。(菜根譚/洪自誠)」


今、本を読んでいてなるほどと思ったので忘れないうちに書きとめようと思いまたブログなんて書いてしまいました。


最近自分を見つめなおさなきゃいけないことが多々。たたたたたた!

自分の中にある漠然とした理想に追い付きたくて必死。

必死に悩んでも悩んでも悩んでも、理想に追い付くどころか様々な障害ばっかり見えてきて苦しのはモラトリアム。

自分が必死になっていることは、果たして正しいのか。将来の私は褒めてくれるのだろうか。


未だ見えない大きな不安を抱えて押しつぶされそうになってそれでも地団太。

地団太踏んでるわたしだけど、ねえコレ、いつの間にか穴があいたら地球の裏側にいってしまうよ。

走っていくのと、踏ん張って踏ん張って、その場に大きな穴があいて真っ逆さま。どっちが早いかな。

スイスイ走っていけたらそら英雄ですわ注目浴びて、わいきゃい言われてきらびやかなステージに立ってみんなに応援されてさ、ねえ。

でもさ、泥だらけになって靴底なくなるまで踏ん張って、それでいつかゴールに近づくんだったら、それはそれでかっこいいんじゃないかな。泥だらけの汗まみれって、かっこいいと思うのはきっと私だけじゃない。


人の死で涙を誘う映画や物語がたくさんある世の中。だけど、ねえ、人が死んだら悲しいのは当たり前だよお別れが悲しいのは当たり前だよ。

フルマラソンも24時間テレビもトライアスロンも、人が死んだりしないのに、誰も悲しんだりしないのに、それはそれは人の心に届くんだ涙が溢れてしまうんだ。泥だらけの汗まみれはやっぱりかっこいいってことだよ。


要はさ、「いつか、いつか」、そう信じてあきらめなかった人だけが、「いつか」を「今」にできるんじゃないかなってゆう話。



関係ないけど、冬の洗濯は手がちぎれそうだよ。


さ★て★みなさんお久しぶりですあっとゆう間に11月終盤あれ早い。

おちゃめに始めてみました今回のブログ。どうもわたしです。


最近家に引きこもりパソコンに向かうことが多くなったと同時に、新しい出会いも多くなったとゆう一見矛盾したワンダフルライフを送っています。

やることが急激に増えました。夏休み休みなくせわしく過ごしていた頃の感覚が少し蘇る。アメリカとベトナムにいた時に感じたやる気だったりやる気だったりを、帰国してから早一ヶ月半、ようやく活かし出すことができたって感じかな長い休息だったこと笑


あ、でも特に書くことはありません久しぶりに更新したいなと思ったのでカタカタやっている次第です。


色んな人に出会うと自分の立ち位置を少しだけ知ることが出来る。

自分の良いところにも悪いところにも気付かされる。

嫌でも自分を分析しなきゃいけなくて、自分を分析するとゆうことは今まで無視してきた自分の欠点と向き合わなきゃいけないとゆうこと。人間やっぱり自分に甘いところってあるじゃない20年間無視し続けてきたそうした部分と向き合わなきゃいけないんだよね。それってすごく悔しいのよ認めたくなくて特に負けず嫌いな私なんかは。でもいつまでも意地張ってたらそこで成長は止まってしまうんだよね、私はその方が悔しいなと思うのね。だから、最近は日々葛藤。



自分の中に煩雑している各々の興味がいつか良い形で結び付くといいなと思う今日この頃。

まだ点と点で頭の中にうようよしてる興味をね、深く深く突き詰めていけばどこかで線で繋がるんじゃないかなって思うんだよね。

わからないんだけど、見えないものは見えないからわからないんだけど、今は今、目の前にあることを一つ一つこなしていくしかないのよ大志を掲げる勇気もないちっぽけなハタチには。なんだかんだ目の前にあることが「せかい」なのよ。大きな目標に向かって急に何かをやることがかっこいいとは思わないの。それに向かって少しずつ少しずつ土台を固めていくことが大事で、それが積み重なって、雨に打たれても、投げられても負けないような、固い固い石のようになった頃に、昔掲げていた「大きな目標」を達成できると思うのね。

でも、昔掲げていた「大きな目標」を達成することができたらもうすでに新しい「目標」が生まれていると思うんだ。そうやって成長が成長を生んで成長願望は止まることがないと思うんだ。この目標はまたの名を「夢」というのね。

いつまで経っても「夢」は失わない生き方をしたいんだけど、甘いかな?

ガキだと言われても甘いと言われても、やっぱり私は「夢」を持っていたいんだよね「夢」を持つことは人生におけるチョコレートのようなものだよ。人生をスウィートにしてくれるわくわくさせてくれるものだよ。



口下手なんだ私は。口下手なうえに頭の中には色んな想いが詰まっていて重いんだよねなんてツマラナイギャグを言っている私だけど、その想いをね、唯一整理できるのが文章なのですよ。だから皆さんお付き合い。ああ、また頭の中のグチャグチャを整理しようとしているんだななんて、すっとんと読み飛ばしてみて下さい、気が向いたらたまには一緒に考えてみて下さい。


また気が向いたときにすとこん更新しますよ。それは明日かもしれないし、一ヶ月後かもしれないのだけれど、気が向いたら普通の日記なんてものも書きたいヨ。


おっと明日は魔の一限だおやすむなさん。


ま★た★

お久しぶりですわたしです。

iPhoneに変えてからパスワードを忘れた私は、携帯からの更新が出来ないとゆうアクシデントに直面中。そのためこんな筆不精になりまシタ。ブログにアクセスするという数々の指の一連の動きを無駄にしてどうも申し訳ございませんでした。

パソコンから更新。


最近はというと、学校に真面目に通って、しかも週三の登校の内二日は図書館に入り浸るというネクラぶり。ネクラの代名詞になりたいですうそです。

いやもうオノジョージのマーケティング楽しい授業楽しいって感じられるって素敵。


そうそう、こないだゼミの締め切りだったりなんだったりですが、私ゼミに入らないことを決意しました。

唯一入りたかった小野ジョージのゼミがなくなったためやりたくないことに時間を割くよりは自分で考えて行動しようという結果に行きつきました。周りに流されず、自分で考えて行動する。そんな人間でいたいよずっと。

実は来年やりたいことがありまして、まあ、何かとは言いませんが聞かれたら答えますが、何かとは言いませんよ。それがあるからゼミに割く時間も限られると思いまして、なんてゆうのもゼミに入らなかった一因。


何もやってないのにただ興味がある、これやりたい、そして終いには「これやりたかったなあ。」とか、「やりたかったけどもう無理だ。」なんて言い出すような人間にはなりたくありません。

行動するということは、常に、行動しない時よりもはるかに大きなリスクが伴う。しかしその成果は大きい例えそれが「成功」でなくても。

私には強い好奇心と、プライドと、じっとしてはいられない性分、行動力がある と思っている。

興味があるならやればいい、行きたいところがあるなら行けばいい。黙ってじっとしているなんて、なんてもったいないの!そう思ってしまう性分。これが私。いいも悪いも、これが私。

将来を決めるには十分な時間と機会がある。だからまだ興味を突き詰めたい。「これやりたかったなあ」じゃなくて、「これやってみたけど、なんか違ったな」の方がいい。「やってみた結果、この道を一生の職業にしたい」の方がいい。それが将来の自分の職業に直結しなくても、その経験とそこで得た価値観、技術知識は自分の財産になる。

マルチプルな方向に見識を持っている人は、何か一つを突き詰める際にも強いと思う。



初対面の人、それも多数いる場で自分のプレゼンスを発揮するのって難しいけど、私はそんな場所でアテンションを引ける人間になりたい、なんて昨日考えた。

そのためには内面を磨かなければならない。どんなにかっこよくても可愛くても、中身がなければ時間が経つにつれて大多数の中に埋もれてゆく。

私は磁石のような人間になりたいな。人間を惹きつける人間。そのためにはまだまだ中身を磨く必要がある。知識や経験がその人の全てのオーラというか、見えない何かを形成していくのだと思う。

私はまだまだ。まだまだまだ。私は欲深いな。いつまで経ってもきっと自分に満足することはないんだろうな。



さてさて、そして最近の私は秋ファッションをエンジョイ中。今秋のテーマは当分「女学生」。アンティークな手持ちかばんが大活躍ですみんなに使いづらそうと言われますそしてまさに使いづらい。しかしその使いづらさが愛くるしい。頭いかれてます日々。


ピクミンクエストⅥ


そうそう、パーマをかけました。私とれやすいので既にとれてきたけど笑

やっぱりパーマ好きですふわふわ。前髪切ろうか迷い中そのうち切るかなレトロな感じにしたい。


ピクミンクエストⅥ



明日はidpcの何人かで夢語ろうの会。

idpcのみんな超好きだなあ最近思う。キャラ濃い。真面目なのかあほなのかバカなのかわからない。でもそれが好き大好き。


来週楽しいこといっぱいだ!ギブテク会楽しみ!前回五月とか六月だった気が。

妖精会も楽しみ高円寺!鳥貴族!死ぬほど本音で語ろっと。

でもバイト復帰緊張。馴染めるかな二か月のブランク。やばい絶対色々覚えてないわ。

あああああリア充。