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minmin-kutukutuのブログ:1950年代から1960年代 当時銀幕のスターのどこにもない プライベート写真他色々

1950年代から1960年代当時銀幕のスターのどこにもない 

プライベート写真や

撮影合間の貴重写真など掲載

そして わたくし73歳になっての 独り言など・・・

詳しくは プロフィール参照

 

この時代 子供の「死」がとても多かったです

今の時代のように「いじめ」や

親の暴力や 育児放棄での「死」は

あまりなかったように思います

 

両親が 戦災でなくなった 子供たち

 

戦後すぐは

映画「火垂るの墓」そのもので

やはり 栄養失調による「死」が 多かったでしょうね


 

子供が餓死することほど 悲しいことはないですね


 

危険な遊び・・・

これは 特に夏

 

京都では 琵琶湖からひかれた疎水での泳ぎです

流れが速く そして深い運河です

毎夏 2~3人は亡くなったでしょう

遊泳禁止だけど みんな監視の目を盗み泳ぐんです

たぶん ここで泳げるという事が ちょっとした自慢だったのです


 

これは 大阪での話です

いつも登場する 自宅前の川での事件です


 

この川は 大和川の支流で

雨が降ると 増水します


 

隣の中学の兄ちゃんが

増水になると 

あの細い橋の中央で 柄のついた網を川上に向けて

少し深い目につけると 面白いほど

流さて来た 鮒などが取れるのです

それを 持って帰り 火災のための用水池に

ボウフラ退治用に入れるんです


 

ある 長雨のあと

いつもなら 兄ちゃんが橋の上で

網で魚を狙っているのに いないのを幸いに

買ってもらったばかりの

新しい網で初めての 挑戦となりました

・・・・・が

網の中には 魚がはいらず

ごみばかりが 入り

あげるのにも 重たくて上がらず

それどころか 網がどんどん

橋の下に入っていきます

やっと 買ってもらった まっさらの 網

「あかん 離したら あかん 怒られる」

と思ってるうちに

頭から はまりました

その時の 水中での 

ぼやけた光景は 今も記憶に残っています


 

とにかく もがいていました

まだ泳げず ただもがいていました

その時です 服の襟あたりを

「グググー」と持ち上げられました

どこのだれかわかりません

場合によっては まずおぼれ死んでいたでしょう


 

助けられた感謝より

網をしっかり握っていていたことが うれしかったです

あれは誰だったのか・・・・・月光仮面これはもう少し後

でなければ 鞍馬天狗か?


 

とにかく 引き上げられたのはわかっていますが

その人の 姿があったのかなかったのか

記憶にないのです ・・・・・・ 不思議ということで 

     チョ~~~ン!

家に帰り びっしょりの僕を見た母親は

いつものことで 「また~」の 一言だったと

記憶しております


 

今日 73歳まで生きてこれたことに 

鞍馬天狗さん ありがとうございます


 

私は ガキたちの間では

同学年以下に「ケイ坊」

(当時 呼び名は 名前の後に「坊」をつけていました)

年上には「ケイ助」

そして よく川に入って遊んだりするので

「どんぶり」とか呼ばれていました

いまだに 丼を食べるときは

必ず 思い出します

    

 

川向に たか坊という 

2歳上の男の子がいました

川向うというだけで 

子供の間にも 縄張りありました

唯一 川向うとの繋がりは

子供がすれ違うのに

やっとの 手すりの無い 細い橋でした

大人の場合は

どちらかが 待って渡のでした


 

ある日 たか坊とすれ違うことになりました

私は 2歳上の高坊が

「のけ」と言ったのです

「お前がのけ」と言い返しました

押し問答の結果

私が「落したろうか」と言ったら

「落としてみー」といったので

相手がかなり大きいので

思いっきりぶつかって

ハメてしまいました


 

普段は浅い川なので

何でもないのですが

後で聞いた話だと

たまたま 運悪く 瓶のかけらで

怪我をしてしまったのです


 

夕方 たか坊の母親が来ましたが

事のいきさつだけで

怒ることなく むしろ

年下の子に道を開けなかったことを

詫びておられたとのこと


 

高坊には それまで

何度か遊んでくれたこともあり

家にも行った記憶もあります


 

両親は 教育者で

とても 優しくしてもらったような気がします

それから 少し大きくなるにつれ

引き継いだ 縄張り意識からだと思うんですが

そんな結果となったようです


 

それから 私も中学生になり

ある日 学校から帰ると

母が涙をためて 

「これ読んでみ」と

ガリ版で刷った 薄い本を受け取りました


 

それには たか坊が 病で亡くなったこと

内容は

僕に落とされた事など

彼の思い出をつづった

手作りの 本だったのです

あの事件で 私の母とのつながりができ

本を持ってこられたそうです

 

終戦後のこどもたち

 

この時代 生まれてきた戦争の忘れ形見

団魂世代の子供たち

お腹すかして やっと育った子供

ひもじい思いをさせまいと

一生懸命頑張ったご両親

特に母親の悲しみは

この記事を書いてる間にも

なんとも 切なくなります

本の題名が思い出せないのが

すごく残念です

 

へっこんだ~~出てけえへんの巻!

 

夏休み 仲良くしている

出入りの大工やさんの

3歳年下の 「とっちゃん」の話

 

それは 夏休みのことでした

お寺で 自転車に乗って遊んでいました

そして いかにスピードで 

寺の塀の寸前で止まれるかどうか

の遊びをしていました

 

思いっきり塀に向かい突進です

2・3回は 急ブレーキで止まれ

そのスリルが面白くて

だんだん スピードあげていきました

何回目かの とっちゃん番になりました

 

ところが あまりブレーキが効かず

そのまま ぶっつかりました

ある程度 減速していたので

大きなけがなく 無事でしたが・・・・


 

なんと とっちゃんが 

大声で 泣き叫びました

「へっこんだ 出てけえへん」

「中に 入ってしもた」


 

「珍珍が 沈沈が~~~ちんちんが~」

要するに 自転車のサドルに

大事なところが きつくあたり 中に入ってしまったのです


 

親が出てきて そのまま病院に行き

無事女の子にならずに済みました

だけど 当分の間 あの部分が

真っ黒でした

という事件です


 

その後 成人して 親の後を継ぎ

結婚 無事2児の父となりました


 

余談

彼は私の父に可愛がれていました

小さい時から 父と一緒に

店の改装に来ていて

私の父から 面白いことを 教えられました


 

父 「とっちゃんヨ」

 彼 「アイヨ!」(関西で「はい」の意味)


 

父 「シッカリせいヨ」

 彼 「アイヨ!」 


 

父 「落ちたらこわ飯やゾ」

 彼 「アイヨ」


 

と言う 掛け合いです

あまり意味は分かりませんが

この掛け合いは

わたしの父とだけことで

彼の父が言っても

返事をしなかったのです


 

このやり取りは

必ず 家に遊びに来ると

あいさつ代わりに やっていました

中学卒業するまで やっていたと思います