こんばんは。
minisaurus(ミニサウルス)です。
職場の人と話していた会話の中で努力に関してふと考えたので、書いていきます。
「努力」
すごくカッコいい言葉に感じます。
努力をテーマにスポーツ選手の様々な名言も生まれています。
そんな素敵な響きのフレーズですが、
ふと思いました。
努力ってどこまですればいいんですか?
どこまでやればそれは努力と呼べますか?
自分が望んだ結果が出たら努力したことになりますか?
結果が出なくても過程に満足出来れば努力したことになりますか?
考えてると堂々巡りな感じがします。
テーマでは「努力値」と書き、あえて“値”という言葉を付け足しました。
この値が求められるようになったら果たして便利になるのか?
どこかの21世紀から来たという青い猫型ロボットに頼んで自分ないし他の人の努力の量がわかれば割り切れることもあるのか?
という事も考えてはそれはそれで面白そうですが、
空想話はさておき笑
自分ではここまでやれた!これ以上は出来ない!
と感じる程の時間を過ごしたとしても、
他の人からしたらもっと頑張れるし、もっと効率の良いやり方を見つけるかもしれない。
こんな事はざらにあることだと思います。
でも、それで良いんじゃないかとも思います。
仮に自分よりも他の人が良い結果を効率よく求められたとしても、自分にとってはその「努力」という時間が必要な経験値であることに変わりはありません。
そして自分なりの成長があり、それが個性になっていくんだと思います。
なので、上手くいかなかったとしても努力した事を笑ったりするのは違います。
ですが、努力をしているからといってそれを笠に着るような態度もまた違うと思います。
努力の値が分からずとも、
納得のいく結果が出なくとも、
自分が自分なりに過ごした時間は確かなものです。
その時間を経て成長する為に今出来ることを
するのみです。
泥臭く、格好良く、生きます。
では、また。