また更新か 暇だなと言わず聞いてくださいな
真面目な話だから
父方の祖父の背中には大きな傷跡がありました
『戦争の時に肺を取ったんだよ』
と祖母から聞かされていました
だけどどういう経緯で肺を摘出することになったのか、その詳細は知らされずに育ちました
小学生の時に
『家族から戦争体験を聞こう』
という宿題が出て、たぢまは両親に戦争体験を聞いたんだけど、両親共に太平洋戦争時はまだ幼児期で記憶が曖昧でした
母方の実家は農家だったので食料事情も恵まれていて、祖父は自治会長だったため戦争に出征することもなく
田舎だったため空襲の心配なども無かったの
母方の実家の話から戦争の悲惨さは感じられなかった
でも
父方の祖父は戦争で傷を負った
たぢまは祖父の戦争体験を聞かせてくださいとお願いしたの
だけど祖父は表情を硬くして一切語ろうとしなかった
その時のたぢまがまだ幼すぎたのが原因かもしれませんが
命に関わる傷を負う闘いというのは、人に聞かせることをはばかられるくらいの燦々たる闘いで、それを体験した祖父はそのことを封印したかったのかもしれません
たぢまが高校生になっても戦争の話は避けていたように感じました
高校3年生の2月のある日
入浴した祖父が風呂から出てこないので祖母が浴室に様子を見に行ったら、祖父は浴槽の中に沈んで息を引き取っていました
心不全で…余りにも突然の死でした
札幌のお寺で行われたお通夜の夜…戦友会の方々が2、3人いらっしゃっていたのを記憶しております
だけど、戦友会の方もその闘いがどのようなものであったのかを教えてはくださいませんでした
何も語らなかった祖父
その沈黙にこそ、戦争の悲惨さを物語っていたのではないかと思われてなりません
昔家族で『火垂るの墓』を見ていたとき
飢に苦しむ兄妹の姿を見て父が
『戦争が終わった後だってずっとこんな状態だった』
とつぶやきました
祖父は負傷兵で戦地から帰ってきたために働く事がままならず、家族は食べ物を得るために野うさぎを捕まえたり、釣りをしたり、草木を食べたりそれはそれは苦労したそうです
父方の家族が山菜取りや釣り、貝を獲るなど、なにかと食物を集めようとするのはその時の習慣が身についているんだろうと感じます
終戦後から十数年経ち、中学を卒業した父は
長男だから良い学校で勉学させたい
という祖父母の願いにより、親戚を頼って富良野から札幌にやってきました
が!
札幌に来て間もなく頼ってきた叔父が肺を患って亡くなり、経済的に困窮してかなり厳しい生活を強いられたそうです
高校生になりたて…15歳の父
まだまだ幼い年頃で実家を出て、叔父を亡くしてどんなにか心細かった事でしょう
忌まわの際まで戦争体験を語らなかった祖父と
父のつぶやきに
戦争を忘れてはならない
繰り返さないためにも戦争の悲惨さを語り継がなきゃならないと強く思う次第です
今更ではありますが…北海道に残された戦友会にコンタクトを取り、祖父の所属していた隊がどのような闘いを強いられたのか聞いてみたい衝動に駆られます