「違い」に宿る性差

子どもの個性を削るまなざし、育てるまなざし


(男の子と女の子の個性と向き合う)




“らしさ”という名の檻に、知らず知らず閉じ込めていませんか?



「うちの子は、男の子だから…」
「女の子なのに、なんだか育てにくくて…」

そんなふうに、私たちはごく自然な感覚として、「男の子らしさ」や「女の子らしさ」という基準をもっています。
そしてそれが、良くも悪くも、子どもの個性の“輪郭”に影響を与えていきます。


たとえば
活発で衝動的な男の子に対して、「落ち着いてほしい」と願う。
繊細で敏感な女の子に対して、「もっとしっかりしてほしい」と願う。


これらは一見、愛情や成長を願う言葉に見えます。
けれどその裏には、「親が安心できる“型”に近づけたい」という無意識のジャッジが潜んでいることが少なくありません。

本稿では、“個性”と“性差”という2つのレイヤーが交差する地点に焦点を当て、
私たち親のまなざしが、男の子と女の子それぞれにどう作用するのか──その微細な違いを解きほぐしていきます。





男の子の個性──“内側の静けさ”を、見逃していませんか?



男の子の個性は、しばしば「行動」で語られます。
走る、ふざける、反抗する、手を出す、静かにしない…。

外に出ている“見えやすさ”のせいで、親のまなざしもどうしても「表現の強さ」や「振る舞いの目立ちやすさ」に引っ張られがちです。

でも、よく見てください。

男の子の“個性”は、行動の奥にある“感じているもの”に宿っているのです。

・乱暴に見えても、実は繊細な感受性を持っている
・ふざけているようでも、本当は自信が持てずに笑いでごまかしている
・黙っているときこそ、内面では激しい葛藤が渦巻いている

こうした“静かな個性”を、私たちはどれだけ見つけ、支えようとしているでしょうか。

男の子の育児において、親のジャッジはときに「正しさ」や「論理」で子どもを制圧してしまいます。
「ちゃんとしなさい」
「理由を言いなさい」
「そんなのは通用しない」

それは、行動を整えるには有効かもしれません。
しかし、内面の輪郭を整えるには、圧になりすぎるのです。

男の子の個性を磨くとは、「語られない感情」をくみとり、「未熟な表現」を信じて待つことです。




女の子の個性──“共感”の中に埋もれてしまう自分



一方で、女の子の個性は、“空気を読む力”や“共感する力”として早い段階から評価されがちです。
そのため、親や周囲の期待に応えることが「良い子らしさ」と結びつきやすくなります。

しかしこの「よくできる」「わかってあげられる」女の子たちは、他者の感情を優先するうちに、自分の感情を置き去りにしてしまうことがあります。

・「○○ちゃんが悲しんでるから、私が我慢する」
・「ママが喜ぶなら、私もそうする」
・「みんながそう言ってるなら、私も…」

この“合わせる力”が、個性を磨く方向に働くこともあれば、
“合わせすぎて、自分の輪郭を失ってしまう”方向に働くこともあります。


ここで、親のジャッジは“共感できる=優しさ”“従順=育てやすさ”というフィルターで評価しがちです。
その結果、「自分の意見を言う」「反発する」「自分らしく振る舞う」といった行動が、“わがまま”や“扱いにくさ”とみなされることがあります。


ですが、まさにその「わがまま」こそが、女の子が自分を取り戻そうとする第一歩なのです。

女の子の個性を育てるとは、
“共感されること”ではなく、“自分の声に自分で気づくこと”を支えるプロセスにほかなりません。




性差に対するまなざしを、個性を育てる力へと変えていくには



男の子と女の子。
個性の発露の仕方は異なります。
しかしそのどちらにも共通しているのは、「親の期待」や「社会の型」によって輪郭が歪められやすいということです。

・男の子は「強くあれ」という期待の中で、繊細さを押し殺していく
・女の子は「優しくあれ」という期待の中で、主体性を隠していく

だからこそ、私たちは“性差”という眼鏡を外し、
「この子が何を感じているか」
「この子が何に違和感を抱いているか」
「この子の“らしさ”は、どこに眠っているか」
という視点で、ひとりひとりの個性と向き合う必要があるのです。


育てたいのは、「男の子らしい強さ」でも「女の子らしい優しさ」でもありません。

その子だけの“強さ”と“優しさ”を、内側から引き出していくことこそが、
親としてできる最大のギフトではないでしょうか。




思考の余白



あなたの中の「男の子らしさ」「女の子らしさ」は、誰から受け継いだ価値観でしょうか?

その価値観に、あなた自身がしんどさを感じた経験はありませんか?

もしそうなら
子どもには、もっと自由な輪郭を許してあげたいと、思いませんか?