『親としての自立』



先日
ちょうどお盆の頃
珍しく
亡き父と夢で会いました



夢の中では
母が他界し
父がひとりで暮らしています



全く家事のできない父が
自炊し
なにやら家具を組み立て
楽しそうに過ごしていました



目が覚めて
決してイヤな夢ではなかったものの


ここ数日
『どんなメッセージだったんだろう』
そんな想いが
心のなかに残っていました……


***


そして今日
生前 父の描いた絵の前で
特に何を思うでもなく過ごしていたら


『父はベストなタイミングで
わたしの人生という列車から
降りていったんだよね』……と


こんな言葉が
こみ上げてきました


今までそんなこと
思ったことも
考えたこともありませんでした



どちらかというと


わたし以上に
面倒を見てくれた息子の
小学校入学を半年後に控えたタイミングでの別れは
悲しみとともに
悔しさを抱いていましたから



そして


父が元気で居てくれたら
もっとわたしも
仕事が続けられただろう……と


***


さらにまた

わたしの親としての自立』

そんなメッセージも
浮かんできました



父の生前わたしは
息子の育児のほとんどを
両親に任せっきりでした


仕事をするのが好きだった
『仕事=人生』であり
なにより大切だった


きっとあのままの生活が
続いていたら
わたしは親権すら
放棄していたかもしれません


本当にそれくらい
息子に関わりも
関心も持っていませんでした



それが
父の死をきっかけに
人生が180度変わりました



わたしの人生において
『親』という役割を生きることは
切り離してはいけないものだった


体験していかなければ
ならないものだったのでしょう



だから
あのタイミングで父は
『わたしの人生の列車から
降りていった』のでしょう


そんな想いが
一気に駆けめぐりました



こんな風に
父の死を受け止めたのは
初めてです


でもなんだか
とっても腑に落ちた感じがして
心があたたかくなりました


***


大切な人の死の
『意味』など
本当は無いのかも知れません


『意味』を持たせる必要も
そもそも無いのかも知れません


それでも
きっと誰もが
居なくなってしまった人が
身近であればあるほど


いつまでも
その『意味』を探し
そこへ『想い』を重ねたくなるものだと
思うんです


それは
『弱さ』かも知れないし
『執着』かも知れません
でも本当の意味で
亡き人が
心の中でともに生き続けるうえで通る
ひとつの『過程』でもあるのだと
思うんですよね


***


少し話を戻しますが

『親としての自立』


わたしは
子供がふたりになっても
『親とは…』を手探りで来ました


自分が育った環境を振り返り
『親なら ○○すべき』や
『こうあるべき』を辿り


自分には そのやり方が
『できない』『合わない』を
ただただ
痛感してきました


だからこそ
より強く感じるんです


人に決められるモノでも
型や枠にハマるものでも
無いんだと



それは


自分の人生において
『親』という役割に
どんな覚悟を持って向き合うか


あくまで
自分の人生との向き合い方のひとつとして


自分が演じる『親』という役を
どう演じたいか
どう表現したいか
どんな経験をしていきたいのか


自分で決めるから
自分で責任を取れる
責任を取る覚悟が築ける


そういうものだと
思うんです


***


夢の中の父は
『自立』して
楽しそうに暮らしていました


父との別れは
わたしの『親として自立』するための
ターニングポイントだった


楽しく『親』をして 良いんです


きっと
『このやり方は間違いなんじゃないか』と
思いながらやるから
『間違い』になるだけ


人に責任を押し付けられないくらい
『自分で決めて』いけば 良いんですよね


***

いろいろと父のこと思い出し
『会いたいなぁ…』と
しみじみ思う夜でした……お願い





↑↑息子の自由研究↑↑
『つかめる水』とやらで作りましたー
朝5時からベランダにて……