一世紀は100年ということになっている。2019年令和元年の今年、11月に満50歳になる自分は半世紀を生きたことになる。
この6月8日に父親が亡くなった。87歳と8か月の人生であった。1931年昭和6年10月生まれの父はもうこの世にはいない。もう父に会うことは出来ない。話をすることも。自分の人生においてはもう二度と生きている父と関わることは出来なくなってしまった。1969年11月、父が38歳の時に生まれた自分はあと37年で父と同じ年齢を迎える。自分はそこまで生きられるだろうか。自分はいつどんな風にしてこの命を終わっていくのだろうか。
人は皆この世に生まれ落ちていずれは死んでいく。自分の死がいつどんな形で訪れるのかは今はわからない。生まれてくるときのことと死んでいくときのことは自分自身で認識したり理解したりすることは出来たとしてもそれを他の人に伝えることはおそらく出来ない。つまり人類にとっては生と死については永遠の謎だということになる。それ以外のことについては可能性としては認識したり理解したり出来てそのことを他の人に伝えることも出来る。そんな状況を我々人類は生きていると言っていいのだと思う。けれども、一人の人間の一生で認識できることは限られている。おそらく今生きている全人類の全ての意識が人間の総体なのだろうと思うのだ。そのうちの一人分を自分は生きている。命をいただいた血を分けていただいた父さえも、他人の領分という意味では自分とは決して重なり合うことは無いのだ。父が生まれてから亡くなるまでの全てについては自分には想像することは出来ても実感することは到底出来ない。父の真実は父だけのものなのだ。そして自分の真実は自分だけのものなのだ。そう考えると、今行く先々に出会うこの目に映る人々は全て自分とは重なり合うことの無いその人分の一人分の一生を生きているところだと言える。一人の人間が尊重される意味はその現実にある。家族も、親戚も、そしてあかの他人も全ての人々がそれぞれの一人分を生きている。決して重なり合うことの無い個が集まって人類を送っているということが理解出来た気がしている、それが自分にとっての半世紀。