すごく久しぶりの更新です。

先日私の剣道の先生と雑談をしていた中で「高校時代に永峰先生に怒られた話」を聞きました。

浜松で剣道を学生時代にしていた生徒なら大体名前は知っている永峰杯の永峰先生です。
僕自身は会ったことはありませんが、永峰先生の事は静岡県剣道連盟のHPにも載っているので
どんな人だったかはぜひ読んでみてほしいです。

僕自身は剣道も拳法も稽古をしたり指導したりしている身なので多少の知識があります。

最初の繋がりは「武専」=「大日本武徳会武道専門学校」

拳法会の「押忍」の起源も武専の挨拶と言われています。

永峰先生も武専出身です。

そして永峰先生の先生は内藤高治先生、門奈正先生、斎村五郎先生とのこと。

剣道って日本の伝統文化?・・・剣道を稽古していてもなかなか歴史にぶつかる事もないのであえて僕自身の好きな視点でぶつけてみます。

内藤先生は12歳から北辰一刀流を学び・・・内藤先生の北辰一刀流の先生は小澤寅吉先生という方だそうです。
小澤先生の先生は北辰一刀流の創始者である千葉周作先生。
千葉周作先生の弟子は小澤先生だけでなく、清河八郎、山岡鉄舟、新選組幹部の山南敬助・・・。
千葉先生の弟も道場を開いており、そこでは坂本龍馬が稽古をしていたと伝えられています。

北辰一刀流の竹刀稽古は「切り返し」や「掛かり稽古」をしていた・・・「切り返し」ってそんな前からあったのか!

なんて発見は横に置いておいて、感じてほしいことは日本が近代化するきっかけになった明治維新に活躍をした「維新志士」と呼ばれるの人の多くは現代の武道につながる武術の稽古をしていたってことです。

だから?って思うかもしれませんが大切なのは武術の稽古を通して、先生からいろいろな事を学び、多くの友人に出会い、自分自身の体と心を鍛えていたということ。

技術は時代と共に移り変わっていきますが、その中で学ぶ「教え」は、そんなに変わるものではありません。

むしろ大切なことは受け継がれていくもの・・・。

そして意外と言葉で伝えているのではなく、経験を通して伝えられているも。

「維新志士」の「志士」の語源は論語からきています。

漢文
子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁。

書き下し文
子曰わく、志士(しし)仁人(じんじん)は、生を求めて以(もっ)て仁を害すること無し。身を殺して以て仁を成すこと有り。

意味
「志のある人物や仁者は我が身惜しさに仁の道にはずれるような事はしない。むしろ命をなげうって仁を達成する事もある。」

身を殺して仁を達成すること・・・「仁=人を思いやる心」

自分を犠牲にしてでも人を思いやり、人として正しいことをする。


2年生の息子たちの剣道のデビュー戦、先生は子供たちに

「試合は怖い。だからこそ大きな気合を出して、怖い気持ちを飛ばして攻めるんだ。」

って指導していました。

拳法だって同じ。人と殴りあうなんて怖いなんてもんじゃないですかね。でも、闘わなければならない・・・。

稽古や試合を通して、逃げない気持ちを経験して、最終的に人生に活かしてほしい・・・伝えたいことってこうゆう事なんじゃないかな?

幕末から現代まで一本の師弟関係でつないでみて、そう感じました。

これは剣道だけに言えることではなく、紐解いていくと浜松市や静岡県・・・正確には全国で剣道を稽古している人は自分の先生を辿っていけば必ずこのくらいの史実にはぶつかります。

例えば、新選組の三番隊組長 斎藤一。現 筑波大学である旧東京高等師範学校の守衛をしながら剣道部を指導。
二番隊組長の永倉新八。現 北海道大学である旧東北帝国農科大学にて剣道部を指導。
なんだかワクワクする話だと思いませんか?

剣道だけでなく武道全般にいえることだけど、自分たちがいま稽古していることってすごい歴史の上にある事なんですよね。

自分なりに疑問を紐解いてみるのも良い勉強だと思います。

たとえば幕末に黒船とかがきて江戸幕府が国を強化するために講武所ってところを作って、そこで剣術の稽古の竹刀の長さを「定寸、三尺八寸」って決めたから大人用竹刀は「さぶはち」。現代人は背が大きくなったから「さぶく」(笑)

竹刀を握りながら・・・「黒船が来たからかぁ~」って!

少し重みとロマンがありますよね!