なでしこJAPANの活躍によってふと気になった
‘ナデシコ’
という言葉。少しずつ調べながら書き記していたら、ズルズルと長くなった独り言。
この独り言書くのに書きためて2ヶ月は費やした・・・。
もともとの大和撫子の由来は日本書紀に出てくるクシナダヒメという巫女さんらしい…
親に撫でるように大切に育てられたから撫子(ナデシコ)だそうな。
だけどイマイチわからない大和撫子。どんな女性が大和撫子?
直に訳せば日本で大切に育てられた女性。
ではどんな女性か?
ネットでは
可憐で繊細だが心は強いナデシコの花に見立てて言う美称
花の方が名前がついた由来が日本人女性にみたてた気がする…。
「日本人女性」といろいろ調べてたら少しずれて昔の日本人の結婚観は、
海外の宗教などの結婚観とは異なるらしい…
海外ではアングロ・サクソン系(簡単にいうと白人系)の個人主義のもとで、
夫と妻は別の二人の人間である、という考え方。
そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになるそうだ。
日本の場合、夫と妻はひとりでは「半身」の状態であり、
夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。
いまは権利が認められるようになりつつあるけどね。
文明的な話じゃなくて文化的な話。
言わば、お互いがお互いの一部になっているようなもので、
社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、
妻に対して酷い言葉を投げているのではなく、
自分の半身を謙遜しているからだそうなのだ。
自分の事を「僕、イケメン!」とはなかなか言わないのと同じ感覚。
妻と僕は二人で一人…って考え。
うちの妻はたぶんそう思っていないと思うけど…(笑)
僕は
「夫婦は所詮他人」
という考えが大嫌い。
なぜならあまりにも自己的だから。自分の両親は他人?と考えたら答えは簡単。
「子供にとっては父も母も他人ではない」
と考える。つまり夫婦は他人ではない。
子供が居ても居なくても結婚をした時点で家族だと思っている。
結婚観で話がそれてしまったけど日本人らしい女性について考えていて、
調べると夫婦の事とかいろいろ考えて、感じたのは、
昔は戦をしたりとなんだかんだ男が家を開けていたり、死んでしまったり、
いまより父がいなかったのは事実。
つまり、子供に道徳観や人間性を教えていたのは母親が多くの割合を
占めていたということ。
あとは学校のようなところ。
簡単に言えば歴史上の有名な男と同じくらい女も
知識や価値観があったと考えられるということ。
龍馬伝の中で平井加尾が岩崎弥太郎の元で子供達と共に勉強していたように…。
幕末に来た外人さん達は日本人の子供や女性がみんな読み書き出来ることに驚いたそうな。
読み書きだけでなく武芸もできた。
つまり昔の日本人は男も女も関係なく○○だったということ。
書いていてこの○○が上手く埋めれない。ここに非常に悩んだ。
優秀、秀才、頭が良かった、などなどとは違う○○。
学問を学術とするならば進歩するもの。
高校に多くの子供が通う現代を考えれば平均的知識レベルは間違いなく現代がうえ。
僕が言いたいのは学力ではなく人間力。
人としてあたりまえのこと。
人として美しいことなどなど・・・。
強いて言うなれば「日本人らしい道徳観」とでも言うべきなのだろうか・・・。
例えば、以前にも書いたかもしれないけど
昔の寺子屋の教材に「六諭衍義」というのがあった。
ひらがな読みは「りくゆえんぎ」
内容は大まかには
孝順父母 父母に孝行しなさい
尊敬長上 年上の人を尊敬しなさい
和睦郷里 郷里の自然や人を愛し仲良くしなさい
教訓子孫 子孫を教育しなさい
各安生理 自分のやるべきことを成し遂げなさい
母作非為 悪いことをするなかれ
ということが書いてあるそうな。
自分も含め親はちゃんと教えているだろうか?
こうゆうことを今の学校は教えてくれない。
昔の子供たちは「四書五経」を勉強した。
四書とは「大学、中庸、孟子、論語」
これを声に出して読む。良く時代劇などで見る勉強の様子。
「子いわく・・・」
というのである。
四書の中の初級編といわれる「大学」にはこう書いてある。
「心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞けず、食らえども、その味を知らず。」
簡単に言えば心が乱れていたら
「怒ったり、泣いたり、怯えたり…したらご飯が美味しく感じない。」
といったようなこと。「平常心」を大切にしなさい!ってね。みんながよく使う
「心ここにあらず」
という言葉は「大学」からきている。「大学」には身を修める為には心を正しなさい…と。
自分の身を修められなければ家(家庭)を整えることは出来ず。
家庭を整えることが出来ないなら、国を治めることは出来ない
とある。
平常心・・・実はこの言葉、「禅」の教え。
正確には「平常心是道」=「びょうじょうしん、これ、どう」と読む。
「どんなときにでも平坦な心の状態」と思いがちだけど本当は「今の状態を受け入れる」
ことにあるらしい・・・例えば緊張している自分に「緊張するな!落ち着け!」と
言い聞かせると逆に緊張が高まる。むしろ緊張状態を受け入れることが大切ということ。
適度な緊張状態というのはとても大切。運動競技をしていた人たちにはわかると思うけど…。
ちなみに「禅」の開祖は達磨大師。
達磨ってあの赤いダルマ。
壁面に向かって9年座禅を組み手足が腐ってしまったという話からあのダルマ人形が誕生。これは余談。
書き始めたらすごくズルズルきてしまったけど、昔の子供はこんな教育を受けていたと思われる。
(ダルマの事じゃないよ!四書のこと)
今の日本にもたくさん言葉として残っているのもその名残かと・・・。
ちなみに「切磋琢磨」という言葉も「大学」からきている。
今の親とか学校とかとは教育が異なる。
「人格者の形成」である。
テストの出来る人間の形成ではない。
僕たち世代の役割は大きいと最近感じる。学校教育が点数制であり、
社会も結局点数制な今だからこそ
今まさに&これから親になり子供を育てていく僕たち世代は
サムライJAPAN&ナデシコJAPAN
にならないといけないのかもしれない…
次の世代に、繋げる為にも…。
マンガで読んだ「四書」。もう一度読み直すか・・・次は文章で!
やっと独り言がまとまった(笑)
ここまで読んでくれた人。ありがとう!!!
‘ナデシコ’
という言葉。少しずつ調べながら書き記していたら、ズルズルと長くなった独り言。
この独り言書くのに書きためて2ヶ月は費やした・・・。
もともとの大和撫子の由来は日本書紀に出てくるクシナダヒメという巫女さんらしい…
親に撫でるように大切に育てられたから撫子(ナデシコ)だそうな。
だけどイマイチわからない大和撫子。どんな女性が大和撫子?
直に訳せば日本で大切に育てられた女性。
ではどんな女性か?
ネットでは
可憐で繊細だが心は強いナデシコの花に見立てて言う美称
花の方が名前がついた由来が日本人女性にみたてた気がする…。
「日本人女性」といろいろ調べてたら少しずれて昔の日本人の結婚観は、
海外の宗教などの結婚観とは異なるらしい…
海外ではアングロ・サクソン系(簡単にいうと白人系)の個人主義のもとで、
夫と妻は別の二人の人間である、という考え方。
そのため、二人がいがみ合う時は、それぞれに「権利」が認められることになるそうだ。
日本の場合、夫と妻はひとりでは「半身」の状態であり、
夫妻がそろうことで一個の形になると考えている。
いまは権利が認められるようになりつつあるけどね。
文明的な話じゃなくて文化的な話。
言わば、お互いがお互いの一部になっているようなもので、
社交上、夫が自分の妻を「愚妻」と表現することがあるのは、
妻に対して酷い言葉を投げているのではなく、
自分の半身を謙遜しているからだそうなのだ。
自分の事を「僕、イケメン!」とはなかなか言わないのと同じ感覚。
妻と僕は二人で一人…って考え。
うちの妻はたぶんそう思っていないと思うけど…(笑)
僕は
「夫婦は所詮他人」
という考えが大嫌い。
なぜならあまりにも自己的だから。自分の両親は他人?と考えたら答えは簡単。
「子供にとっては父も母も他人ではない」
と考える。つまり夫婦は他人ではない。
子供が居ても居なくても結婚をした時点で家族だと思っている。
結婚観で話がそれてしまったけど日本人らしい女性について考えていて、
調べると夫婦の事とかいろいろ考えて、感じたのは、
昔は戦をしたりとなんだかんだ男が家を開けていたり、死んでしまったり、
いまより父がいなかったのは事実。
つまり、子供に道徳観や人間性を教えていたのは母親が多くの割合を
占めていたということ。
あとは学校のようなところ。
簡単に言えば歴史上の有名な男と同じくらい女も
知識や価値観があったと考えられるということ。
龍馬伝の中で平井加尾が岩崎弥太郎の元で子供達と共に勉強していたように…。
幕末に来た外人さん達は日本人の子供や女性がみんな読み書き出来ることに驚いたそうな。
読み書きだけでなく武芸もできた。
つまり昔の日本人は男も女も関係なく○○だったということ。
書いていてこの○○が上手く埋めれない。ここに非常に悩んだ。
優秀、秀才、頭が良かった、などなどとは違う○○。
学問を学術とするならば進歩するもの。
高校に多くの子供が通う現代を考えれば平均的知識レベルは間違いなく現代がうえ。
僕が言いたいのは学力ではなく人間力。
人としてあたりまえのこと。
人として美しいことなどなど・・・。
強いて言うなれば「日本人らしい道徳観」とでも言うべきなのだろうか・・・。
例えば、以前にも書いたかもしれないけど
昔の寺子屋の教材に「六諭衍義」というのがあった。
ひらがな読みは「りくゆえんぎ」
内容は大まかには
孝順父母 父母に孝行しなさい
尊敬長上 年上の人を尊敬しなさい
和睦郷里 郷里の自然や人を愛し仲良くしなさい
教訓子孫 子孫を教育しなさい
各安生理 自分のやるべきことを成し遂げなさい
母作非為 悪いことをするなかれ
ということが書いてあるそうな。
自分も含め親はちゃんと教えているだろうか?
こうゆうことを今の学校は教えてくれない。
昔の子供たちは「四書五経」を勉強した。
四書とは「大学、中庸、孟子、論語」
これを声に出して読む。良く時代劇などで見る勉強の様子。
「子いわく・・・」
というのである。
四書の中の初級編といわれる「大学」にはこう書いてある。
「心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞けず、食らえども、その味を知らず。」
簡単に言えば心が乱れていたら
「怒ったり、泣いたり、怯えたり…したらご飯が美味しく感じない。」
といったようなこと。「平常心」を大切にしなさい!ってね。みんながよく使う
「心ここにあらず」
という言葉は「大学」からきている。「大学」には身を修める為には心を正しなさい…と。
自分の身を修められなければ家(家庭)を整えることは出来ず。
家庭を整えることが出来ないなら、国を治めることは出来ない
とある。
平常心・・・実はこの言葉、「禅」の教え。
正確には「平常心是道」=「びょうじょうしん、これ、どう」と読む。
「どんなときにでも平坦な心の状態」と思いがちだけど本当は「今の状態を受け入れる」
ことにあるらしい・・・例えば緊張している自分に「緊張するな!落ち着け!」と
言い聞かせると逆に緊張が高まる。むしろ緊張状態を受け入れることが大切ということ。
適度な緊張状態というのはとても大切。運動競技をしていた人たちにはわかると思うけど…。
ちなみに「禅」の開祖は達磨大師。
達磨ってあの赤いダルマ。
壁面に向かって9年座禅を組み手足が腐ってしまったという話からあのダルマ人形が誕生。これは余談。
書き始めたらすごくズルズルきてしまったけど、昔の子供はこんな教育を受けていたと思われる。
(ダルマの事じゃないよ!四書のこと)
今の日本にもたくさん言葉として残っているのもその名残かと・・・。
ちなみに「切磋琢磨」という言葉も「大学」からきている。
今の親とか学校とかとは教育が異なる。
「人格者の形成」である。
テストの出来る人間の形成ではない。
僕たち世代の役割は大きいと最近感じる。学校教育が点数制であり、
社会も結局点数制な今だからこそ
今まさに&これから親になり子供を育てていく僕たち世代は
サムライJAPAN&ナデシコJAPAN
にならないといけないのかもしれない…
次の世代に、繋げる為にも…。
マンガで読んだ「四書」。もう一度読み直すか・・・次は文章で!
やっと独り言がまとまった(笑)
ここまで読んでくれた人。ありがとう!!!