母の日のプレゼントに、様々な方々から絵を注文していただきました。

本当にありがとうございます(T ^ T)

 

還暦のお祝いも兼ねたお祝いや、似顔絵こけしをご注文してくれた方もいらっしゃいました。

 

似顔絵師がつくるこけしは、日本でも珍しく、面白いお土産にもなると思います!

 

 

 

 

 

屋台村のお店にご依頼され、メニューに載せる泡盛のイラストを描いた。

パソコンでのイラストが溢れる昨今、水彩の手書き感溢れるメニューはきっと目を引くだろう。

もっと旨そうに飲みものや食べ物を描けるようになりたい!


私はこの絵を描いている途中、思いがけず涙が出た。自分の成人式を思い出した。その頃は親がどんな思いでこの日を迎えたのか考えもせず、ただ浮かれていた。



僕には子供はいないが、既に父親でもよい年齢になり、お客様がどんな気持ちで似顔絵を依頼したのだろうと考えると、感慨深い思いがした。



「とにかく派手派手にしてください!」



私はバラを背景にいっぱいに描いた。紫色は、娘さんの好きな色なのだろう。



私にとっては日常の中の一人のお客様にすぎないが、お客様にとっては一生に一度の成人式のお祝いで、一生に一度の似顔絵のプレゼントなのだ。



このブログを読んでくれたという方から一本の電話をいただきました。


「絵をみて惚れ込んだ」

こんな嬉しいことはありません。しかも五人をお書きする大作です。


亡くなったご長男さんと一緒に、草原をバックにというご注文でした。いない人を追加したりするのは、写真では難しく、絵でこそできることだと思います。また、もう一つの理由は、


「絵は飽きない」

ということでした。なぜ絵は飽きないのか私にはわかりません。しかし、スマートフォンなどで写真はいくらでもきれいに撮れるようになった今、お金と時間をかけてでも絵が良い、と言ってくれる方がいるのはとても嬉しいことです。


浦添から何度かお越しになってくれ、打ち合わせてくれ、約一月後、満足いただける絵を完成させることができました!


正直、注文があった当初は喜びの反面、戸惑いました。肖像画は似顔絵に比べて値段が高く、修正がしづらく、時間がかかるため値も張るのです。それに見合う絵を描くのはたいへんです。それでも「絵が良い」といってくれる人のために、もっと技術を高めなければ、そして、本当に喜ばれる絵に近づけるにはどうしたらよいか、など、絵の役割を改めて考えさせられる一作となりました。


一年の締めくくりに、とても思い出深い作品を作ることができました。

本当にありがとうございました!



ラードの話を漫画にしてほしいと突然電話がありました。

 

「今までの栄養学は間違っていることが証明されてきています」

 

「つまり、動物性油脂を摂取する沖縄の伝統の食生活が今見直されて来ているんです」

 

「体に良いラードを私の友人のピザ屋さんが広めようとしています。それを漫画にしてほしい」……。

 

20年前くらい前のことになりますが、家庭科の授業では動物性より植物性が良いと教えられましたが、それが今覆ってきているようです。

 

科学はわからないですねー。だから面白いのかもしれません。

 

栄養学の詳しいことよくはわかりませんが、難しいことをわかりやすく説明するためになど、漫画がいろいろな場面で使われていることを再認識しました。

 

 

今年もそうそんな季節なんですねー。沖縄にいると季節を忘れるので、こういうときに気づきます。年賀状用に似顔絵のご依頼をいただきました。養蜂場を経営されているご夫婦です。

学生時代の後輩の結婚式に参加。ウェルカムボードを描かせていただきました。晴れ姿を見て泣きそうになった。とても良い式だった。今はこの絵しかあげられなかったけれど、いつか、何かの形で返したい。



ツール:色鉛筆、アルコールマーカー(コピック)



白黒似顔絵(肖像画)のご注文。ポスターサイズで描かせていただきました。

tools 鉛筆

 

「気まずいほど似てる!」という新しいタイプのご感想をいただきました。

屋台村背景似顔絵

 

結婚式用ウエルカムボードウエルカムボードの似顔絵。

似顔絵記録17

 

「インスタで見ました。屋台村で似顔絵を描いてもらえば絶対いいって」

と聞いて感動しました(T ^ T)

長いことここで似顔絵をやって来て少しづつ色々なとことに広がって来ているようです。

 

↓台湾からのお客様

お子さんが似ているということで、アイコンにもしていただきました。

 

昨年のクリスマスに描いたという方からフェイスブックで探してもらって

大阪から似顔絵のご注文をいただきました。

大阪にもたくさん似顔絵やさんがあるのに、またご連絡をいただき、ありがとうございます!

 

 

 

 

 

 

雲南省 昆明

 
私は広州グァンジョウから動車(特急列車)に乗り、クンミン南駅についた頃にはもう暗くなっていた。特急列車の駅は郊外にあるため誰もいないが、近代的でだだっ広い。入り口を出ると、宿の客引きに取り囲まれた。今回の旅では、こざっぱりとした近代的な中国しか見ていなかったので、エネルギッシュな中国の民衆をみて、安心した。


漢字を好んでタトゥーとして彫り込む西欧人が、「漢字にはパワーがある」と言っていた。漢字はエネルギッシュで客好きな中国人の特徴をよく反映していると思う。漢字は大陸で多民族とのコミュニケーションをとる目的で生まれたという一説もあるように、「言葉が通じなくても、絵で描けば分かるだろ」ということだろう。
 
翌朝、昆明東駅から、昆明駅の方に移動した。バスを降り、リュックサックを背負っていると、まだ午前中だと言うのに売春宿の客引きがしつこく追いかけてくる。駅前のメイン通りには、移動式の物売りや、物乞いなどが所狭しと並び、激しく行きかう人々の中、監視役であろう人民解放軍が微動だにせず拳銃を構えている。

このあたりは似顔絵を売る雰囲気ではないと感じ、中国語の先生から教えてもらった、双橋街シュアンチアオジエというところで描くことにした。双橋街は大規模な夜市が開かれるところだ。の入り口で老人の売人に許可を取ろうとしたが断られた。控え目にしなくてはいけないと思っていた。双橋街の入り口で、おもちゃを売っている老人に話しかけた。
「すみません。ここで風呂敷を並べても良いですか?」
「何を並べるんだ?」
「似顔絵です」
老人は少し考えてから言った。
「だめだ、ここら辺は私が並べている」
「じゃあどこなら良いですか?」
「ここら辺は全てダメだ」
私は入り口から少し出たところで絵を並べた。
十分くらいたっただろうか、警備員らしき黒い制服をまとった男がゆっくりと近寄り手の平を上にして挙げながら
「片付けろ」
と言った。双橋街から少し出ただけで追い出されるとは。
私は心が折れ、トボトボと移動しファーストフード店で時間をやり過ごした。
 
 夕暮れに差し掛かり、フラフラしていると、小さく寂しい遊園地の入り口の前に、足の不自由な小柄な男が座って瓢箪ひょうたんを売っていた。その男は顔も私に似ており、親近感を覚え、近くに座り、絵を並べることにした。


 遊園地の小さいメリーゴーランドをみて日がくれていくのをぼーっとやり過ごした。メリーゴーランドからは『童年』という音楽がリズミカルに流れる。なにも悩みのなかった小学生時代を思い出す。あの頃は絵は好きであったが、絶対に画家にはならないと幼いながらも心に決めていた。画家=貧乏というイメージがあったのだ。絵の具にまみれたヨレヨレの服を着て、長髪でキャンバスに向かっている、それがかっこいいとは思わなかった。今の姿を小学生の私が見たらなんと言うだろう。そのようなことをビルの背景に広がる夕焼けに段々と眠気を催し、うとうとしていたが、白い子犬が私に近寄って来たところで我に帰った。その飼い主の女性が威勢のいい声で、「通りすがりの人がこんなところで座ったって何の役にも立たない。あなたはきっと昆明は初めてなのでしょう。ここは郊外よ、もっと中心街にいかなきゃ」と言う。
「もうこんな夜更けじゃ動けないし、明日にするよ」と答え、仕方なくやりすごした。

するとしばらくして、そのやりとりを見ていたのだろうか、隣で瓢箪を売っていた小柄な男が、おもむろに風呂敷にならべていた品物を片付けて去っていった。もしかするとその場を譲ってくれたのかもしれない。男の位置は私とさほど離れておらず、客が来るとも思わなかったが、せっかくの好意かもしれないので、広げた風呂敷をズルズルと移動した。

それが転機だったのか、まもなくしてカップルが来て、絵を描いてくれという。私が絵を描き始めるにつれ、人だかりが出来はじめ、「卡通カトン(アニメ)だ、カトンだ」と言っている。中国語で似顔絵にあたる言葉は肖像画であり、日本人がイメージする似顔絵は、肖像画のアニメスタイル、という位置づけになるらしい。描きはじめるにつれ、ギャラリーができた。

描き終え一息すると、ネズミ男に少し似た男が柱に寄りかかりながら話しかけてきた。イスラム教徒だというその男は「俺はアーティストという生き方を尊敬するよ。もっと堂々と構えたらいい、場所だってほら、こんなところでコソコソやってないで、あの夜市の中に入っていけよ。オレはあの夜市の中のアパートにすんでいる。心配するな」。

 迷っているうちに、男は私の荷物を持って移動し始めた。ここは昼間注意されたはずだが、意外と堂々と人混みの中に勇気を持って行くとなにも言われないものだ。男は家に帰り、缶入りの栄養ドリンクをもって来てくれ、同時に亡くなった祖父の写真と一緒に描いてくれという。男は喜んでくれ、一緒に写真を撮った。



世界の贋作工場-大芬油画村

 現代アートがブームになっている中国では、美大受験率は六千倍とも一万倍とも言われ、入学申請書類提出時には数キロもの列ができるそうだ。
 遼寧省で絵を勉強していたときから、贋作村のことを聞き、一度は訪れたいと思っていた。彼らは農村から連れて来られ、それぞれ担当が決まっていて、太陽なら太陽、空なら空を、流れ作業的に制作していくと聞いていた。

 大芬ダーフェン駅を下り、十分ほど歩くと、大芬油画村に到着した。村全部には無数のアトリエがひしめき、画家はそこで絵を売っているようだ。仕事をしているのはおそらく贋作を專門に制作する「画工」だろう。彼らは、村にある絵の下書きを専門に印刷する店で次々に出てくる下書きの絵を壁に貼り、たっぷりと大型のパレットに出された絵の具を使って手際よく筆を走らせる。





ゴッホの『ひまわり』、『モナリザ』など、精密に描かれ、とても素晴らしい技術だと感動した。
ところが絵の写真を取っていると「本人がいないのに撮ってはダメですよ」と注意された。画家たちはお互いが競争相手でありながらも、助け合っているようだった。

 この村にあるカフェに腰を下ろした。飲み物の値段が高いが、お店の内装は絵が買い当てあり、絵の村らしいカフェだ。棚にある魯迅の書物が目にとまった。藤野先生は中国の教科書にものある有名な文章で誰でも知っている。

 カフェを出るとすっかり日が暮れていた。日がくれても作業に励む。肖像画を描くものは、絵を壁に貼り付け、長い棒を壁に立てかけ、手を固定させながら描いていく。夕飯時になると、子どもがすでに学校から帰り、宿題をしているその横で、チャーハンをいため、油絵具の香りと混ざり、なんとも言えない香りが立ち込める。

 外で贋作の制作に励む画工の向かいでは、広々としたアトリエでお茶をたしなみながら学生をしどうしている画家がいた。
「いやー、今日の仕事はなかなかおわらねえなあ。向かいのあそこの先生は、経済大の美術かをでたらしくて先生で学生も多く持ってる人気の先生だよ。」
「しかし、金がなけりゃ芸術を悠長に語ってもいられねえ」
とまた仕事にもどる。
 
彼の横の画工は、絵に向かったまま虚ろのめをしている。
「おい、こっちの大先生さんは今日はいくらも筆が進んでないじゃねえか、あんたの目は死んで何百年も経っているような感じだぞ」
隣に並ぶ画工たちの笑いが狭い裏路地に響いた。
私は、贋作制作の様子をある画工の側で観させていただいた。
彼は絵を描きながら言った。
「俺はあの先生方のように大学も出ているわけじゃない。けれども俺は、毎日の贋作を描くなかで、巨匠の技術を吸収してるだけじゃない。巨匠たちの思想や、メッセージを受け取っているんだ」

 毎年開かれる展覧会で何回か入賞すれば美術協会会員となれ、「画工」から「画家」になれるという。彼らは大学で美術教育は受けていなく、正規の基礎トレーニングも受けていないものも多い。けれども、彼ら、彼女らの筆を握る日に焼け、すごいスピードで絵が産み出されていく拳からは、力強いパワーを感じた。


広東省広州
 
 香港から深圳しんせんに入ると、香港の電話のSIMカードが使えなくなり、広州でインターネットに接続するため、丸一日費やした。道端の仮設マーケットのSIMカード売りのおばさんはよく理解していないので、助け船としてSIMカード売りに来た男、ヨンという男と友達になった。

 道端で突然話しかけられ友達になろうとしてくる場合などでなければ、詐欺師の可能性は低い。私は彼を信用し、こう州での手配を色々と助けてもらった。知らない土地では、特に路上で絵をかくなどの状況では、万が一何かがあったときのために、知り合いが居た方が良いし、どこで路上活動するかを決めるポイントとして、友達が居るということは、重要なポイントだ。

 彼は私と同年齢で、彼は体育系の大学で関係の役職についている。毛沢東の出生地でもある湖南省生まれであり、父親も母親も早くに亡くし、苦労してきた彼は、広州にきたのはチャンスをつかむため、という。広州に来たときはたった五百元(700)しかなかったという。でも「今は何とか生きていける程度にはなったかな」とトヨタの新車を走らせる。広州のきれいな夜景を横目に、彼は語りはじめた。貨幣の形をしたきれいにビルのネオンが夜闇をバックに虹色に光りながら美しく波打つ。
 
 1980年代生まれは「八〇パーリンホウ」と呼ばれ、様々な意味を持つ。近代的な教育を受け、インターネットを使いこなし、社会に大きな影響を与え始める「新人類」とも言うべき存在だ。社会的な期待を担っている八〇後だが、彼らの現実の生活が恵まれているかといえば、必ずしもそうではない。彼らのなかには、たとえ大学を卒業したとしても満足な仕事に就くことができず、貧困のなか集団で身を寄せ合って生きている人々がたくさんいる。そういった人々は「蟻(あり)族」と呼ばれ、高学歴であるにもかかわらず低収入なのが特徴だ。北京などの郊外では蟻族の人々が一つのアパートに集団で住んでおり、現代中国社会の「買い手市場」の現実を物語る存在として物議を醸している。


 阿勇は高等教育こそ受けていないものの、時代の激動のなかでもまれている八〇後の典型でもあるように見えた。

 中国には結婚をする前に家を買うという慣習があり、中国人の人生における大きな壁だ。中国不動産バブルにより高騰した地価が上がる中、一般的な年収は一万元程度(90万円)でありながら、皆大金をどこから捻出しているのだろうか。幼くして両親共なくした阿勇にとっては特に金銭面での負担が重くのしかかり、想像を超える苦労があったことだろう。しかし、たくましく這い上がってきた彼の声は堂々と胸を張っていた。
 「同じ82年生まれは何かの縁だ、俺たちは幸せに向ってがんばろう!」
 
 私は阿勇に、白雲山で絵を売るように勧められた。白雲さんは全国的にも国家旅行地区5A級に指定されている。私はずモノレールで山頂に向かった。山頂は人が滞るところであり、暇な人をターゲットにするというわけだ。白雲さん頂上からは広州の街並みが一望できた。山頂では観光客にまぎれて幼稚園児がシャボン玉を飛ばしていたり、発泡スチロールでできた飛行機を飛ばしたりしてはしゃいでいる。なかなか路上に絵を並べる勇気が出ず、ベンチに座ってぼーっとシャボン玉が顔に当たり、粘り気があるほほに引っ付く。そこで我に返り、重い腰を上げ、思い切って並べてしまうと、風呂敷を並べると日差しが暖かく、思いの他他人の目線は気にならず、心地よくて眠くなりうとうとし始めた。するとそこへ、二人の女性が近寄ってきて、やけに親切に話しかけてきた。
 「素晴らしい絵ですね。ここに居ては日焼けするわ。あそこのほうが人通りも多いし木陰だから移動して、そこで書いたらどう?私たちもお客を集めるから。その代わり、私たちのアンケートに答えてちょうだいね」。

 彼女達は保険会社の社員であり、アンケート調査を行っているところだった。今日は平日であり、暇と思ったので、その話に付き合い、暇をつぶすことにした。
あなたの年と、ご職業は?今は人生でどの段階ですか?1、独身、2既婚、3既婚で子供がいる。「1です」。
 「あなたまだ独身ですか?それに、世界で30番台に入る私たちの会社も知らないとは、いったいどこからきたの?え日本?通りであなたの言葉はさっきからおかしいと思っていたの。でも日本国の福利厚生は整っているわね」
 中国人は初対面でもぶっきら棒に言葉を連ねる。大きなお世話だと思いながらも、暇を潰しに話していると、若いカップルが「描いてくれ」と言い、描き始めると、通行人が集まり、並べた絵を見ながら「卡通(アニメ)だ、卡通だ」「今は輪郭を描いているぞ」とか、「口紅を塗ったぞ」とか色々と解説している。描き終わって見せてみると、奥歯にものがはさまったような顔をしている。大陸では肖像画のようなリアルな絵が多いので、デフォルメはなかなか受け入れられないのか、ただ出来栄えが気に入らなかったのか、たくさんのギャラリーはいたが、次に描いてという者は現れなかった。結局また暇になり、保険会社の人と話を続けた。
 
 翌朝、私は白雲山の入り口付近で描けるところを探し、うろうろした。休日なので、人が多く、お菓子、おもちゃ、栗などを売る露店商も多く見られ、着ぐるみをきた孫悟空を見かけた。これは、こどもと一緒に写真をとり、お金を取る商売だろう。なるほど、これなら交通の妨げにならないので取り締まられることもないのだ。警備員にびくびくしながらうろうろしている私を横目で見ながら、孫悟空は階段の手すりに乗っかりで休んでいた。私はぐるぐると歩き回り、あまり目立たない、道がすぼんでいて、人が密集してとおる場所で、焼き芋や、ウサギと亀のおもちゃを売っている人々と並んで、私は絵を並べた。するとまもなく、「何を売っているの?」とオモチャを売っている女性が話しかけてきた。 どこの馬の骨ともわからない人が来たら冷たくあしらわれるのが普通だが、ここではやさしく接してくれた。
「ここは、週末は城管チェングァン(都市管理職員)が多いから大変よ。風呂敷を広げて、驚いての連続だわ」。

 ザックの中から画材を取り出し、準備を終え、マクドナルドのホットコーヒーで一息ついた。が、ふと振り向くと、警備員が真後ろに座っているではないか!私は驚いて声を上げそうになったが、彼は私を取り締まる様子はなく、うとうととうたた寝しており、よく見ると胸には「執勤」と書いてある。これは周囲でマッカーサーのサングラスをかけて交通誘導していた人たちと同じであり、どうやら交通系を取り締まる役職らしかった。

 しかし、しばらくして黒い征服を着ている人が二人組みでゆっくりとやってくるのが見えた。それを察知するなり、おもちゃ売りの女性はひょいと風呂敷についた棒を持ち上げ、サーと小走りで遠くに移動する。栗売りは、栗を炒める砂利をこぼしながらも、ものすごい速さでリアカーを引き、サーっとチリジリになっていくのだ。すごい機動性だ。その他多数の露店商たちも、気づいたときには姿はなかった。

 週末は明らかに城管が多いが、露店商たちは一日に何回も取り締まられながらもひつこく路上で販売する。それだけ売れるということだろう。そして,一番最後に取り残された私が取り締まりの餌食となるわけだ。海外で政府の職員に抵抗するとどうなるかわからない。「分かりました」と言い、さっさと荷物を片付けて去るのみだった。

 何度か場所を変え、試みたが、同じことの連続だ。取締りが厳しすぎて、もうこのあたりでは路上はできないと思い、あきらめて、とぼとぼとバス停に向った。

 また着ぐるみ孫悟空と眼が合う。無表情な着ぐるみ孫悟空は、応援してくれているのか、はたまたあざ笑っているのか、くるくると如意坊を回しながら、私を見送っていた。