はじまりは、雨の日だった。
私はその日、うっかり一本曲がる道を間違えた。
雨が激しく降っていたからかもしれない。
家に帰りたくなかったからかもしれない。
変わらないのが嫌だったのかもしれない。
とにかく、私はその日一本曲がる道を間違えた。
いつもと風景が違うことに気づいたのは、道を曲がってしばらく後だった。
傘をさしていてもほとんど意味をなさないほどの激しい雨に、私は今来た道を引き返す気力さえも奪われていた。
ーーとにかく、休みたい。
そう思った矢先だった。
一軒の喫茶店が私の前に急に現れたのは。
いや、私がぼうっとしていただけだろう。
私は暗い店内への扉を開けた。
店内にはひとり、女性の店長が立っていた。
「すみません、もう閉店時間でしたか?」
私は店内が暗かったので思わずそう聞いた。
彼女はいえ、と小さく返事をした。
「すまないが、ホットコーヒーをもらえますか」
私は席につくと、彼女が貸してくれたタオルで顔を拭いた。全身ずぶ濡れだが、店内に香る珈琲の香りが私の心に落ち着きをもたらしてくれた。
雨音がごおごおと店内に響いている。
「お待たせしました」
彼女はホットコーヒーを静かにテーブルに置いた。
香りとともに湯気がゆらりと広がる。
最初は暗い店だと思ったが、次第に慣れてきた。
「しばらく、止みそうにないですね」
彼女はテーブルを拭きながら外の様子を見る。
「ごゆっくり」
しばらくすると、小さな音でジャズが店内にかかりはじめた。曲名は知らないがスローテンポな曲が耳に心地よく聴こえてくる。
私は乾きはじめているネクタイをほどき、カバンの中に入れた。
ホットコーヒーを飲みながら、私は広がっていく香りをゆっくりと味わう。
仕事中に飲むコーヒーとは何もかもが違う。
家で飲むコーヒーもここまでおいしくはない。
仕事にも、家庭にも、疲れた。
そう嘆いても仕方がないことはわかっている。
「コーヒー、お好きなんですね」
気づくと店長が席の近くに立っていた。
ええ、とてもおいしいです、と私は返事をした。
そう答えながら私は自分に驚いていた。
わたしは、コーヒーが、好きだった。
いつからだろうか。
私は自分の好きなものをじっくり味わう時間を過ごすことさえ忘れてしまっていた。
バランスの取れた生活なんて幻想だ、と思うようになってしまった。
私は知らない間に自分であることを諦めてしまっていたのだ。
たった一杯のコーヒーが、
たった一本の道を間違えたことが、
はじまりをつくってくれるきっかけとなった。
自分であることを取り戻すためのはじまりを。
私はコーヒーを飲み干すと、店の外へ向かってゆっくりと歩き出した。
ーここからまたはじめればいいー
雨は少しだけ弱まってきているらしかった。
「コーヒー、美味しかった。また来ます」
私は傘をさし、再び雨の中へと歩き出した。