穏やかな幸せに満たされる時。
子どもの頃よく通った通学路。白く光り輝いていた公園や広場が、今は荒れ果ててタイルは剥がれ落ち、草が生い茂る。森や林は冒険の舞台秘密基地だった。エンデの『モモ』に出てくるような、古代の劇場跡を思わせる広場。あの時、ランドセルを背負って走り回っていた自分が見える。担任の先生と途中まで、なぞなぞを出しあい、大笑いしながら途中まで一緒だった。それを見守る自分。なんて寄り添って、何て声をかけて、守り、導くのだろう。あの時の先生や大人たちが大人の事情の中で、仮面をつけつつも、どう未熟な子どもたちを気にかけ導こうとしてくれていたのか、と思う。大人たちや親を見て、「人なんてみんなまだ子どもだ」と思う。子ども時代に戻れるなら、、、と思うし、二度と戻りたくないとも思う。とにもかくにも、どんな自分でも安心して受け入れてくれる場所を欲していた気がするんだ。「この町ってこんなちっちゃかったっけ」と思う。もっともっと、町は巨大で、未知の領域ばかりで、一駅分は果てしない向こう側。子ども時代って守られていて、幸せだったかもしれないと思う反面、自由がなく、無力で、自分のことを自分で選択できない、自由になりたかったっていう、そんな気持ちもあったと思う。子どもは早かれ遅かれ、資本主義社会の競争に巻き込まれていくことを強いられ、それが全てに優先されるようになる。でも、幸せな思い出をたくさん作ることが、人生の土台になる。自然の中でいっぱい遊べ、冒険しろ、楽しめ、と思う。幸せ。ドラえもんとか、クレヨンしんちゃんとか、ちびまる子ちゃんとか、サザエさんみたいな日常。大切な人とただゆっくり一緒にいられる時間。私が私で良くて、あなたがあなたでいいと、丸ごと受け入れられ、全てが愛おしいと思えたら、それはすごく幸せなこと。今まで生まれ、生き、死に、絶滅していった、地球上の全ての生命は、本当は幸せなのかもしれない。全ては完全で、幸せのうちにあるのかもしれない。物事は移り変わっても、記憶は、年輪のように、地層のように心の深くに堆積していく。それが愛であれ、恐れであれ、憎しみであれ、悲しみであれ、孤独であれ、不幸であれ、気がつかれ、発見されることを待っている。抱きしめられることを待っている。再び紡ぎ出されて、新たな地層となっていくことを待ち望んでいる。愛は永遠で、愛は死なない。だからこそ、愛は、愛でないものの全てに渇きとうめきを感じ、それを完全に愛で満たそうとするまで、その訴えをやめない。全ては愛の両面である。腹の底からゾクゾクするような、溢れんばかりの穏やかで静かな幸せにいつもいつもどんな時も満たされ、そこにいつでも何度でも、委ねられ、その中に生きて死ぬことができたら、それは本当に幸せなことなんだ。