天上絵師KAWAZO旧ブログ -77ページ目

やっぱり、これだけはどうしても…

書いておきたい。

というか、書いておかなきゃいけない気がする。
ので、書く。

私は人様のことをそうそうとやかく言えるような人間ではないので、できる限り、人様のブログなりを、一方的に非難するようなことはしたくない。

もちろん、自分の考えを書くにあたり、誰かと対立する意見を述べることもある。
異論ばかりを書くこともある。

が、そういう時でも、足蹴にするようなことはしないよう、心がけているつもりだ。

けれども、そうも言っていられないことというのも、実際に起こる。





昨年12月12日の記事「意識を自分の中に戻し、自分の足で立って歩く」

この記事に、あるブログのことを書いた。
獣臭さ、と、表現した。


実はその某ブログは、この年末年始にネットを使って日本国内36カ所だか何か、有名な神社の画像を記事に貼って、記事上でそのお社に参拝することを読者に求めていた。

その目的は、日本国土全域に、光で柱を建て、国防?しよう…というもの。

具体的に参拝の時の捧げ文句も書かれていて、また、その柱とやらを霊視できるようになる練習法なども載せている。


私は以前、その人のブログの読者だった。
何かの教典から引用してきたと見られる文章を毎日UPされており、その文面は、時には意味深いものであり、面白くもあった。

途中から、自分自身が市販されている書籍類にも興味が薄れてきたこともあって、だんだんとそのブログを読みに行く頻度が減っていったのは、確かだ。

が、ある日、久しぶりに訪れたところ、何やら以前の記事を様子が違っていた。

遡って内容を拝見してみた。

何日か、経過を拝見した。

その上で、12月12日の記事を書いた。


それから、数日おきに様子を拝見していたのだが…。


大変申し訳ないが、私には、そこで展開していることが、神の意志を具現した行動であるとは、とても、思えないのだ。

12月の記事にも述べているが…再度、ここに、繰り返す。


神社へ詣でずとも、神へ感謝することはできる。
捧げずとも、伝えられる。

自分の神は、自分の中にいる。

ポジティブな脅迫に踊らされぬよう、あなたの神は、あなたの中からあなたを見守っている。


柱など、見えなくても良い。
見えないからといって、自分の霊性が低いのではないか…などと、ムダに思い悩むことのなきよう。

そのようなくだらぬことで悩んでいられるあなたは、すでに十分幸せだ。

そのようなものが見えずとも、見ずとも、平和を祈り、神に語りかけることはできる。

そのようなものが見えないならば、祈りも会話もできないのだ…と、思わされぬよう。

どうか。

どうか。


反対意見を述べる者をサタンだと言うことは、誰にでもできる。
それは、たやすい。

では、サタンとは何だ?

かつて、キリスト教拡大のため、土着の神々をことごとく悪魔だと呼びそやしたのは誰だ。

神の名の元に多くの民族の文化を破壊し、彼らの神を奪い、支配の土壌を作ったのは、一体誰だ。



神社のお社の画像に、「直接神様が居ます」と、その人は言う。

その神は、どの神だ。


私の縁ある神社も、その参拝ルートに入っていた。
牛頭天王は、忿怒相の荒神だ。
そのような獣臭い企ての道具と、大人しく成り下がるか。


ネットで不特定多数に念を送らせることを求め。

その念で、何をする。

決まったルート、決まった文句、決まった手順、決まった様式を求め。

その儀式で、何を行うのだ。


国防のため?
平和のため?
光のため?
某国との間に霊的防壁を作る?


>光の御柱を完成させましょう。
>神の御国を創りましょう。


このような文言を振り立てる者が、神の名を語る時、ほんの100年足らず前、この国が歩んだ歴史を思い出さずにいられようか。

かつて日本は、聖なる神の同一人であるとする天皇のためと称し、無謀な戦争で多くの犠牲を出した。

大義名分、錦の御旗の元に愚行を重ねた、ほんの少し前の我々の先輩達は、歴史に何を残した。


よく見るがいい。
念を集めて練って作った防壁など、まやかしだ。

そんなもの、見えぬほうが良い。

まやかしの光で目を潰されぬよう。


見るべきものは常に、己自身の中心に在る。