イエス様と生きる

イエス様と生きる

世界には多くの宗教があります
宗教団体に所属されている方もいます
日月神示では今までの宗教では救われんぞ
そのように示されています
どうして宗教では救われないのか
もう一度原点に帰ってみる必要があります

日月神示㉞ 春の巻②

大日月大神としてこの神は一柱ですが、働きはいくらでもあるのです、その働きの名がもろもろの神様の名です、無限であるのです、この方は一柱ですが無限の柱なのです、総てが神であるのです、一神です、多神です、汎神(はんしん)です、総てが神です、喜びです、始めから全体を掴もうとしてもそれは無理と申すものです、手でも足でも良いのです、どこでも良いから掴める所から掴んでください、段々分かって来るのです、全体を掴むには全体と同じにならなければならないのです、その人民人民の掴める所から掴んでください、この方は抱き参らせてあげるのです、マツリから出直してください、天地を見てください、大きなマツリになっているのです、霊と肉のまつりが第一です、頭とハラのまつりは結構なのです、二二のマツリは出船の港です、奥から来るものは喜びです、念です、力の元です、生きの生命です、神様にはハラ(腹)を向けてください宇宙の総てはこの神の現われであり一面ですから、そのどこを掴んで拝んでも良いのです、どこを掴んで縋っても良いのです、水の流れも宗教なのです、総てに神の息が通っているのです、一本の箸を拝んでも良いのですがしっかりと目当て、良い目当てを決めなければなりません、内の自分に火をつけてください、心を暗くしては何も分かりません、世の中は暗く見えるのです、真っ暗に見えたら自分の心に光が無いのです、心してください、自分が光れば世の中は明るいのです、より上のものから流れて来るものにまつわって行く事が大切です、それがまつりの元です、それが宗教です、宗教は生活です、生活は宗教です、裏と表です、順と区別さえ心得ておれば、何様を拝んでも良いのです、日の神様ばかりに囚われると分からない事になるので気を付けておくのです、それでは理(みち)にならないのです、父だけを拝んで母を拝まないのは親不孝です、お陰は無いのです、お陰があったらヨコシマのお陰だと心得てください、手だけを尊んではいけません、足だけを尊んでもいけないのです、一切に向って感謝してください、門もくぐらず玄関も通らないで奥座敷には行けない道理です、順序を馬鹿にしてはならないのです、いつまでも門に立っていても何もならないのです、お出直しです、川が無ければ水は流れない道理です、はじめはカタを踏んで行かなければならないのです、自分を捨てて他力は無いです、人民がいなくてはこの世の仕事は出来ないのです、人民は道具で神は心です、元です、元だけではならないのです、道具だけではならないのです、大神様は一切を幸し一切を救い給うのです、一切が神であり一切が喜びであるのです、その人民にメグリが無くてもメグリ負う事があるのです、人類のメグリは人類の誰かが負わなければならないのです、一家のメグリは一家の誰かが負って果たさなければなりません、善人が苦しむ一つの原因です、神の大きな恵みであり試練であるのです、分かりましたか、愛するものほどその度が濃いほど魂が入っているのです、先祖が大切にしていたものは大切にしなければなりません、現界だけの理屈は通らないのです、飛んだ目に遭うのです、気をつけておきます、念じてから行ってください、局部的に見るから分からないのです、文字を書くのは心ですが心は見えません、手が見えるのです、手が見えるのはまだ良い方なのです、筆の先だけしか見えないのです、筆が文字を書いていると見えるのが今の人民の考え方です、筆が一番偉いと思っているのです、信仰に入った始めは良いのですが途中から分からなくなるのです、そこが大切です、分からなくなったら神示を読んでください、キを頂いてよみがえるのです、出足の港は二二の理(ミチ)からです、真理なのです、これが乱れると世が乱れるのです、神界の乱れはイロからだと申してあるでしょう、男女の道が正されない限り世界は少しも良くはならないのです、今の世の様子を見て早く改心結構にしてください、和は力です、神に任せきると申してもそれは自分で最善を尽くして後の事です、努力しないで任せるのは悪任せです、悪のお任せが多いのです、魂の財産は金を得るより数倍難しいのです、濡れ手で粟のやり方ではカスをつかむのです、むやみに腹が立ったり悲しくなったり、くやしくなったりするのはまだメグリがあるからです、メグリの霊界との因縁が切れていないからです、愛は養わなければなりません、夫婦は命がけでお互に築き合わなければなりません、夫婦愛はあるのではないのです、築き上げなければならないのです、生み出すのです、つくり出すのです、そこに尊さがあるのです、喜びがあるのです、左には宗教、右には芸術です、八合目あたりに行くと総ての様子がほぼ見当つくのです、それまでは誰でも良く分からないものです、これという先達があったら、先達の言う事に言う通りについて行ってください、おかしい先達は始めからおかしいのです、苦労して手をかけて金をかけるほど良いものが出来るのです、信念を越えて自分より上のものに任せきったのが理解であるのです、信念だけでは何事も出来ないのです、確信は理解からです、親子、夫婦、兄弟姉妹と生まれても逆縁があるのです、カタキ同士が結ばれる事があるのです、それは神の大きな恵みです、それに打ち勝って新しき生命を生み出して仕えまつってください、体験のないところに宗教は無いのです、神から出るものは理(みち)に決まっているのです、この平凡な理の道理が何故に分からないのですか、得心出来ないのですか、理(みち)に従えばこそ向上、弥栄えするのです、天狗だから、慢心するから、理がなくなるから行き詰るのです、一応は世界一家のカタが出来るのですが、それではならないのです、それを越えて、ねり直して誠の一家となるのです、天が上で地が下で中に・があるのです、それがミロクの世です、気長にやれと申してあるでしょう、長い苦心がなければ良いものは出来ないのです、この世で出来終わらなければあの世まで持ち続けても、やり続けても良いのです、そなた達はあまりにも気が短いのです、それではならないのです、誠の生活は永遠性を持っているのです、永遠でないものは宗道では無いのです、宇宙のすべてがつながりです、石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながっているのです、手と頭のようなものです、拝み合ってください、親しみ合ってください、和してください、和すと自分となるのです、自分が大きく明るくなるのです、豊かに嬉し嬉しなのです、赤いものの中にいると赤くなって行くのです、理(リ)に向っていると、いつの間にか神の気をいただくのです、神の光がいただけるのです、二度三度話を聞いたり拝んだりしたくらいで理は分からないのです、神は解からないのです、体験しなければなりません、一方的では何事も成就しないのです、持ちつ持たれつであると申してあるでしょう、今の自分の環境がどんなであろうとそれは事実なのです、自分の境遇に不足言わないでください、現在を足場として境遇を美化し善化して進んでください、そこにこそ神の光、喜びが現われるのです、逃げ道を作れば迷いの道に入るのです、楽に得たものは楽に失うのです、信仰の始めは感情に支配されがちです、理智を強く働かせなければなりません、人間は絶えず穢れて来るのです、穢れは清める事によって改まるのです、厄祓いしてください、福祓いもしてください、想念は永遠に働くので悪い想念は早く清算しなければならないのです、中の霊は天国に行っても、外の霊はこの世に残るのです、残る事があるのです、残ってこの世の事物にうつって同じ事や同じ所業を繰り返す事があるのです、早く洗濯してくださいと申してあるでしょう、梅の実からは梅が生えるのです、その梅に実が出来て、また梅が生えるのです、人間も生れ変わっても死に変わっても、中々悪い癖は直らないものです、悪い癖を少しづつ直して行かなければなりません、努力次第で漸次直るのです、宗教は霊、芸術は体です、新玉の真珠の波も草も木も春立ちそめてよみがえりけり、今の科学は科学のことは分かるのですが、それより上の事は分からないのです、今の科学はあるものがあるということだけしか分からないのです、良い求めには良い感応、良い感応に良い働き、良い理解となり、良い生活が生まれ、間違った求めには間違った神、間違った生活が生れるのが道理なのです、窮屈であってはならないのです、しかめっ面をして固くなっていてはならないのです、笑いの道、喜びの道にこそ神のハタラキがあるのです、宿命は宿されたものですから一つの枠に入っているのです、運命は自分で切り開く事が出来るのです、磨いて磨いてください、ミタマ磨きは結構です、信念だけでは行き詰るのです、自分は自分の意志で生れたのではないのです、その時、その環境を無視出来ないのです、その法則に従わなければならないのです、草を拝めば草が神となり、機械を拝めば機械が神となるのです、食べ物を拝めば食物が神となるのです、心してください、神は人民を根本から永遠の意味で良くしようと誠の喜びを与えようとしているのです、局都的瞬間的に見ても分からない事が多いのです、お陰はすぐには無いものと思ってください、すぐのお陰は下級霊です、眉につばしてください、考えてください、現在の環境を甘受しても甘受だけでは足りないのです、感謝してください、積極的に感謝して天地の恩に報いなければなりません、誠の真理を知らない人には神は分からないのです、念じながらやってください、神の為と念じながらやれば神のためとなるのです、小さい行為でも霊的には大きなハタラキとなるのです、自分が強くなるから発展しないのです、行き止まるのです、我よしとなるのです、調和が神の現われです、霊と調和し肉体と調和し人と調和してください、食べ物や住居と調和してください、世界と調和してください、嬉し嬉しなのです、一生かかっても良いのです、遅くはないのです、自分の中のケダモノのために直しにかからなければなりません、悪い癖を直さなければなりません、これが第一歩で土台です、良い事は人に譲り人を褒め、人を立てる事こそ人の人、敬愛の誠心に誠祈り誠行う人が人なのです、何事に向っても先づ感謝してありがたいと思ってください、始めはマネ事でも良いのです、結構と思い幸いと思う事です、そこに神の力が加わるのです、道は感謝からです、不足を言えば不足となるのです、心のままであるとくどく申してあるでしょう、病気でないと思い、弥栄えと思うのです、病治る元が生まれるのです、キが元です、何事が起きても何クソと思えば神の力が加わるのです、恐れは恐れを生むのです、一聞いて十悟らなければならないのです、今の人民には何事も平面的に説かなければ分からないのです、平面的では立体の事や次元の違う事は分からないのです、ハラで悟ってください、相手が八と出たら二と受けてください、人民と申すものは物に囚われるから何事も分からないので相手が十二と出て二十と出て三十六と出たらポカンとして分からない事になるのです、十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受け、また十二と受ける手もあるのです、二十と出たら八十と和してください、立体になればそれだけ自由になるのです、世界が広くなるのです、早く立体を悟ってください、立体から複立体、複々立体、立立体があるのです、✖と÷と和せば※となるのです、複立体なのです、さらに複々立体、立立体があるのです、⦿がその元であるのです、⦿となれば超自由、超自在、超無限となるのです、超完成であり超未完成でもあるのです、神は全智全能から超全智全能に弥栄えしているのです、難しいようですがこの事を良く分かってください、新しい段階に入る門なのです、道は三つだと申してあるでしょう、三とは参です、3(スリー)では無いのです、三は無限です、平面的に申せば右と左とだけでは無いのです、その右の外にまた左の外に道で無き道があるのです、それを善の外道、悪の外道と申すのです、外道が多いのです、中の中には中の道があるのです、中の中の・は無であるから動き無いのです、動き無いから無限の動きです、その・の外の中は人民にも動きが見えるのです、この道は中を行く道だと申してあるでしょう、中の・の道は太神の道、中行く道が神の道、中の道が人の道です、思想と申すのは広い意味で太神から出ているのですが幽界からの力が強く加わっているのです、念と申すのは神界からの直々であり、悪の気を断たなければ念とはならないのです

考察➡6月から大本神愉を掲載する予定です、出来るだけ読みやすいようにまとめています、日月神示の場合も薄めなさいとなっています、原文そのままでは誰も理解出来ないという事です、記号や数字の解読は難しいとなります、現代語にしても難解であるのですが、世に広めるという意義はあります、間違った宗教を広めて多くの人を地獄に落とすのではやらない方が良いです、イエス様信仰をして地獄に落ちるかどうかどうやって分かるでしょうか、イエス様は当時の権力者とユダヤの人々から地獄に落とされたようなものです、罪人として処罰されたのです、イエス様の教えや行動に地獄行きの要素はあるでしょうか、多くの人の病気直しや患いを直したり、悪霊を追い出す権威があるのですから信じるに値します、普通の人は何も直せないし悪霊のままです、どんな人が悪霊に憑かれているか判断するには憑かれているものを見れば分かります、イエス様が付いていないのが悪霊憑きです、イエス様を先生と言いながら裏切ったユダもいます、イエス様を売るという行為は裏切りになります、イエス様を売ってお金を得るのは裏切りです、牧師や神父は裏切りですね、もっとひどいのはパウロを先生にして地獄の子にする伝道です、イエス様が十字架で罪を身代わりに背負ってくれたという神学は学なのです、神力とは神様の力で人を救うという力です、人を救うという力は人にはありません、人には権威が無いのです、裁く権威も無い、救う権威も無い、自分のものは何も無いと日月神示の教えです

日月神示㉝ 春の巻①

新しき御代のはじめのタツの年にスメ大神が生まれ出るのです、皆さん御苦労ですがグルグル廻ってまた始めからなのです、始めの始めと始めが違うのです、皆始めはヒ(一)からです、赤児になって出直してください、肚で見て肚で聞き肚で話してください、肚には間違いは無いのです、祈りばかりでは祈り地獄です、神から光を頂けるように理(ミチ)をつけなければなりません、水は低い所に流れるのです、喜びに叶う心、喜びの行ある所に喜びが来るのです、喜びにも正しい喜びと曲った喜びがあるのです、無限の段階があるのです、心して迷わない様にしてください、ここは光の理(みち)を伝えて行う所です、教えでは無いと申してあるでしょう、教えは教えに過ぎないのです、今度は理(みち)でなくてはならないのです、天の理、地の理、もろもろの理のカタを急ぐのです、教えは局部的、時、所で違うのです、迷信となるのです、肚(腹)が神であるのです、カミ人と申す人は、神の弥栄えのため世の弥栄のために祈り、実践する人の事です、神のために祈れば神となり、世のために祈れば世と一体となるのです、自分のためばかりで祈るのは迷信、我よしの下の下です、誰でも霊カカリであるのです、石でも木でも土でも霊カカリです、これは一般の神カカリなのです、特別な神カカリは神の御力を強く深く集める行が要るのです、九分通りはしくじるのです、太陽の光を集める事を知っているでしょう、神の理(みち)をより良くより高く集める理(みち)が誠の信仰なのです、理(みち)なのです、世が迫って来て霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時が来ているのです、悪の神かかりに迷わないでください、審神(サニワ)してください、外は嘘が多いのです、内の声には嘘が無いのです

節分の祝詞

掛け巻も畏き極み九二つ千の、清(すが)の中なる大清み、清みし中の清らなる、清き真中の喜びの、其の真中なる御光の、そが御力ぞ、綾によし、十九立(とこたち)まし、大九二の十九立(オオクニのトコタチ)大神、豊雲野(とよくもぬ)、十四(とよ)の大神、瀬織津の、ヒメの大神、速秋の、秋津ヒメ神、伊吹戸の、主の大神、速々の、佐須良ヒメ神、これやこの、太日月(オオヒツキ)、皇神(すめかみ)の御前畏こみ、謹みて、うなね突貫き、白さまく、ことの誠(真言)を伊行く水、流れ流れて、月速み、いつの程にやこの年の、冬も呉竹、一と夜(よさ)の、梓(あずさ)の弓の今とはや、明けなむ春の立ちそめし、真玉新玉、よろこびの、神の稜威(みいず)につらつらや、思い浮かべば、天地(アメツチ)の、始めの時に、大御祖神(おおみおや)、国常立(クニトコタチ)の、大神伊、三千年、またも三千年の、もまた三千年、浮きに瀬に、忍び堪えまし、波風の、その荒々し、渡津海(わたつみ)の、塩の八百路の、八汐路の、汐の八穂合い、洗われし、孤島の中の、籠らいし、籠り玉いて、畏くも、この世かまいし大神の、時めぐり来て一筋の、光の御代と、出でませし、めでたき日にぞ今日の日は、御前畏こみ、御饌御酒(みけみき)を捧げまつりて、海山野(うみやまぬ)、種々(くさぐさ)珍(うず)の、みつぎもの、供へまつりて、かごぢもの、ひざ折り伏せて、大まつり、まつり仕へむ、まつらまく、生きとし生ける、まめひとの、ゆくりあらずも、犯しけむ、罪やけがれの、あらむをば、祓戸にます、祓戸の、大神達と相共に、ことはかりまし、神直日、大直日にぞ、見伊直し、聞き直しまし、祓ひまし、清め玉ひて、清々し、清(すが)の御民(みたみ)ときこし召し、相(あい)諾(うずな)いて、玉へかし、玉はれかしと、多米津(ためつ)もの、百取(ももと)り、さらに、百取の、机の代(しろ)に、足らはして、横山の如、波の如、伊盛栄ゆる大神の、神の御前に、まつらまく、こいのみまつる、畏こみて、まつらく白す、弥つぎつぎに、新玉の玉の御年(みとし)の明けそめて罪も穢れも今はあらじな、節分の祝詞です、太祝詞してください

いよいよの年が立ちそめたのです、嬉し嬉しの御代が来るのです、同じ名の神が二つあると申してあるでしょう、表の喜びが・、愛、真、善、美となって現われ、裏の喜びからは、〇、憎、偽、悪、醜が現われるのです、喜びが神だと申して裏の喜びではならないのです、今の人民の喜びは裏の喜びなのです、悲しみを喜びと取り違えているのです、この巻は春の巻、細かく説いて解かりやすく説いて聞かせるのです、別ければそれだけ小さくなるなるのです、人民が栄えて行く事は、神が弥栄えする事です、神も人民も、世界も宇宙も、総ていつまでも未完成です、神様でも大神様は分からないのです、ただ喜びに向ってひたすらに進んで行けば良いのです、正しき喜びを先づ見極めてください、見極めてひたすらに進めば良いのです、食物を食べるのも喜びです、正しい食物を正しく食べてください、更に喜びが増えて弥栄えるのです、自分の喜びを進め進めて天国に入ることが出来るのです、悪い食物を悪く食べるから悪くなるのです、目に見える食物ばかりでないのです、何もかも同様です、人民は喜びの子と申してあるでしょう、罪の子ではないのです、嬉し嬉しの道があるのに何故歩まないのですか、喜びが・、真、善、美、愛と現われ、それがまた喜びとなり、また・、真、善、美、愛となり、また現われて限りないのです、喜びの本体はあの世、現われはこの世、あの世とこの世と合わせて真実の世となるのです、あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪で誠は成就しないのです、あの世とこの世とは合せ鏡、神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世を⦿として、心として生命しているのです、神人と申してあるでしょう、この道理をよくわきまえてください、この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のものです、くどいようですがこの事を肚の中に入れて得心してください、これが得心出来なければどんなに良い事をしても、誠を申しても何もならないのです、ウタカタ(水の泡)です、時節が来たのですから今までの様に一方だけではならないのです、こと別けて書いて置きますから、迷わないように人民の理(みち)を歩んでください、何もかも嬉し嬉しとなる仕組み、人民には禍いは無いのです、不足は無いのです、いつも楽し楽しの歌で暮せる仕組みですと申しても、心で分かっても、今の人民には分からないでしょうから、更にこと別けて、こまかく説いて聞かせるのです、道しるべを作っておくのです、これが喜びの理(みち)です、人民の生命を正しく育てる事が一番の喜びです、人民と申すものは神の喜びの全き現われであるのです、いくら汚れても元の神の根元神のキを受けているのです、それを育てる事です、導く事です、死のうとする人を助けるのもその一つです、宿った子を殺す事は人民を殺す事です、今の人民の九分九厘は死んでいるのです、救い救い救うのです、お陰は取り得なのです、生かして生かして生かす理(みち)は神示を読む事なのです、人民を褒める事は良い事です、褒めてその非を悟らせるのです、罪を許す事です、ものを生かす事です、生かして使う事です、神示(ふで)を広める事です、やって見てください、必ず嬉し嬉しとなり栄えるのです、嬉しくなかったら神はこの世にいないのです、神示は一本道ですから始めからの神示を良く読んで見てください、何もかもハッキリして来るのです、神示をうつしてください、世界にうつす事は喜びです、天国を地にうつす事です、難しい事は無いのです、今の裏のやり方をひっくり返して表のやり方をすればそれで良いのです、裏は裏として生きるのです、金は使うものですから使われるものでない事は良く分かっているでしょう、御苦労な事は止めてください、人民には分別を与えてあるから反省が出来るのです、反省するから進展するのです、放っておいても要らないものは無くなり必要なものは栄えるのですが人民の努力によってはより良くなるのです、反省しなければ生まれた時より悪くなるのです、欲を浄化して喜びとしてください、喜びは何からでも生まれるのです、広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上するのです、物の世界から霊の世界へと無限の世界に入るから無限の生命が与えられるのです、無限の喜びを得る事が出来るのです、無限の世界とは物と霊との大調和した限りなき光の世界です、真理を知る事が無限を得る事です、誠の神を掴む事です、良いものを作るには大きな手数がかかるのです、懐手でいては出来ないのです、手を出し足を出してください、一切のものは渦なのです、渦は同じ事を繰り返しているように人民には世界が見えるのですが一段づつ進んでいるのです、木でも草でも同様なのです、前の春と今年の春とは同じであって違っているのです、行き詰りがありがたいのです、進んでいるからこそ行き当たり行き詰まるのです、省みる時を与えられるのです、悟りの時を与えられるのです、ものは放すからこそ掴めるのです、固く握って戸を閉めていてはいけないのです、扉は開けておけと申してあるでしょう、着物を脱いで裸となる事はつらいのですが、脱がなければ新しい着物は着られないのです、裸になって神様にぶつかってください、神様も裸になってそなたを抱いてくださるのです、重い石を乗せたタクアンは美味いのです、内の自分は神であり外の自分は先祖なのです、先祖を祀る事は自分を祀る事です、外の自分と申しても肉体ばかりではないのです、肉体霊も外の自分なのです、信じ切るからこそ飛躍するのです、不信に進歩弥栄えは無いのです、肉体霊も外の自分です、任せ切るからこそ神となるのです、神に通じるのです、他力であり自力であるのです、真剣でなければ百年たっても同じ所をウヨウヨしているのです、一歩も進まないのです、進まない事は遅れている事です、真剣であれば失敗しても良いと申してあるでしょう、省みる事によって更に数倍する事が得られるのです、いい加減は一旦成功しても土台が無いのでウタカタです、下座の行は大切です、無くて七癖、あって七七、四十九の癖、悪い癖を直してください、天国へ行く鍵です、直せば直しただけ外に響くものが変わって来るのです、良くなって来るのです、変わって来れば外から来るもの、自分に来るものが変わって来るのです、良くなって来るのです、幸いとなるのです、喜びが満ち満つのです、神が満ち満ちて天国です、一升桝を持って来て一斗入れて欲しいと人民は申しているのですが、神は一斗も二斗も入れてやりたいのですが、一升桝には一升しか入らないのです、大き桝を持って来てください、頂くには頂くだけの資格が要るのです、一歩づつ進んでください、一歩づつ絶えず進めてください、それより他に道はないのです、自分は良いが世の中が悪いのだと申していますが、その自分を省みてください、自分が神の理(みち)にあり真実であるならば世の中は悪くないのです、世の中は輝いているのです、自分に降りかかって来る一切のものは最善のものと思ってください、いかなる悪い事もそれは最善のものであるのです、この道理を良くわきまえてください、真の神を理解すれば一切の幸福が得られるのです、世を呪う事は自分を呪う事、世間や他人を恨む事は自分を恨む事です、この事を悟れば一切はそこから開けて来るのです、十のもの受けるには十の努力どんな草でも木でもその草木でなければならん御用があるのです、だから生きているのです、そのはたらき御用を忘れるから苦しむのです、行き詰るのです、御用を忘れるから亡びるのです、個人は個人の、一家は一家の、国は国の御用があるのです、御用は大切であり御用は結構なのです、日本が変って世界となったのです、自分の為ばかりの祈りには自分だけの神しか出て来ないのです、悪の祈りには悪の神、善の祈りには善の神が出て来るのです、始めの間は中々分からないものです、神様のなされる真似から始めてください、思う様にならないのは、天地の弥栄え育成化育に沿って働いていないからです、今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからです、神示を読んでください、秘文(ひふみ)を世界にうつしてください、早く早くうつしてください、人間の知恵だけでは世界は良くならないのです、裏側だけ清めても総体は清まらないのです、神に目覚めなければならないのです、愛にも内のものと外のものとがあるのです、愛と申せば何でも良いと思っていてはならないのです、愛の悪もあるのです、総てがこの通りです、より高い上の所から来るから奇跡と見え、偶然と見えるのです、神からの現われなのですから、その手順が分からないので偶然と見えるのです、偶然の真理を悟ってください、これが分かれば大安心立命、あなた任せは良い妻と申してあるでしょう、神任せが良い人民なのです、この神と認めたならば理解して任せ切ってください、太元の神様にホレ参ってください、真の信仰の第一歩です、雨が降れば雨を、風が吹けば風を一先づ甘受してください、甘受した後に処理して行かなければなりません、受け入れずにハネ返すのは大怪我の元です、何回でも何回でも同じ事を繰り返さなければならない事になるのです、何かが迫って来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからです、内にあるから外から迫るのです、自分で呼び寄せているのです、苦しみの神、因果の神を呼んでおいて不足申している者が多いのです、自分で呼び寄せているのに嫌がってハネ返す手はないのです、同じものでも表からと裏からとでは違うのです、同じ目で見ても違って見えるのですから心得てください、希望は愛の現われの一つですから、どんな時どんな人にも与えられているのです、希望に燃えつつ現在を足場として生きて呼吸してください、同じ事をしていても、希望を持つ人は栄え、希望の無い人は亡びるのです、希望は神です、アイウエオからアオウエイの世にうつって来るのです、アオウエイの世が天国です、用意は良いですか、今の世は道具ばかりです、使う人民を早く作ってください、使命が命なのです、神から上から命ぜられた事が命なのです、使命はつくられた時に与えられるのです、使命がなくてはものは生まれないのです、自分の使命は内に聞きつつ外に聞いてください、使命を果たす事が喜びです、使命を果たすには命がけでなくてはならないのです、使命が生命だからです、努力した上にも果たさなければならないのです、努力には苦もあるのです、苦の無い努力は無いのです、右を動かせば左も動くのです、果たせば苦は楽となり、果たさなければ楽も苦なのです、重荷があるからこそ苦があるからこそ風にも倒れないのです、神が主であるのです、小乗の行を馬鹿にしてはなりません、今の鼻高さんは理屈で神を割り出したりソロバンではじき出したりしているのですが、どこまで行っても分からないのです、土を耕す祈りに神の姿が現われるのです、止まってはならないのです、いつも弥栄え弥栄えに動いて行かなければなりません、大中心に向って進まなければならないのです、途中には途中の、大には大の、中には中の、小には小の中心はあるのですが、行く所は一つです、それでも小の中心を忘れてはならないのです、神は順ですから先づ小の神から進んで行ってください、本当の事を知るには本当の鍛練が要るのです、棚からぼた餅を食っていては段々痩せ細るだけです、鍛え鍛えてください、鍛えればこそ光が出て来るのです、他力の中の自力です、だからと申して、任せ切ったと申して懐手ではならないのです、自力も大切です、まつりは日々の常住坐臥にあるのです、拝むばかりではならないのです、拝むまつりはまつりのカタです、カタから入るのは入り易いですが、この程度の境地では戒律が要るのです、カタに囚われてはならないのです、戒律の世界にいつ迄も居てはならないのです、十年経てば十才になるのです、恩を知らなければなりません、恩に報いなければならないのです、人民は天地の恩を忘れているから喜びが少ないのです、ものの順序をわきまえなければならないのです、悪平等はなりません、政治や経済は裏のものであり二義的のものです

日月神示㉜ 黒鉄の巻②

身も心も嬉し嬉しとなるのが誠の神なのです、物の嬉しさだけではゼロです、タマ(魂)の嬉しさだけでもゼロです、良く心得てください、死後だけを説く宗教はゼロの宗教なのです、迷わないでください、この世で天国に住めない人が天国に行ける道理は無いのです、神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあるでしょう、人間の極まるところは神なのです、霊人は中間の存在です、人間は神への土台です、この道理は分かるでしょう、⦿は三五七です、三の⦿から三五の⦿、三五七の⦿、顔まで変っているのに未だ気がつかないのですか、皆が病気になっている事に未だ気がつかないのですか、何事も早い改心が結構なのです、自分で自分の心の中は中々につかめないものです、心の中にまた心があり、中にさらに心があるのです、心は神界なのです、霊界や神界のものを肉体の自分で掴もうとしても中々出来ないのです、ウナギつかみと申してあるでしょう、ヌラリクラリと掴んだはずが掴んではいないのです、掴むには身と魂(たま)と一つに和さなければなりません、・から愛と智が生まれると申してあるでしょう、智と愛との和合によって・がまた生れるのです、・は喜びであるのです、・の別の・であるのです、その・からまた別の愛と智が生れ、また別の・が喜びとなり、その喜びの愛と智の喜びと結んで、また喜びの・が生れるのです、神は額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものです、何事も体験が結構なのです、今の人民の迷信と思うものの中に正信があるのです、正信と思うものの中に迷信が多いのです、理解とは正信です、神の気が通ったら、その気を人間に移す御役、救いの御役を結構に務めあげてください、自分の自由にならない事は大きな自分が自由にしているのです、神となれば、神人となれば何事も心のままです、神とは神、大神とは⦿一十(カミヒト)の事です、悪とは陰(かげ)の事です、斜めに光を頂くから影が出来るのです、影は主人ではないのです、絶対は何と申しても絶対です、相対から神を求めると相対の神が現われるのです、相対で神の道に導く事は難しいのです、必ず後戻りして分かりはしないのです、この神示が肚に入ったらグレンと変って来るのです、早く神示を肚に入れてください、間に合わないのです、天の声は内から聞こえて来るのです、人間の言葉は外から聞こえて来るのです、霊耳と申すのは内からです、耳をふさいでも聞こえて来るのです、悪霊自身は自身を悪と思っていないのです、心は草にも木にも石にもあるのです、天にまたたく星にも心があるのです、ただ厚いか薄いかの違いです、・の中の・に悪は入れないのです、外の・の中に、外の智の中に悪が入るのです、人間の智の中には悪も善も入るのです、智が入るからこそ、これは善これは悪と分かるのです、人間の自由はそこにあるのです、自由がなければ発展は無いのです、弥栄えはないのです、霊を信じる者は霊と語り、肉を信じる者は肉と語り得るのです、人間そのものから湧き出る喜びは無いのです、良く心得てください、神は理屈ではないのです、理(みち)であるのです、生きた自由自在の、見当とれない絶対であるのです、只求めるより他に道は無いのです、親を呼ぶ赤児の声で神を求めてください、神に呼びかけてください、総てを投げ出してください、まかせ切ってください、神は喜びの光となってそなたに現われて来るのです、理屈の信仰に囚われるのは邪道です、赤児心の理解が第一です、神は人間の想念の中に入っているのです、想念が一致するから神の想念が人間に伝わるのです、人間の言葉となって人間に現われるのです、言は神であるが人間でもあるのです、自分が自分に語るのです、この道理を良く心得てください、時を待って起き出してください、恨みの霊は中々に消えないものです、思いは能(ハタラ)き、実在と申してあるでしょう、間違いでも恨まれると、恨みがまとわりつくのです、心して神を求め、心して幽界からのキを断ってください、分かったと思ったら天狗、省みると良くなる仕組みです、喜びに融け入るから嬉しいのです、喜びから遠ざかるから悲しいのです、そんな事は分っていると申していますが、本当には身体に分かってないのです、喜びに入る門は愛からと真からです、二道あるのですが愛から入るのが入り易いのですが愛からでは誤り易いのです、生れてすぐに歩けるものでは無いのです、始めから何も彼も出来るものでは無いのです、気長に進んでください、内の念と外の念とあるのです、二つであるのです、一つであり、三つであるのです、心大きく広く天地に放さねば天地のキを吸う事は出来ないのです、運命は自由自在のものなのですが、また強いるものでもあるのです、大きくも小さくも薄くも厚くもその人の心次第に変るのです、元は霊界にあるからです、嬉し嬉しで運命を迎える気が結構なのです、この世の事だけでこの世の事は動かないのです、霊界との関係によってこの世が動いている道理が分からなければなりません、早く神の心になって神意を悟ってください、遠慮は要らないのです、何事も天から出て来るのです、天からとは心からの事です、表ばかり見ているから分からないのです、水晶の心になれば三千里先の事もありやかになります、人民というものは奇跡を見ても病気になっても、中々改心出来ないものです、死後の生活がハッキリ分かっても未だ改心出来ないのです、それは外からのものであるからです、誠の改心は、中の中の・のキを頂いて根本の改心が出来なければなりません、死後の生活を知らせる事は良いのですが、それだけで改心を迫るのは悪のやり方です、奇跡を見せたり病気を直してやるのも良いのですが、それだけで改心を迫ってはならないのです、それだけで道を説いてはならないのです、そんな事ぐらいで誠の根本の改心が出来るなら人間は遠い昔に改心しているのです、今までの様な宗教は亡びると申してあるでしょう、亡びる宗教にしないでください、中の自分と外の自分と和してください、それが改心の第一歩です、聞かせて聞くならば、実地はカタのカタ位で済むのですが、欲が入ると邪気が湧くのです、邪気が湧くと邪霊が集まって来るのです、肉体人に神は直接分からないものです、神は能(ハタラ)きですから、神の働きの影しか分からないのです、神の姿を見たと申すのは、神の姿の影を自分の心に描き出したまでなのです、心に分かっても肉体に分かるものでは無いのです、肉を魂としてください、魂を魂の魂と向上させてください、開けて来るのです、何事もとがめないでください、とがめる心は天狗です、神の前にへり下り、へり下ってもへりくだり過ぎる事は無いのです、人間は色とりどりにそれぞれの考え方を自由に与えられているのですから、無理に引張ったり教えたりしないでください、今あるもの、今生きているものは、たとえ極悪だと見えても、それは許されているのですから存在するのです、他を排さないでください、祈りとは意が乗る事です、祈りは霊の霊と霊と体と合流して一つの生命となる事です、実力です、想念は魂、魂は霊であり霊の世界に属し、霊に生きるのです、物は霊につけられたもの、霊の霊は霊につけられたものです、物には物の生命しかないのです、真の生命は霊です、生命の元の喜びは霊の霊です、霊の霊が主であると申してあるでしょう、奥の奥の奥の・は大神に通ずる・です、喜びです、・がある為に人間となり、人間なるが故に神となり、神なるが故に喜びであるのです、他の生き物にも・はあるのですが、外の・なのです、神が映らないと申していますが、心を柔らかくして任せ切れば刻まれるのです、平かにすれば正しく写り、凸凹(デコボコ)すれば曲って映るのです、神の前に固くなってはならないのです、人間は肉体を持っている間でも、その霊は霊の国に住んで居り、霊の霊は霊の霊の世界に住んでいるのが道理です、愛は脈打っているのです、真は呼吸しているのです、肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈打つのです、肺と心臓は二つが一つであって、肉体を生命するのです、肺と心臓と喜びと三つが一つであるのです、霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓と喜びです、祈りは弥栄えであり限りない生活です、生命の息です、祈りから総てのものが生まれるのです、誠の喜びの祈りからは・が生命し、陰の祈りからは〇が生命するのです、人が祈れば神祈り、人が為せば神なる道理です、禁慾は神の御旨では無いのです、欲を浄化して生んで産んでください、今の人民は欲の聖化を忘れているのです、欲は無限に拡がり、次々に新しいものを生み出すのです、欲を導いてください、自分だけならば五尺の身体で五十年の生命ですが、霊を知り宇宙の意志を知り、神に融け入ったなら、無限大の身体、無限の生命となるのです、誠の嬉し嬉しの喜びとなるのです、キが到ればモノが到るのです、モノを求める前にキを求めてください、目当て無しに歩いてもくたびれもうけばかりです、人生の目当て、行く先の見当をつけずにその日暮しの我よしの世となり下がっているのです、目当てとは⦿の・です、・に向かないでウロウロしているのは草木よりなり下がっているのです、為すとは祈る事です、人の為に祈る事は己の為に祈る事です、今の人民は祈りが足りないのです、天界に行く門は輝き幽界に行く門は闇です、闇の門は閉ざされて光の門は開かれているのです、天界は昇り易く、幽界には落ちにくいのです、神と金(かね)と二つに仕える事は出来ないから、そのどちらかに仕えなければならないと今までは説かせていたのですが、それは段階の低い信仰なのです、影しか分からずに時節が来ていなかったので、そのように説かせていたのですが、この度は時節が到来したので誠の道理を説いて聞かせるのです、神と金と共に仕えまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなる事です、嬉し嬉しとはその事です、神と金と二つとも得る事は嬉しいのです、その次には霊の霊とも共に仕え祀ってください、祀る事が出来るのです、これが誠の正しい理(みち)なのです、今までの信仰はどこかに寂しい物足りなさがあったのです、片親が無かったからです、天に仕えるか、地に仕えるかであったからです、この道は天地(あめつち)の道であると知らせてあるでしょう、清く富むのが誠なのです、地も富まなければならないと申してあるでしょう、これから先は金儲けばかりも出来ないのです、今までのような神信心ばかりも出来ないのです、神の理(みち)を進む者は嫌でも金が貯まるのです、金が貯まらないならば深く反省してください、理に外れているのです、人は罪の子では無いのです、喜びの子です、宇宙は人間の心のままと申してあるでしょう、宇宙は未完成のものだと申してあるでしょう、永遠に未完成であり弥栄えなのです、そこに生命があり、喜びがあるのです、大神の中で宇宙はなりなりているのですから、永遠になりなるのです、不変の中に千変万化、自由自在の存在を与えてあるのです、人間の死後は自分の命の最も相応(ふさわ)しい状態におかれるのです、悪が好きなら悪の、善が好きなら善の状態におかれるのです、皆々極楽行きです、極楽にもピンからキリまであるのです、神の旨に添う極楽を天国と言い、添わない極楽を幽界と申すのです、心の世界を整理してください、そこには無限のものが無限にあるのです、神の理(みち)が分かれば分かっただけ自分が分かるのです、目出たさの九月八日の九の仕組み、解けて流れて世界一つです、白銀黒鉄の巻の終り

ひふみ神言

ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆらひふみゆらゆら

ひふみゆらゆらひふみゆらゆらひふみゆらゆら

あめつちの数歌

ひとふたみよいつむゆななやここのたり

ひとふたみよいつむゆななやここのたり

ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろづ

ひふみ祝詞(柏手しながら祝詞)

いろは祝詞(柏手しながら祝詞)

アイウエオ祝詞

ンウ、アイウエオ、カキクケコ、サシスセソ、タチツテト

ナニヌネノ、ハヒフヘホ、マミムメモ、ヤヰユヱヨ

ラリルレロ、ワヰウヱヲ、ウン

考察➡このブログでは日月神示のてんし様はイエス様であると伝えています、聖書ではインマニエルとは神と共にいるという意味でイエス様こそがインマニエルなのです、イエス様信仰から遠ざけようとしたり、イエス様信仰させないように自分の説を唱える人は多いですが、岩戸閉めとなってしまいます、日月神示を読んでも岩戸を閉める者がいるのです、自分の説を勝手に唱えて広める事は良しとはされません、日月神示の核心はてんし様信仰です、たくさんの神様が登場しますが核心、中心をつかむように求められています、日月神示ではてんし様をつかむのです、中心をつかまないと⦿にはならないのです、自分の中心に・を入れる事が日月神示です、イエス様が心の中心に鎮座されて王となって、主となって、神となって共に生きる事が求められています、どうか迷う事無く、イエス様を信じて最後まで耐え忍ぶ信仰です、イエス様を信じないで耐え忍んでも誰も救ってくれないのです、イエス様不在の忍耐は実にはならないのです

㉛日月神示 黒鉄の巻

汽車があれば汽車に乗ってください、飛行機があれば飛行機に乗ってください、歩いたり馬で行くのでは間に合わない事になっているのです、昔のままの宗教のやり方ではならないのです、根本は良くても中々に目的地には着かないのです、飛行機時代には飛行機に乗ってください、乗って進む宗教の道によらなければならないのです、今は今の姿が真実です、自分の頭で割り切れないと申してブツブツ申さないでください、あるものそのものが真実です、そのあるものを拝み祝福して、そこから出発してください、現在を祝福する事は過去と未来の総てを祝福する事です、たとえいかなる現在も、その現在を祝福しなければならないのです、喜びしなければならないのです、喜びが元であると申しているのです、この巻は黒鉄の巻です、一切に向って涙してください、懺悔してください、一切を受け入れて一切に感謝してください、一切が自分なのです、一切が喜びなのです、理屈は一方的なものです、どんな理屈も成り立つのですが理屈ほど頼りない力にならないものは無いのです、理(みち)が⦿(カミ)の御能(オンハタラキ)です、良く見極めなければ間違うのです、囚われないでください、他の為に苦労する事は喜びです、全体のために働く事は喜びです、光の生命です、誰にでも重荷を負わせてあるのです、重荷があるからこそ風にも倒れないのです、この道理を涙で笑って汗で喜んでください、それとも重荷を外して欲しいのですか、重い重荷も軽い重荷もあるのです、今蒔いた種は今日や明日には実らないのです、早く花が見たくて実が欲しいから焦るのです、人間の近慾と申すものです、神の大道に生きて実りの秋(トキ)を待ってください、蒔いた種は必ず実るのです、誰も横取りはしないのです、万倍になって自分に返って来るのです、未来に燃えつつ現在に燃えてください、神を相手に悠々と天地に歩んでください、道は自分で歩まなければならないのです、自分の口で食べ物を噛まなければなりません、噛みしめてください、ウジ虫に青畳は苦の種です、畳には畳に座るだけの行をしてから座らなければなりません、生命は言葉です、言葉はミコト(命)です、ミコトは神の心です、喜びです、ミコトに生きてください、言葉があれば音があるのです、音があれば色があるのです、色があれば数(かず)があるのです、善にも神の心があり、悪にも神の心があるのです、プラスとマイナスと和合しなければなりません、ただ和合するだけではムになって力が出ないのです、今までの和合のやり方ではならないのです、喜びの和合、融け合う和合、・ある和合でないと少しでも曇りがあったら和合では無いのです、こらえこらえているのでは和合では無いのです、今までの和合のやり方ではカスがあるのです、悪の和合なのです、神示を肚に入れないで御用は難しいのです、はじめは目標(めあて)をつくって進まないと、行ったり来たり同じ道をドウドウめぐりです、掴める所から掴んで行ってください、拝んで進んでください、統一した幸福こそ二二(フジ)晴れの幸福です、気づいた事から早く改めてください、トコトンまで行ってから神がやるのでは人間の面目は無いのです、人間同士で良く行ってください、ただ有難いだけではならないのです、仕事しなければなりません、努力しなければなりません、じっとしていては進めない道理です、灯りをつけなければ闇の世は歩けないのです、それぞれの灯りとなってください、油は神示です、油はつきないのです、いくらでも灯りをつけてください、マツリから出直してくださいと申してあるでしょう、結構な大きいまつり、小さいまつり、まつろってください、神の心になれば神が明らかに見えるのです、芽を出したので間引かなければなりません、神示を読まない人と神示が肚に入ってもう大丈夫であると神が見届けた人間と間引くのです、肚に入った芽は間引いて他に植え替えるのです、神示を読まない者は間引いて肥料とするのです、わざわざ遠い所にお詣りしなくても、自分の家に祀ってあるのだから、それを拝めば同じ事である、それで良いのだと理屈を申しているのですが、格の上の所へ求めて行くのが仁義、礼儀と申すものです、キがあれば必ず出来るのです、この世は建て替えしないで行けば、行けば行く程悪く行き詰まるのです、早く目覚めてください、まつりしなければ真理は通じないのです、子供にまつろわなければ子供を導けない道理です、自分が分かれば一切ありやかです、神の申すようにすれば神が護るので何事も思う様にスラリスラリと心配なく出て来るのです、区別と順をわきまえていれば何様を拝んでも良いのです、時、所、位に応じて誤らなければ弥栄えるのです、同じ愛、同じ想念の者は自ら集まって結ばれるのです、天国のカタチ、ウツシが奥山です、味噌もクソも一緒にしてはいけないのです、神心には始めも終りも無いのです、総てがあるのです、世界を見てください、三千世界を良く見てください、総てが秘文です、他力の中に自力があるのです、自分ばかりでは成就しないのです、地団駄を踏むばかりです、愛は愛だけでは愛では無いのです、真は真だけでは真では無いのです、まつり合せて・を入れて愛となり真となるのです、愛のみが出ると悪となり、真のみが出ると偽(ギ)となる事があるのです、偽(いつわ)りと悪とがまつって善の働きをする事があるのです、心してください、難しい事を申さずに平たく解けと申してあるでしょう、ミタマを上中下の三段、三段に別けて説いて聞かせなければ仕組みが遅れるのです、はじめは神様がしてくれるのですが向上すると自分でしなければなりません、いつまでも神を使っていてはならないのです、理解は真から意志は善からでしたが、今まではそれでよいと説いて来たのですが、いよいよ岩戸開きとなったのですから、次の鍵を渡すので良く心得てください、今までの教えでは幻(まぼろし)です、力は無いのです、まつり合せて意志と働いて・を入れて理解出来るのです、まつりまつりと申してあるでしょう、上のまつりなのです、幻とは人間知恵の事です、理屈の事です、理屈とは悪の学の事です、理でなければならないのです、学を出し我を出すから行き詰るのです、生れ赤児と申しているのは学も我も出さない水晶の事です、ねり直して澄んだ水晶は結構なのです、親の心が分かったなら手伝いしなければなりません、言われる先に手伝いするものだと申してあるでしょう、いつまでも小便をかけていてはならないのです、人間は罪の子では無いのです、喜びの子です、神の子です、神の子なればこそ悔い改めなければならないのです、真無き愛の道、悲しみの喜びからも生れる事があるのです、それは罪の子と申すのです、次の御用は神示を写す事です、神示を写すとは神示を人間に世界に写す事です、神示を中心とした世界のはたらきをしてください、・を通じた人間の仕事につかえまつってください、神示を・とした世界を作る事です、神示に囚われるから分からないのです、神示を捨てて、仕事に神示を生かして生活してください、生活が神示なのです、分かりましたか、早く次の御用を急いでください、宗教に生きて宗教に囚われないでください、仕事が宗教なのです、小さい事から始めてください、小乗の行と馬鹿にしないでください、小乗の行から大乗の真理を掴むのです、理屈で進んで行くと終わりには共喰いになり、我と我を食べる事になるのです、神様を真剣に求めれば神様は人間様を真剣に導いてくださるのです、結構に導いてくださるのです、悪を意志して善を理解する事は許さないのです、悪を意志して善を理解しようとするのが悪です、善を意志して悪を理解しようとするのも悪です、悪を意志して悪を理解するところに、善としての悪の用(はたらき)が生まれるのです、幽界もまた神の治める一面なのです、悪の総大将は奥に隠れているのです、一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて世界をワヤにする仕組みはもう九分通り出来上がっているのです、真の理解に入ると宗教に囚われなくなるのです、形式に囚われなくなるのです、真の理解に入らなければ真の善も真の信も真の悪も真の偽りも分からないのです、今に岩戸が開いてあきらかになったら、宗教も政治も要らないのです、喜びの歌が高らかにナルトの仕組みが二二(フジ)に映るのです、人間を幸福にするのは心の向け方一つであるのです、人間はいつも善と悪との中にいるのですから、善のみと言う事もなく悪のみと言う事も無いのです、内に神が鎮座して外が人に和し、内に霊が居り外が体に和せばそれで良いのです、そこに喜びが生まれるのです、神から出た教えならば他の教えとも協力して共に進まなければなりません、教派や教義に囚われるは邪の教えです、豚に真珠とならないでください、天国の意志は人間の喜びの中に入り、幽界の意志は悲しみの中に入るのです、いよいよ表の守護と相成ったのです、表の守護とは、良いものもなく悪いものもなく、只喜びのみの守護となる事です、悪いものが悪くなるのは表の守護では無いのです、心得てください、一つの魂を得る事は一つの世界を得る事です、人間は一人では無いのです、神は善人の中にも悪人の中にも呼吸しているのです、悪がなくては生きて行けないのです、悪は悪では無いのです、外道の悪が悪なのです、霊ばかり良くても体ばかり良くてもなりません、持ちつ持たれつなのです、分からないのは自分が偉いと思っているからです、目覚めればその日その時から良くなる仕組みが結構なのです、どんな世でも楽し楽しで過ごせるのが神の道です、智の中に悪を取り入れるゆとりが出来ないようでは誠は成就しないのです、知の中に総てを取り入れて理解出来るようになっているのです、愛の中に悪を入れてはならないのです、朝目が覚めたら起き上がるのです、起き上がらずにはいれないのです、神の命ずる事は丁度そのように人間にうつるのです、霊眼で見たり霊耳で聞いたりする事は間違いが多いのです、気を付けてください、物に対しては人間そのものが霊なのです、人間はこの世の神と申してあるでしょう、物は人間の自由自在です、偶像は排すべきです、十像は拝すべきです、悪に行く理(みち)は無いのです、理は善のみに通じているのです、理の無いところを進んではなりません、愛から離れた理解は無いのです、善から離れた真理は無いのです、種が無いのに芽が出る事は無いのが道理です、人間の知恵で分からない事は迷信であると申していますが、神界の事は神界で呼吸しなければ分からないのです、分からない人間ですから何と言ってもいよいよとなったら神を求めるより他に道は無いのです、学に囚われてまだ目覚めない気の毒な人がウヨウヨいるのです、気の毒な事です、人間は霊人のカタシロになるからこそ養われているのです、成長して行くのです、血は愛によって生き、愛は喜びによって生きるのです、喜びが無い所に愛はないのです、・が無い所に生命(イノチ)は栄え無いのです、任せ切らなければ誠の安心立命は無いのです、任せ切るには、任せ切って安心出来る神をつかまねばなりません、お陰信心や病気治しの神では任せ切れないでしょう、早く合点するのが結構です、大きな生命に通ずるものには死は無いのです、通じなければ死があるのです、身も心も嬉し嬉しとなるのが誠の神です、物の嬉しさだけではゼロなのです、タマの嬉しさだけでもゼロです、良く心得えてください

考察➡宗教をうまく説明出来る人は少ないです、人はこの世で成功や幸せを求めているのですが、イエス様の教えは全く違うのです、この世でビジネスで成功したり有名になったり金メダルをとる事では無いのです、謙虚になる事、奉仕する人になる事、迫害に強い人になる事、辛抱強い人になる事なのです、人の上に立って偉い人になる事ではなく、人の下になって我慢して辛抱して人を助ける事なのです、人から評価される人では無く、神様の手伝いなのです、ですから旅行したり贅沢したりする時間があれば神業に奉仕しなさいとなるのです、命をかけて神様の喜ぶ事をしなさいなのです、自分の時間では無く神様の時間なのです、出来るだけそのようにしなさいなのです、どんなに頑張っても職場では評価されないのです、ねたむ人がいるのです、悪口を言われるのです、だからこそこの世は修行出来るのです、耐え忍ぶ事によって苦の花が咲くのです、ただしいくら耐え忍んでもイエス様を信じない人生は無駄花となります、イエス様の十字架を仰ぎ見て耐え忍ぶ人生を受け入れると無事にイエス様の御国に入れるようになっているのです、イエス様の十字架で自分が救われるのは、自分の十字架を負って耐え忍ぶからです、イエス様に罪を着せて身代わりにする信仰はずる賢い人のする事です、狡猾(こうかつ)な悪魔の教えですから気を付ける事です、食べても飲んでも旅行しても人生は空しいのです、イエス様信仰している時が充実なのです、実を結ぶのです、完璧には出来ませんが悪い癖を直してイエス様の喜ぶ事に時間を使わないと時間切れで終わってしまいます、油が切れて終わってしまう油断です

日月神示㉚ 白銀の巻

天地の理(ことわり)を書いて知らせます、この巻は白金の巻です、天国である、霊国である、地獄である、浄土である、穢土(えど)であると言っていたのですが、そんな分け隔ては無いのです、時、所、位に応じて色々に説き聞かせてあったのですが、時節が到来したので誠の天地の理を書いて知らせるのです、三千の世界の中の一つがそなたの世界です、この世もまた三千に別れ、さらに五千に別れているのです、この方を五千の山に祀れと申してあるでしょう、今の人民が知り得る世界はその中の八つなのです、人民の種によっては七つしか分からないのです、日の光を七色と思っていますが、八であり九であり十であるのです、人民には六つか七つにしか別ける事が出来ないのです、岩戸が開けると更に九、十となるのです、隠してある一厘の仕組み、九十の経綸(しくみ)、成就した暁には何もかも分かるのです、八つの世界とは、八は固、七は液、六は気、五はキ、四は霊の固、三は霊の液、二は霊の気、一は霊のキと考えて良いのです、キとは気の気です、その他に逆の力があるのです、九と十であるのです、その上にまた霊の霊の個から始まっているのですが、それはムの世界、無限の世界と心得てください、霊界に入って行けば、その一部は知る事が出来るのですが、直ちにすべては分からないのです、分からない事は分からないと分からなければならないのです、天が息吹けば地も息吹くと申してあるでしょう、この事をよくわきまえてください、地の規則が天の規則となる事があると申して知らせてあるのです、この大切な事を忘れないでください、思いの世界が天で肉の世界が地です、思いは肉体と一つです、二つです、三つです、思いが起って肉体が動くのです、肉体が動いて思いが動く事もあるのです、生れ赤児の心になって聞いてください、何もかもハッキリと映るのです、陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考えているのですが、タカミムスビとカミムスビと考えているのですが、別のミナカヌシが現われるのです、一であり、二であり、三であるのです、三が道と申してあるでしょう、陰陽二元ではないのです、三が元です、三つであるのです、・がなくてはならないのです、・にも隠れた・と現われた・とがあるのです、この事を先づ心得てください、そなたは父と母の二人から生れ出たのでしょうか、そうではないのです、三人から生れ出ている事が分かるでしょう、どの世界にも人が住んでいるのです、⦿の中に⦿があるのです、その中にまた⦿があり、限り無いのだと知らせてあるでしょう、そなた達の中にまた人が居て限りないのです、この方は人民の中にいると知らせてあるでしょう、そなたも八人十人の人によって生きているのです、また十二人でもあるのです、守護神と申すのは心の中にいる神の事であるのですが、段々に変わるのです、自分と自分と和合しなさいと申すのは、八人十人のそなた達が和合する事です、それを改心と申すのです、和合した姿を善と申すのです、今までの宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して肉体を疎かにしていたのですが、それが間違いである事が合点出来ますか、一切が良いのであると言う事が合点出来ますか、地獄は無い事が合点出来ますか、悪を抱き参らせよと申してある事がこれで合点出来ますか、合点出来るでしょう、各々の世界の人がその世界の神であるのです、この世ではそなた達が神なのです、あの世では、そなた達の心を肉体としての人がいるのです、それがカミと申しているものです、あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるのです、あの世の上の世では神の心を肉体として神がいて限りないのです、裏から申せば、神様の神様は人間様です、心の守護神は肉体であると申してあるでしょう、肉体が心を守ってはいるのですが、だからと申して肉体が主人顔してはならないのです、何処までも下に従う事です、順を乱すと悪となるのです、生れ赤児のさらに生れ赤児になって聞いてください、そなた達の本尊は八枚十枚の衣を着ているのです、死という事はその衣を上から脱ぐ事です、脱ぐと中から出て来てまた八枚十枚の衣をつけるようになっているのです、分かるように申しているのです、取り違いしないようにしてください、天から気が地に降りてものが生命し、その地の生命の気がまた天に反影するのですが、まだまだ地には凸凹あるから、気が天に帰らずに横にそれる事があるのです、その横の気の世界を幽界と申すのです、幽界は地で曲げられた気が作り出した所です、地獄では無いのです、分かるように申すならば、宇宙は・真と愛との現われであるのです、愛と真ではないのです、・と愛と真と善と智であるのですが、愛真でもなく善智でも無いのです、愛と真が善と智と現われ、喜びとなってはたらき、・が加わって弥栄えた生命であるのです、愛のみというものも無いのです、真のみというものも無いのです、愛と現われ真と現われるのです、人間には現われたものだけが分かるのですが、詳しく申すならば愛には真が隠れ、真には愛が隠れ、その奥に・があるのです、人間は親を父と母とに区別していますが、母と現われる時は父がその中に居り、父と現われる時はその中に母が居るのです、どちらも親であるのです、父となり母となって現われるのです、愛と真、善と智と区別して説かせておいたのですが、それは今までの事でいつまでもそんなところでまごまごしてはいられないのです、・が分からなければならないのです、・の・が分からなければならないのです、男の魂は女、女の魂は男であると申してあるでしょう、人間の目に愛と映るものは外の愛、真と映るものは外の真です、中から申せば外は御役の悪なのです、今が過去であり今が未来です、時間に踏み迷わないで、空間にも踏み迷わないでください、皮を一枚脱いで心で良く考えてください、いつも日が出ており月が輝いているのです、力そのものに力は無いのです、霊と肉の結びだけで力が現われるのでは無いのです、プラスとマイナスと合わせて組んで力が出ると思っているのでしょうが、一歩踏み出さなければならないのです、プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスです、力は出ないのです、・の力が加わってそこにヨロコビが出て、理(ミチ)となり、なりなりて真実と現われるのです、弥栄えが真実です、神です、神の心です、龍神と申していますが龍神にも二通りあるのです、地からの龍神は進化して行くのです、進化を嘘だと思うのは迷信なのです、一方、天からの龍神は退化して行くのです、この二つの龍神が結ばれて人間となるのです、人間は土で造り、神の気を入れて造ったのであると申してあるでしょう、イワト閉めとイワト開きの二つの御用のミタマがあると申してあるのです、ミタマの因縁は恐ろしいのです、愛と智は呼吸して喜びとなるのです、喜びは形をとるのです、形もなく順序も無いものは〇なのです、善と真のはたらきを完全にするには、善と真との差別をハッキリとさせなければならないのです、融け合わせて、結んで喜びと現われるのですが、区別する事によって結ばれるのです、・しなければならないのです、すればする程力強く融け合うのです、大きな喜びとなるのです、この事は日月の民なら分かるでしょう、道は三つなのです、合点出来るでしょう、小の中に大があるのです、無の中に有(ウ)が有るのです、ものは益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものがあり、ますます純なものがあるのです、神はそなたの中にあり外にもあると申してあるでしょう、ウムを良く見てください、愛はそのまま愛ではないのです、真はそのまま真では無いのです、善はナマでは善では無いのです、智はナマでは智では無いのです、・を入れて結んで融けて喜びとなるのです、喜びが生命です、宇宙の総てが生命です、⦿の中の・の中の⦿は一であり、二とひらき、三と生命するのです、理は一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)であると申してあるでしょう、一(ヒ)も二(フ)も三(ミ)も同じであり、違って栄えるのです、一二三(ヒフミ)であるのです、この事は教えられても分からないでしょうがハラで理解する大切な事です、ハラが大切です、かたまってはならないのです、・に捉われると・は分からないのです、地の定規で量ってはならないのです、いかなる天国も自分で作るのです、自分のソロバンは捨ててくださいと申してあるでしょう、喜びは理(ミチ)であり数であり、言であり、真理であり、愛善です、生命のイキという事は分かるでしょう、天国と申すのは一人の大きな人間であるのです、天国は霊人だけが住む所で無いのです、そなた達も今住んでいるのです、霊人も現界に住んでいるのです、現界を離れて天国だけの天国は無いのです、だからこそ現界で天国を生み出すのです、現界で天国に住めない者が死んで天国に住める道理は無いのです、アメツチと申してあるでしょう、この道理をよくわきまえてください、善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国です、誠の天国には喜びだけが生きているのです、喜びの中に融け入って、喜びそのものとなっているのです、喜びを食べ、喜びを着て、喜びを呼吸して喜びを語り合って、嬉し嬉しとなるのです、不要なものは形が変って来るのです、新しき生命が湧き出るのです、善が悪と真が偽と変った時は死となるのです、その死は新しき別の生命と現われて、新しき形の新しき世界の善となり、真となるのです、善も悪もないのだと申してあるでしょう、善悪はあるが無いのであると申してある事は分かりましたか、自分自身の己のための善は死に、善のための善は弥栄えるのです、死んだものは新しき形をとって生命するのです、弥栄えの道は神の喜び、人間の喜びの中にあるのです、愛だと申して愛に囚われているのです、真だと申して真に囚われているのです、喜びに生きてください、宗教に囚われてはならないのです、道に囚われてはならないのです、喜びに生きて喜びに囚われないでください、お互いに喜びが湧き出る事でなければ真の愛では無いのです、理(ミチ)では無いのです、天国に理あると申しても今の人間が申したり考えたりするような道では無いのです、道なき理であると申してあるでしょう、喜びが理なのです、嬉し嬉しの理を早く合点してください、生命(いのち)栄えるものは皆喜びであるのです、信仰とはその喜びの中に融け入る事です、生も死も無くなるのです、時間や空間を入れてしまうから知(血)が通わなくなるのです、凸凹(デコボコ)があるからこそ力が現われるのです、凸凹があるために善のみでも呼吸し、また真(しん)のみでも呼吸(いき)するのです、偽善者も真を語り真を伝え得るのです、愛を言い得るのです、幽界と申すのは凸凹のうつしの国と申してあるでしょう、地獄では無いのです、仙人は幽界に属していると聞かせてあるでしょう、取り違いしているのです、愛は真と和して愛と生き、真は愛と和し愛によって真の力が現われるのですが、愛のみでも愛であるのです、真のみでも真であるのですが只はたらきは無いのです、能(ハタラキ)無いものは力は無いのです、喜びは無いのです、喜び無いものは滅びるのです、・が入らなければ悪となるのです、能(ハタラキ)の無いものは罪です、穢れです、善と悪と二道かけてならないのです、理(ミチ)は一本と申してあるでしょう、悪は悪としての御役があるのです、悪と偽りの中に悪の喜びがあるのです、善と悪の二道の中には二道かけては喜びは無いのです、喜び無いものは亡びるのです、御役の悪とは悪と偽りの悪です、悪と善との二道かけての悪では無いのです、心してください、悪は悪にのみ働きかけ得るのです、善に向って働いても善はビクともしないのです、ビクつくのは悪に引き込まれるのは己に悪があるからです、合せ鏡と申してあるでしょう、悪の気を断ってくださいと申してあるでしょう、心の鏡の凸凹が無くなれば悪は写らないのです、悪は無いものなのです、無いとは力が無い事です、悪があればこそ向上するのです、悔い改めして弥栄するのです、人間の能(ハタラキ)があるのです、・を忘れてはならないのです、人間に自由は無いのです、真の自由は大神にのみあるものです、大神の自由の一部が御喜びと共に神に流れ入り神に流れ入った自由は又神の喜びとなって人間に流れて来るから人間自身は自由を持っていると信じるのです、本質的には自由は無いのです、人間には自由の影があり反影があるのです、それを人間は自由と心得ているだけなのです、自由の反影があるから悪にも善にも陽にも陰にも為し得るのです、また進歩弥栄えするのです、悪自由を人間は自由と心得ているのですが、それは自由ではなく自分自身の首をくくるものです、善自由こそ真の自由です、自由は神から流れ出ると申してあるでしょう、他の世界と交流するには他の世界に住む人間を通じて交流するのです、世界とは人間の事でもあるのです、人間が世界であるのです、良く心得えてください、+(陽)と-(陰)と〇と・です、+の陰には-があり、-の陰には+があるのです、その和の状態が〇であり・(イノチ)するのです、+は+のみでは力は無いのです、-は-だけでは力は無いのです、+と-とだけでも動きは無いのです、生命の喜びは無いのです、良く心得てください、〇があって+-があり、+-があり・があって和があるのです、ここの道理を良く得心して合点してください、+は人間にとって直接の喜びでは無いのです、⊕が直々の喜びです、-も直接ではなく⊕⊖が直接の喜びであり、その二つが和し・して嬉し嬉しと弥栄えるのです、天地の中間を中界と申すのです、天の息吹きと地の息吹きの中間です、天国へ行く者も、行かない者も先づ落ちつく、死後の始めての世界です、元のムから中界を経て、ウの現界に至る悉くの世界が皆人間に関係あるのですから、肉体はウですが、魂は㋰に通じているのですから、㋰は喜びですから、喜びが人間の本体ですから、神界と言うのも、現界と言うのも、一本の国ですから、人間からすれば人間が土台ですから、神の礎ですから神が鎮まれば神人となるのですから、神界、中界、現界を貫いていなければ、誠の和合をしていなければ、誠の喜びではないですから、誠の喜びが大神ですから、大神の働きは人間によるものですから、心しなければならないのです、・しなければならないのです、天使や天人と言われる者はみなそれぞれの国の人間ですから、喜びの人間ですから、この道理が分かったら、地の世界と中の世界と天の世界とはみな同じですから、持ちつ持たれつですから、三千世界ですから、地の上に災いがあると、天の国にも災いとなるのです、天の国の生活は地の上に根をつけているのですから、遠くにあるのではないのです、同じ所にあるのです、幽界と申すのは道を外れた国の事であると知らせてあるでしょう、地獄は無いと申してあるでしょう、この事は間違えないように、地獄地獄の言葉はやめてください、言葉からモノが生まれるのです、ただモノが違うのみであるから、人間の心が神に通じる時は喜びとなり、幽人に通じる時は悲しみとなるのです、通ずる心があるから心に自由があるのです、弥栄えがあるのです、この道理を良くわきまえてください、天人には結婚もあれば仕事もあるのです、死もあるのです、死とは住む段階の違う場合に起る現象です、死とは生きる事です、人間は皆神かかっているのです、神かかっていない者は一人もいないのです、神かからない者は呼吸しないのです、この事は分かっているでしょう、霊人は人間の心の中に住んでいるのです、心を肉体として住んでいるのです、その中にまた住んでいるのです、平たく説いて聞かせているのです、霊人と和合しているから、神かかりであるからこそ三千世界に働き栄えるのです、神界の事も分かる道理なのです、幽界の事も分かる道理です、人間の言う神かかりとは幽界の神かかりです、ろくなことは無いのです、神かかりにも神かかりと分からない神かかりが結構なのです、誠の神かかりであると知らせてあるのにまだ分からないのですか、天国がうつって地が出来ているのですから、霊の国は更に立派で微妙です、天界のものは光り輝き、幽界のものは暗くなる違いがあるだけです、その時の状態によって変化するのですが、総ては神が与えたのです、現界同様に与えられているのであると知らせてあるでしょう、時間空間もあるのですが、時間空間は無いのです、同じ状態にあれば同じ所に住み、変化すれば別の所に住むのです、見ようと思えば念の中に出て来て見る事、語る事が出来るのです、見ないと思えば見えないのです、自分で見て自分で語るのです、時、所、位、総てが想念の中にあり、想念のままに現われて来るのです、分かるように申すなら、時間も空間も映像であって、情態が変るだけの事なのです、情態の元や本質は限りなく無限で自由ですから、霊界は無限、絶対、自由自在なのです、現界では時間に順に得たものでも、心の中では時間や距離に関係なく、一所に並べられるのです、心の世界では時間空間の無い道理はこれで良く分かるでしょう

考察➡日月神示では悪は無いとあるのですが、我よしとか取り違いとか理屈は悪なのだとなっています、悪は無いがあるのです、調和を乱すのが悪だともなっています、お互いに愛し合いなさいと言われても戦争するのが人類だとなります、人の血を流してはならないのですが、イエス様の十字架の血で清められたと教えるのがキリスト教です、人の子の血を流してはならないのです、血の報復があるのです、イエス様の流した血で清められたなどと信じるのは異端なのだと自覚する事です、イエス様は苦しめられたのだとハッキリと聖書に書かれています、イエス様を苦しめて殺して自分が助かるという神学を正しい教えだと受け入れるところにおそろしさがあります、おそろしい事はしない、おそろしい事に慣れると麻痺して正しい判断は出来ません、イエス様はあわれみで人を救うのです、かわいそうと思う心が無くなれば救われないのです、イエス様の十字架はあわれみの場面です、自分が助かる場面では無いのです、イエス様がかわいそうでかわいそうで胸を痛める場面です、キリスト教では救われて胸が晴れる場面にしているのですからおそろしいです

日月神示㉙ 黄金の巻⑤

心に凸凹(おうとつ・でこぼこ)があるから幽界のものに取り憑かれてつまらない事になるのです、つまらない事を広めて亡びるのです、いよいよとなってから助けてくださいと走り込んで来ても、その時では遅くて間に合わないのですから早く神の心を悟ってください、笑いの無い教えにしないでください、学問や金を頼っている内はまだまだ改心出来ないのです、今までの宗教の力でも、法律でもどうにもならないのです、三千世界の掃除が目の前に迫っているのです、神の力を頼るより他に理(ミチ)が無い事がまだ分からないのですか、中程まで進むと分からない事もあるのです、神の試練に気をつけてください、どちらの国も見当が取れない事になるのです、腹が立つのはまだメグリがあるからです、善で続くか悪で続くか、この世に善と悪とがあって、どちらで立って行くか、この世が末代続くか、得心行くまでやらせてあったのですが、もう悪では続かないことが悪神にも分かって来るのですから、今しばらくのゴタゴタなのです、ものの調和が分かれば正しき霊覚が生れるのです、神の姿がうつって来るのです、光る誠の行をさせたらなら皆の者が逃げてしまうのでここまで甘くして引張って来たのですが、もう甘く出来ないですから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行いますから、結構な者になれるように褌をしめてください、この世は神の国の写しであるはずなのに、幽界から移って来たものの自由にさせられて、今のこの世の体裁は幽界と同様になっているのです、地は九二(クニ)のやり方をしなければ治まらないのです、早く気づいた人民から救いの舟を出してください、これと信じたらまかせ切ってください、損も良いのです、病気も良いのです、怪我も良いのです、それによってめぐりを取っていただくのです、めぐりが無くなれば日本晴れです、今がその借銭(メグリ)清算(すまし)の時です、世界のメグリは大きいのです、真理は霊、芸術は体です、正しい芸術から神の理(ミチ)に入るのも良いのです、説くのも良いです、芸術には行き詰りが無いからです、芸術は調和です、七つの花が八つに咲くのです、神は人民に改心をさせて、世の立て替え立て直しを致そうとしたのですが、人民の曇りがあまりにひどいのでどんなびっくりが出るか、もう神も堪忍袋の緒が切れたのです、人間が恨みや怒りを持つと、その持ち物まで争う事になるのです、早く気持ちから洗濯してください、死んでも続くのですから結構に始末しなければならないのです、上に立つ者ほど余計に働かなければならない時が来ているのです、いくら古くから信心していると言っても肝心が分かっていないと何もならないのです、分からない人は良い御用は出来ないのです、想念の自由とは神に向上するより上の、より良き方に進む自由なのです、どの世界の人民も自由を持っているのです、裏の仕組みに・を入れると表の仕組みとなり、表の仕組みに〇を入れると裏の御役となるのです、・を抜けば悪のやり方となるのです、どの仕組みも分かっていないと三千世界の先々まで分かっていないと、何事も成就しないのです、神界の乱れはイロからです、男女関係が世の乱れの因(もと)なのです、お互いに魂のやりとりなのです、この世ばかりでなく、あの世まで続くのですから、くどく気をつけておくのです、コトはモノになるのです、悪い事をすれば悪いものが生まれて来て、生まれ故郷に食いついて悪くするのです、善い事も同様です、因縁のあるミタマが集まって来て人があまり出来ない辛抱をして、世界の立て替え立て直しの御用を行うのですから、浮いた心で参って来ても御役には立たないのです、邪魔者ばかりなのです、因縁のミタマはどんなに苦しくても心は春です、心が勇まない者や神示を読んで馬鹿らしいと思う者は、遠慮はいらないのでさっさと帰ってください、神はもうご気嫌取りは御免なのです、一分一厘、力一杯、違わない事を書かせてあるのです、色メガネで見るから違った事に見えるのです、神示が嘘だと言うようになるのです、メガネを外して落ち着いてハラで見てください、世の先の先の事まではっきりと写るのです、そなたの心の中にいる獣(ケダモノ)に言向けしなければならないのです、善い方に導かねばならないのです、一生かかっても良いのです、それが天国に行く鍵であるのです、誠の改心であるのです、神の知恵と愛が主の座にいなければならないのです、物は愛から生れるのです、ウムものが元です、生まれるものはナルのです、ナルには神の知恵でなるのです、誠に改心出来たと神が見届けたなら今度はこの世でも何の心配もないように守って肉体、顔まで変えてやるのです、宿命と運命は同じでは無いのです、磨けばどんなにでも光るのです、放っておいても神に背く者は自滅して行き、従う者は弥栄えて行くのです、その神の能(ハタラキ)を良く悟ってください、人間の処理方法と神の処理方法と融和させなければなりません、急がなければならず、急いでは谷底に落ちて出来損なうのです、ありとあらゆるものは何んでもかんでも天地の御用を持っているのです、そのものの勝手な道は許さないのです、大きな喜びの中に小さな自分の喜びが大きく栄えるのです、大きな生命の中にこそ小さい自分の誠の喜びが弥栄えるのです、分かりましたか、日本は日本、唐(から)は唐、オロシヤはオロシヤ、アメリカイギリスはアメリカイギリスです、分け隔てするのは神の心ではないと申す人民が沢山いるのですが、世界は一平であると申しても同じ事です、同じ神の子だと申していますが、頭は頭、手は手、足は足と申してあるでしょう、同じ事であって同じでは無いのです、悪平等は悪平等です、世界丸潰れの企み(たくらみ)なのです、この道理を良く理解してください、総てのものを先づ感受してください、その後に感謝してください、感謝すれば弥栄えるのです、喜びは神から流れて愛から流れ出るのですが、愛そのもの、善そのものでは無いのです、生命であるのです、生命であるが生命の本体では無いのです、天地には天地のキ、民族には民族のキがあるのです、そのキは時代によって変って来るのです、その時のキが、その時の誠の姿であるのです、それに合わない者は滅んでしまうのです、火の洗礼、水の洗礼、ぶったり叩いたり、カ、ミ(火水)の洗礼が無くては銘刀は出来ない道理なのです、世界中がいくら集まって、良き世にしようと相談をしても肝腎の・が分からないのでまとまりがつかないのです、誰一人、悪いわがままの癖を持たない人間はいないのです、その癖を直して行くのが皮をむく事です、改心です、弥栄えして行く事です、金を持つと金の地獄に、理屈を持つと理屈の地獄に、神に捉われると神の地獄に落ちて苦しむのです、持たなければならないし、中々難しいのです、先づ求めてください、求めなければならないのです、先づ捨てて求めてください、求めて行じてください、愛の人間は深く、智の人間は広く進むのです、経(タテ)と緯(ヨコ)なのです、二つが折り重なって結んで弥栄える仕組みです、経のみでも緯のみでもならないのです、この世に生まれたらこの世の御用、この世の行をしなければならない道理です、この世に生れてもこの世の行をしなければ、生まれた時より悪くなるのです、草木より役に立たない者となるのです、草木に変えると申してあるでしょう、神が変えるのでなく自分でなり下がるのです、分かりましたか、つつましく正しくして行けばその国々で一切不足なく暮して行けるように何もかも与えてある事に気づかないのですか、天災地変は人間の心のままであると申してあるでしょう、豊作凶作も心のままです、今のままで行けば何うなるか誰にも分からないのです、神示通りに出て来る事を未だ疑っているのですか、ひつくの民とみつくの民がいると申してあるでしょう、ひつくの民は神の光を愛の中に受け、みつくの民は知の中に受けるのです、愛に受けると直ちに血となり、知に受けると直ちに神経と和してしまうのです、二つの民の流れです、そなたが神をつかめば神はそなたを抱くのです、神に抱かれたそなたは平面から立体のそなたになるのです、そなたが有限から無限になるのです、神人となるのです、永遠の自分になるのです、他のために行ってください、神は無理は言わないのです、始めは子の為でも親の為でも良いのです、自分以外の者の為に先ず行ってください、奉仕してください、嬉し嬉しの光が射し染めるのです、最初の世界が開けるのです、一本足では立てないのです、二本足が良いのです、やがては明ける二三(フミ)の朝、二二(フジ)は晴れたり日本晴れ、落ちていた神々様が元に帰らなければこの世は治まらないのです、一人一人ではいくら力があっても物事は成就しないのです、それは地獄の悪のやり方です、一人一人は力弱くても一つに和してください、二人寄れば何倍か三人寄れば何十倍もの光が出るのです、それが天国の誠のやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方です、誰も死んでから地獄には行かないのです、地獄は無いのですから行けない道理です、曲って世界を見るから大きく取り違うから、曲った世界を作り出して自分で苦しむのです、そこに幽界が出来るのです、有りて無き世界が有ってはならないのです、四季はめぐる、めぐる姿は渦です、渦は働き、上れば下り、下れば上るのです、この神示を読んだ今が出船の港です、神の恵みの時を与えられているのです、明日と言わずに実行してください、明日は永遠に来ないのです、明日は無いのです、今だけがあるのです、ウシトラ金神様を先づ理解してください、どんな事でも叶えてやるのです、理解するには理解する心を先ず生まなければならないのです、我よしでは拝めない金神様です、天地総てのもの生きとし生けるものが悉くより良くなるように働いているのです、それが神の心であり、稜威(みいつ)です、弥栄えと申すものです、その時その人間のキに相応しい神しか拝めないのです、悪いキで拝めばどんな立派な神前でも悪神が感応するのです、悪神を拝んでも正しき愛と喜びがあれば善き念が通じるならば、悪神が引っ込んでそれぞれの善き神が現われるのです、この道理をよく心得えてください、生命を捨ててかからなければ誠の理解には入れない道理です、身慾信心では駄目なのです、命を捨てなければ命に生きられない道理です、二道二股の者が多いのです、物の文明を悪く申す宗教は亡びるのです、文明も神の働きから生れたものです、悪も神の御働きなのです、悪を憎む事が悪なのです、善を憎むよりなお悪いのです、どうして分からないのですか、弥栄えと言う事は一歩づつ歩んで喜びを増して行く事です、喜びの裏の苦に捉われるから分からない事で苦しむのです、苦と楽を共に見てくださいと申してあるでしょう、偶然の真理を早く悟ってください、大切なもの一切は神が人間に与えてあるのです、人間はそれを処理するだけで良いのです、何故に生活にあくせくするのですか、悠々天地と共に天地に歩んでください、嬉し嬉しです、一日が千日と申してあるでしょう、神を知る前と神を知ってからとの事を申しているのです、神を知っての一日は神を知らない千日よりも尊いのです、始めは自分本位の祈りでも良いと申してあるのですが何時までも自分本位ではならないのです、止まると悪となるのです、神の理(みち)は弥栄です、動き働いて行かなければなりません、善と悪との動きを心得えてください、悪は悪ではないのです、悪を憎む事が悪です、内にあるものを変えれば外から映って来るもの、響いて来るものが変わって来るのです、内が外に外が内に響くのです、妻に任せ切った夫、夫に任せ切った妻の姿となってください、信仰の真の道が開けるのです、一皮むけるのです、岩戸が開けるのです、不二晴れるのです、真理を理解していれば心配は要らないのです、失敗も財産です、真剣で求めると真剣が授かるのです、求めるとは祈る事です、良く祈る者は良く与えられるのです、日々の祈りは行であるのです、百年祈り続けても祈りだけでは何もならないのです、それは祈り地獄です、祈り地獄が多いのです、肉体人は肉体の行をしなければなりません、日々の祈り(行)を結構にしてください、次の祈りとは省みる事です、いくら祈り行じても自分を省みなければ千年行じても何もならないのが道理です、同じ山に登ったり降ったりする御苦労の事は馬鹿の散歩と申すものです、悔い改めてくださいと申してあるでしょう、省みて行ずるその祈りが弥栄えるのです、平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限なのです、立体に入らなければならないのです、無限に生命しなければならないのです、立体から複立体、複複立体、立立体と進まなければなりません、一から二に二から三にと次々に進めなければなりません、進めば進むほど初めに帰るのです、・に到るのです、立体に入るとは誠の理解生活に入る事です、無限に解け入る事です、岩戸が開ければ富士(真理)が輝くのです、弥栄え弥栄えです

考察➡日月神示を解釈しているサイトは複数あります、詳しくは調べていませんが、てんし様を拝めという事に注目しているサイトは少ないです、すべてはてんし様のものぞなのです、たくさんの神様が出て来る日月神示ではありますが、てんし様に注目集中しなければならないのです、複雑な知識で信仰をする事はよろしくないです、あれもこれもと求めるのはよろしくないのです、このブログではイエス様信仰を訴えています、世界のあらゆる権威を持たれているのはイエス様だと断定しています、王の王、主の主、神の神はイエス様であると確信する信仰なのです、迷う方はいろいろとサイトを探してまた迷うのです、オオカミが来ると逃げてしまうのが無責任な牧者だから気を付けなさいとイエス様の教えです、無責任な事を書いて消えたサイトはたくさんあります

㉘日月神示 黄金の巻④

自分だけの信仰ならは私心私情のためです、自分を作ってから人を導くのであると理屈を申していますが、その心根を洗って自分で良く見つめてください、悪は善の仮面をかぶって心の中に巣食っているのです、仮面が理屈で、理屈は隠れ蓑(みの)です、洋服を脱いで和服を着てまた洋服を着るのです、仏の力と神の力と同じでは無いのです、同じ所までは同じですが、もうここまで来たのですからこの先からは神の道(ミチ)でなくては動きが取れないのです、神の大理(オオミチ)は上の上なのです、神の理を明らかにすれば、神はその人を明らかにするのです、天使は天と地の和合者、仁人は地と天の和合者です、奥山奥山と申してあるでしょう、神示(ふで)は奥山から出て奥山で分けるくらいの事がどうして分からないのですか、誰も勝手にしてはならないのです、それぞれの順を立てなければ悪となるのです、分からないのは我よしだからなのです、元から固めて行かなければ何時までたっても小田原なのです、小田原も道筋なのですが小田原止まりでは世界の人民が丸潰れとなるのです、三分残したいために三千の足場と申してあるのです、早く三千の足場を集めてください、御役は苦労があるのです、どこで何をしていても道さえ踏んでいれば弥栄えるのです、行き詰ったら省みてください、自分の心の狂いが分かって来るのです、神から伸びた知恵と愛でないと人民の知恵や学や愛はすぐに潰れてしまうのです、やってみてください、根なし草には実は結ばないのです、お尻を出されたらお尻を綺麗にふいてやってください、怒ってはならないのです、自分の子供のお尻と思って拭いてやってください、分かった人は今の内は阿呆でも結構なのです、一つに和していてください、人間心で急いではならないのです、自分に捉われると局部の神、有限の神しか分からないのです、自分を捨てると光が差し込むのです、知は愛、息は真です、平面の上でいくら苦しんでも何もならないのです、逆にメグリを積むばかりなのです、どうどうメグリです、てんし様は奥山にお出ましです、省みると道を見出し、悟ると道が分かり、改めると道を進むのです、苦しむばかりが能ではないのです、自分の中にあるから近よって来るのです、厭な事が起って来るのは厭な事が自分の中にあるからです、肉体は親から受けたのだから親に似ているのです、霊は神から受けたのだから神に似ているのです、分かった守護神は一日も早く奥山へ出て来て神の御用が結構なのです、慢心が出るから神示を読まないような事になるのです、肚の中に悪の気が入るからぐらぐらと折角の屋台骨が動いて来るのです、人の心が誠にならないと誠の神の力が現われないのです、ミタマ磨きとは善いと感じた事を直ちに行う事なのです、愛は神から出ているのですから神に祈って愛させて戴くようにすると弥栄えるのです、祈らずに自分だけで行うから、元を絶つから我よしに、自分愛になるのです、自分を拝むのは肉愛では無いのです、神と人の和は神よりなさるものなのです、本質的には人間から神に働きかけるものでは無いのです、働きかける力は神から出るのですから、人間から和し奉らねばならないのです、信じ合う一人が出来たら一つの世界を得た事です、一つ得たら二つになった事です、祈りを忘れる事は神を忘れる事、神から遠ざかる事です、祈りを忘れてはいけません、安全な道を通ってください、安全な教えの所に集まってください悪く言われるのは結構です、何と言われてもビクつくような仕組みはしていないのです、天晴れ三千世界のミロクの仕組みは天晴れ(あっぱれ)です、これから先は神の力を戴かない事には少しも先に行けない事になるのです、行ったと思って振り返えると後戻りしていた事にがっかりするのです、心得てください、何もかも存在を許されているものはそれだけの用があるからです、近目で見るから善である悪であると騒ぎ廻るのです、大きな一神を信じるまでには部分的多神から入るのが近道なのです、大きなものは一目では分からないのです、この方は世に落ちての仕組みですから、落して成就する仕組みが結構なのです、神様は親ですから四角張らずに近寄って来て親しんでください、失敗するミタマの人もいるのですが、この方の仕組ですからめったに間違いないのですから、欲しい者には一先づ取らせておいてください、めぐりだけ取って行く仕組みです、苦しめたら改心は難しいのです、喜ばせて改心させるのが結構なのです、すべてを愛しなさいと申すのは高い立場の事です、九九(ここ)には九九の立場があるのです、良く心得てください、世の中には順序があるのです、順序がカズタマ(数霊)です、動くと音出るのです、音がコトタマ(言霊)です、物には色あるのです、色がイロタマ(色霊)です、世界が自分にうつっているのです、世界を見て自分の心を早く改心してください、世はグルグルと七変りするのです、今度は改心のために世界の民は皆一旦引上げがあるのです、神との経(たて)のつながりを忘れがちなのです、平面の事のみを考えるから平面のキのみ入るのです、平面の気のみでは邪であるのです、動機が善なれば失敗は薬です、世界の人民は皆改心してくださいと申しているのです、どんなめぐりある金でも持って居れば良いように思っているのですが、めぐりある金はめぐりそのものなのです、家が治まらないのは女が出るからです、夫を立てると果報は女に来るのです、天界に住む者は一人一人は力が弱いのですが和すから無敵なのです、幽界に住む者は一人一人は強いのですが孤立するから弱いのです、仲よく和してやってくださいと申している道理は分かりましたか、そなたは何万年の原因から生れ出た結果なのです、不足は言わないでください、四十八柱、四十九柱、それぞれの血筋の者を引き寄せておいてその中から磨けた者ばかり選り抜く仕組みなのです、磨けない者は替わりのミタマはいくらでもあるのです、お出直ししてください、世界が二分となるのです、ものを見るのは額で見てください、ピンと来るのです、額の判断は間違いないのです、額で見る目に見の誤りはないのです、霊界には時間空間は無いと申していますが、無いのではないのです、違って現われるから無いのと同様であるのです、時間や空間もあるのです、悪の霊はミゾオチに集まって頑張るのです、黄金の巻は百帖です、黄金と白金とりどりに出るのです、慌てないでください、戴いた神徳に光を出す人民でないと、神徳を我よしにする人民にはお陰はやらないのです、自分が自分の思うようにならないのです、自分が自分のものでないからです、自分のものなら自由になると申してあるでしょう、道を進めば楽に行けるのです、道を行かないで山や畠や沼に入るから苦しむのです、神の仕組みの分かる人民が二分三分出来たらいよいよに取りかかるのです、未だ未だ改心が足りないのです、神は急いでいるのです、魂にメグリがあると何してもグラリグラリとなって成就出来ないのです、メグリのままが出て来るのです、心の良い者は神にまつわってこの世の守護神と現わすのです、理屈が分からなくても真理は掴めるのです、信念と真念は違うのです、信念は自分のものですが信念超えて真念があるのです、任せきったのが真念です、迷信が迷信でなくなる事があるのです、信念は要らないのではないのです、信念も必要なのです、もう待てないので分かった人民は一日も早く奥山に参って神の御用を結構に務めあげてください、世界中を天国にする御用の御役を務め上げてください、人間の念力だけでは何事も出来はしないのです、その念力に感応する神の力があるから人間には分からないびっくりが出て来るのです、戦や天災では改心出来ないのです、三千世界の建て直しですから、どんな人も下の神々様もアフンの仕組みで見事成就させるのです、良く神示を読めば、心で読めば仕組みの九分通りは分かるのです、死ぬ時の想念がそのまま続くのですから、その想念のままの世界に住むのです、この世を天国として暮す人は天国へ行くのです、地獄の想念は地獄を生むのです、真理を知れば良くなるのです、そんな事は迷信であると申しますが、求めて見てください、百日一生懸命に求めて見てください、必ずお蔭があるのです、神があるから光が射して嬉し嬉しとなるのです、真理を知って良くならなかったなら良く省みてください、良くなるのが誠なのです、悪くなったら心しなければならないのです、善人が苦しむ事があるのです、良く考えて見てください、長い目で見て良くしようとするのが神の心です、目の前のお陰ではなく、永遠の立場から良くなるお陰が誠のお陰です、神徳は重いですから腰がふらつかないようにしてください、その代り貫いてくれたならば永遠(とわ)に散らない九の花となるのです、二二(富士)に九(苦)の花がどっと咲くのです、拍手は清めですが神様との約束固めでもあるのです、約束は破らないでください、富士の仕組みとは動かない真理、渦海の鳴門の仕組みとは弥栄えの限りなき愛の事です、神の理(ミチ)に入って、理(ミチ)を踏んでいれば、やり方一つで何でも良くなり、嬉し嬉しとなるのです、世の元から出来ているミタマの建て直しですから、一人の改心でも中々大変であると申しているのに、ぐずぐずしていると間に合わないのです、気の毒になるのです、メグリと申すのは自分のした事が自分にめぐって来る事です、メグリは自分で作るのです、他を恨んではならないのです、美の門から神を知るのは誰にでも分かる一番の道です、芸術から神の道に入るのは誰にでも出来るのです、この道理は分かるでしょう、審判(さばき)の廷(にわ)に出たならば、世界は一人の王となるのです、御出ましが近くなったのです、自分を良くしてくださいと申している事は神を小使いのように思っているからです、大きくなってください、悪で行けるなら悪でも良いですが、悪は影ですから、悪では続かないのですから早く善に帰れと申しているのです、先祖は肉体人を土台として修業するのです、メグリだけの業をしなければなりません、心を入れ替えて奥山に参って、その場で荷物を持たせるようにしますので、ミタマを十分に磨いておいてください、神が力添えするのでどんな見事な御用でも出来るのです、慾が深いから先が見えないのです、悪神は今までは思う通りに、始めの仕組み通りにやれたのですが、もう悪の利かない時節が来たのです、早く善に立ち帰ってください、善の神まで巻き込んでのやり放題、これで不足はもう無いでしょうから、いくら信仰しても借銭が無くなるまでは苦しまなければならないのです、途中でへこたれないように、命がけで信仰しなければ借銭清算は難しいのです、途中で色が変る紫陽花のようでは御用は難しいのです、心に凸凹があるから幽界のものに取り憑かれて、つまらない事になるのです、つまらない事を広めて亡びるのです

考察➡自分はいつも感謝しているという人がいます、感謝行というのでしょうか、感謝感謝の毎日を過ごしている感じなのですが、どうもスッキリとしません、信仰とは感謝すれば良いと言う感じでは無いのです、聖書はハッキリと悔い改めなさいです、自分の罪を認める事が大事なのです、感謝しているという信仰は今の自分の存在や状態をそのまま認めているのですから、悪い事が起きても感謝となってしまいます、何が起きても感謝なのだとする信仰は腑に落ちません、人は懺悔(ざんげ)です、犯している罪を認めなさいとなっています、感謝する事を否定はしませんが、ただありがたいだけでは改心とはなりません、ありがたいありがたいでは出て来る結果は変わらないです、天変地異が起きてもありがたいのは違和感を感じます、楽園を追われてもありがたいでは楽園に戻れません、楽園に帰らなくても良い事になります、聖書は罪の告白と信仰の対象をイエス様にする事が求められています、お日様に向かって感謝していますという信仰は異教徒になります、自分の罪を認めてハッキリとイエス様を信じる事です、聖書ではイエス様以外の神様を神とする事は異端となります、日月神示ではてんし様を拝めばそれで良いのじゃです

㉗日月神示 黄金の巻③

この方の許(もと)に引き寄せた人民の八、九分通りの人は一度や二度は死ぬ生命を神が助けてめぐりを取って御用させているのです、奉仕してください、どんな御用でも勇んで勤めてください、腹に手を当てて考えて見てください、なるほどなぁと思い当たるのです、喉元過ぎて忘れているのです、神示を読めば神示の気が通うのです、神示を読んでください、神示をうつしてください、神示をうつす御役は結構な事です、うつしてうつしてください、人にうつしてください、世界にうつしてください、悪のミタマをなだめて抱き参らすには理解が大切なのです、野や森を見てください、水の流れにも宗教があるのです、これを人民が勝手に宗教にして一度下げるから神を犯す事になるのです、引き下げなければ分からないのですが心で悟ってください、目覚めた人の生活は弥栄えるのです、天国の礎、出足の地場は(二二)からです、二二(フジ)の道は秘文(ヒフミ)の道です、和です、奉る歌を書かせておいたになぜ読まないのですか、大きな声で読み上げてください、歌をうたってくださいと申してある時が来ているのです、歌で岩戸が開けるのです、皆さん歌ってください、唄ってください、各自それぞれ心の歌を作って奉ってください、歌は結構なのです

ひふみゆら、ひふみゆらゆら、ひふみゆらゆら

かけまくも、かしこけれども、歌たてまつる

御前に、歌たてまつる、弥栄(やさか)み歌を

世を救う、大みいわざぞ、みことかしこし

まさに今、神のみことを、この耳に聞く

三千世界、救うみわざぞ、言(こと)ただし行かな

大神の、しきます島の、八十島(やそしま)やさか

天かけり、地(くに)かける神も、み光に伏す

堪えに堪えし、三千年の、岩戸開けぬ

したたみも、いわいもとおり、神に仕えむ

大稜威(おおみいず)、あぎとう魚も、ひれ伏し集う

かむながら、みことの朝を、みたみすこやかに

神の子ぞ、みたみぞ今の、この幸になく

国原は、大波うちて、みふみを拝す

天も無く、地もなく今を、みことに生きん

大みつげ、八百万神も、勇みたつべし

天地の、光となりて、御神示湧き出づ

一つ血の、みたみの血今、湧きて止まらず

大みこと、身によみがえる、遠つ祖神(オヤ)の血

すでに吾れ、あるなし神の、辺にこそ生きん

高鳴るは、我が祖の血か、みつげ尊し

吾れあらじ、神々にして、祈らせ給う

天地も、極まり泣かん、この時にして

かつてなき、大みつげなり、たたで止むべき

天地も、極まりここに、御代生まれ来ん

大き日の、陽に融け呼ばん、国ひらく道

みことのり、今ぞ輝き、岩戸開けん

宮柱、太しき建てて、神のまにまに

抱き参らせ、大御心に、今ぞこたえむ

言いむけ、まつろはしめし、みことかしこし

ただ涙、せきあえず吾(あ)は、御前に伏す

捧げたる、生命ぞ今を、神と生まれます

大前に、伏すもかしこし、祈る術(すべ)なし

今はただ、生命の限り、太道(おおみち)伝えむを

祈りつつ、限りつくさん、み民なり我

生命越え、大き命に、生きさせ給え

ひたすらに、みことかしこみ、今日に生き来し

言霊の、言高らかに、太陽(おおひ)にとけな

天に叫び、我にむちうち、今日に生き来し

嵐となり、天駆けりなば、この心癒えむか

走りつつ、今海出づる、大き月に呼ぶ

みみかくし、生命と生まれて、遠つ祖神(おや)さか

神々の、智は弥栄え、ここに我立つ

みたみ皆、死すてう事の、ありてあるべき

あな爽け、みたみ栄(はえ)あり、神共に行く

さあれ吾(あ)の、生命尊し、我を拝みぬ

みづくとも、苔むすとても、生きて仕えん

いゆくべし、曲(マガ)の曲こと、断たで止むべき

かへりごと、高らしらさんと、今日も死を行く

追い追いて、山の尾ことに、まつろはさんぞ

追いはらい、川の瀬ことに、曲なごめなん

みことなれば、天(あめ)の壁立つ、極み行かなん

と心の、雄たけび天も、高く鳴るべし

まさ言を、まさ言として、知らしめ給へ

棚ひじに、水泡(わか)きたり、御稲(みとし)育てんを

むか股に、ひぢかきよせて、棚つつくらむ

狭田長田、所狭きまで、実のらせ給え

神々の、血潮とならん、言に生き行く

言さやぐ、民言向けて、神に捧げん

にぎてかけ、共に歌わば、イワト開けん

大き日に、真向い呼ばん、神の御名を

道端の、花の白きに、祈る人あり

拍手の、響きて中今(いま)の、大き喜び

悔ゆるなく、御前に伏し、祝詞申すも

祝詞せば、誰か和し居り、波の寄す如

祝詞申す、我が魂に、呼ぶ何かあり

御前に、額(ぬか)づきあれば、波の音聞こゆ

悔ゆるなき、一日(ヒトヒ)ありけり、夕月に歩す

曇りなく、今を祝詞す、幸はへ給え

奉る、歌聞こし召せ、幸はへ給へ

ひふみよい、むなやここたり、ももちよろづう

相談相談だと言って、見物人を舞台に上げてはいけません、見物人は見物席です、祈り祈り結構だと申しても邪の祈りは邪の道に落ちるのです、色々のお告げが出るのです、今がその通りなのです、お告げに迷うのです、良く審神(サニワ)して聞いてください、分からなければ神示を見てください、今度の仕組みはまだまだナルのです、なってなってなりの果てに始めて成るのです、生むのです、先づ金が無ければと申していますが、その心には誠が無いのです、キが元であるとあれほど申しても未だ分からないのですか、役員はどうどうめぐりです、ナルとは成る言(コト)です、成るは表で主なのです、ウムとはウムの事で、生むは裏で従なのです、ナルは内、ウムは外です、ナルには内の陰陽を合わせ、ウムにはソトの陰陽を合わせてください、成ると生むは同じですが違うのです、成る事を生むと申す事があるのです、生む事を成ると見る事があるのです、ナルとは渦とナル事、自分が大きく成る事です、自分の中に自分を作り、内に生きる事です、ウムとは自分の中に自分を作り外に置く事です、この事が分かればイシヤの仕組みが分かるのです、神の御用だと申してまだまだ自分の目的立てる用意をしているのです、自分に自分がだまされないようにしてください、自分の中に善の仮面を被った悪が住んでいるに気づかないのですか、祓い清めの神がスサナルの神様です、サニワの神はウシトラの金神(こんじん)様です、それぞれにお願いしてからそれぞれの事を行ってください、この道に入って始めの間は、逆に損したり馬鹿をみたりするのです、それはめぐりを取って戴いているのです、それが終われば苦しくても何処かに光を見出すのです、お陰の始まりです、次に自信がついて来るのです、胴が座って来るのです、心が勇んで来たなら、お陰が大きく光り出したのです、悪の霊はみぞおちに止まりやすいのです、霊の形は肉体の形、肉体は霊の形に従うものです、この事が分かればこの世の事、この世とあの世の関係がはっきりするのです、足には足袋(たび)、手には手袋、一番上の番頭、大将が悪いのではないのです、一の番頭が良くないのです、親に背くのは良く無いですが、真理に背くのは尚悪いのです、眷族さんにも御礼申してください、大神様だけに御礼では仁義にならないのです、月日様では世は正せないのです、日月様であるのです、日月様がヒツキ様となりなされて今度の岩戸開きを開けるのです、当分は二(字)を通じて出してください、与えてください、口で言うこと良く聞いてください、肉体で言う事と神の申す事を良く聞き分けてください、霊媒を通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊なのです、激しくなるのです、世界一列一平まだまだ出来そうで出来ないのです、奥の奥を見通してください、動きは必要であるのですが皮をむくのです、次も駄目で次も駄目です、その次の次が誠の一家です、寒い所が暖かくなり暑い所が涼しくなるのです、仏には仏の世界があるのですが、三千年でチョン切りだと申してあるでしょう、神示を示しても順を乱して来るのです、欲を出さないでください、順が乱れている所に神のはたらきは無いのです、人民は自由にしても良いと言っても悪の自由にしてはならないのです、喜んでください、喜びは弥栄えの種(たね)を蒔くのです、祈りとは実行です、言わなければならないですし、言えば肉体が申すように思ってお陰を落とすのです、鼻高とは自分の物差しで測って分からない事を言うのですから学の鼻高さんには神も閉口なのです、何も知らない者が出て来て邪魔をするのです、余程しっかりしていてください、邪魔も御役なのですが、時と所によりけりなのです、神徳を積んだら人の前では自分を隠せるようになるのです、頭に立つ者ほど力を隠してください、昨日より今日、今日より明日と一歩一歩弥栄えてください、一足飛びは見ていても危ないのです、早く理解しないと後戻りさせなければならないのです、分からなければ後押ししなければならないのです、少しの時の早し遅しはあるのですが何れは神示通りに出て来るのです、想念は形式をもって始めて力が出るのです、物も神として仕えると神となるのです、相談と言うと人民ばかりで相談しているのですが神との相談が結構なのです、神との相談は神示(フデ)を読む事です、行き詰ったら神示(ふで)に相談してください、神示が教えて導いてくれるのです、罪を憎んでその人を憎まずとは悪のやり方です、神のやり方はその罪をも憎まないのです、生活が豊かになって来るのが正しい理(ミチ)です、行き詰ったら間違った道を歩いているのです、我では行かないのです、学や金では行けないのです、誠の知一つで行くのです、目的が良くても実行の時に悪い念が入ると悪魔に魅入られるのです、心してください、雨、風、岩となりいよいよ荒れの時節なのです、世界には何とも言えない事が起き、病も分からない病が激しくなるのです、食うべきものでない悪を食って生きねばならない時が来るのです、早く悪を消化する胃袋にならなければ間に合わないのです、心の梅干は大切です、五十二才は次の世の始めです、五十六才七ヶ月はミロクの世です、今度集まってもまとまらないのです、世界の型を出して実地に見せてあるのです、骨が折れるのですが、実地に見せなければならないですし、まとまらないのを纏めて、皆がアフンとなる仕組みなのです、気の付く人民は早く元に帰ってください、心に誠があっても口に誠を伝えても実行しない者が多いのです、偽りに神の力は加わらないのです、偽善者が多いのです、祈り行じて洗濯すれば皆世界のサニワにもなれる結構なミタマばかりです、死産の子も祀らなければならないのです、逆怨みでも怨みは怨みです、理屈に合わなくても飛んだ目に遭うのです、今までの教えでは成り立たないのです、生まれ変わらなければ人も生きては行けないのです、平等愛とは差別愛の事です、公平と言う声に騙されないでください、数で決めるなと申してあるでしょう、群集心理とは一時的な邪霊の憑きものです、上から乱れているから下のしめしがつかないのです、我よしのやり方では世は治まらないのです、仲良しになって道を伝えてください、道を説いてください、一切を肯定して二九(軸)を伝えてください、悪神がかかったならば自分では偉い神様がかかっていると信じ込むものです、可哀そうですが、それも己の天狗です、取り違いです、霊媒の行いを見ればすぐ分かるのです、早く改心してください、霊のおもちゃになっている者が多い世の中です、大将が誰だか分からない事になるのです、先生と言ってあげると皆先生になっているのです、困ったものです、神々の数は限りないのです、一柱づつ御名を讃えていたのでは限りないのです、大日月の大神様と称え祀ってください、総ての神々様を称え祀る事なのです、日は父、月は母、キは自分です、自分を拝まなければどうにもならない事になって来るのです、一日が千日になったのです、テン(・)を忘れないでください、世を捨てて肉体を離れて天国が近いと教えるのは邪教なのです、合せ鏡ですから片輪となっては天国に行かれない道理です、邪教は迷信であるのです、金で世を治めて金で潰して地固めしてミロクの世にするのです、三千世界のことですから、少しの早い遅しはあるのです、人民は少し遅れると神示は嘘だと申すのですが、百年も続けて嘘は言えないのです、ここは元の古い神を祀って最も新しい道を開くところです、天狗の鼻を折って早く奥山に参ってください、この世の仕事があの世の仕事です、この道理が分からずにこの世の仕事を捨てて、神のためだと言って飛び回る鼻高さんはポキンと折れるのです、仕事に仕え祀ってください徳を積めばこそ天国に昇るのです、天国に行く人はこの世でも天国にいるのです、キタ(基田)はこの世の始めです

㉖日月神示 黄金の巻②

言われる間はまだ良いのです、読まれる間はまだ良いのです、綱が切れたら沖の舟と同じです、神を信じているのに迷信に落ちているのです、日本の国のミタマがひどく曇っているのです、外国は同様ながらも筋が通っているのです、型にはめると動けない事になるのです、型を外してくださいと申してあるでしょう、自分で自分を監視してください、顕斎(けんさい)のみでも迷信、幽斎(ゆうさい)のみでも迷信です、二つを行っても迷信です、二つ融け合って生れた一つの正斎を中として顕幽の両斎を外として祀るのが大まつりです、荒、和、幸、奇、ミタマを統べるのが直日のミタマ、みすまるのタマです、今度は直日のミタマでなければならないのです、直日が弥栄えて直ヒツキの能(ハタラキ)となるのです、食物に気をつけてください、信仰は感情です、飢えた人には食物、神が勝つのです、人間が勝ってはならないのです、神まつれ、祖先まつれ、子孫まつれ、心まつれ、言葉まつれ、行まつれ、食物まつれ、着るものまつれ、住居まつれ、土地まつれ、感謝感謝で喜びが来るのです、奇跡では改心出来ないのです、この神示を読むとミタマが磨けるのです、ミガケルのです、神示を読むと改心出来るのです、暮し向きも無理なく結構に弥栄えるのです、まだ分からないのですか、苦しいのは神示を読まないからです、金の世が終わって、キンの世が来るのです、三年目、五年目、七年目です、心得てください、欲しいものを欲しい時に食べてください、低くなるから流れて来るのです、高くなって天狗ではならない道理なのです、頭を下げると流れて来るのです、喜びは愛から来るのです、神様も神様を拝み、神の道を聞くのです、それは⦿と右渦(うず)と左渦とによって自分のものとなるのです、融けるのです、一つの境界があるのです、世界の人民には一人に一柱の守りの神をつけてあるのです、人に説くには人がいるのです、役員は取り違いしているのです、我よしの信仰だからです、仕組みがあまりにも大き過ぎるから分からないのも道理ですが、分からないでは済まされない時が来ているのです、いざという時は日頃の真心がものをいうのです、付け焼刃は付け焼刃、神を拝むとは、頭ばかり下げる事では無いのです、内の生活する事です、内外共でなくてはならないのです、残る一厘の仕組みは悪の中に隠してあるのです、口で知らす事が分かる人には分かるのです、大切な事はミミに聞かせてあるのです、天狗だから、軽く見るから分からないのです、神示は要らないのです、神示はカスなのです、皆が・を見失っているのです、・があるのが分からないのです、言わないでください、仕組みは出来上がらないと人民には分からないのです、仕上げを見てください、見事な仕上げなのです、心で悟ってください、言うだけで聞いてくれれば実地に出さなくても良いのです、実地には出したくないのです、この道理を良く悟ってください、実地に出したのでは人民が可哀そうですから、こらえこらえてくどく申している内に早く悟ってください、こんなになってしまったのもこの方等の我(が)が強過ぎたからです、我を出すなと申してあるでしょう、この度の岩戸開きに使う身魂は我の強い者ばかりが、めぐりだけの事を償って償う事です、天地をかまう神でも我を出せない事なのです、神々様も懺悔しているのです、ましてや人民はさらに懺悔しなければならないのです、天明の改心もまだまだのまだなのです、与えてあるのに何故手を出さないのですか、より良い教えに変るのは宗祖の喜ぶ事である位は分かるでしょう、うまい事を申して人を集めると、うまい事を申して人が去るのです、西と東に宮を建ててください、建てる時が近づいたのです、間に合う守護神が九分通り悪になっているのです、経(たて)には差別あるのですが緯(よこ)は無差別です、この道理が分らなければ一列一平とならないのです、金が欲しい者には金儲けさせてやってください、欲しいものを与えてやってください、人間心と神心は逆様なのです、与える事は戴く事です、まだ分からないのですか、誰もが天国に行くようになっているのです、この世でも天国、あの世でも天国になって目出たいのです、地獄を説く宗教は亡びるのです、地獄と思う者は地獄を作って地獄に住むのです、地獄が激しくなるのです、人間の力だけではこれからは何も出来ないのです、アカの世からキの世になるのです、世は七度の大変わりだと知らせてあるでしょう、次の世はキの世です、口を静かにしてください、なぜ喜びを受けないのですか、宗教は無くなってしまうのです、誠が光るのです、光の誠の宗教が生まれるのです、その時は宗教ではないのです、心得てください、柏手とカシワデと二つあるのです、拍手は誓いとチカイのしるし、手をさするのは願いのしるしです、外が悪くて中が良いという事は無いのです、外も中も同じ性を持っているのです、時節が来ているのですから、このままにしておいても出来るのですが、それでは人民が可哀そうになるのでくどく申しているのです、三千年の花が咲くのです、結構な花が咲くのです、三年、その後三年です、次の三年は目出度目出度です、光の神示を裏の裏まで読んで見てください、良く解ってビシビシとその通りになっているでしょう、この方に念じてやってください、この火(ほう)はこの水(ほう)です、この火ばかりと思わないでください、火と水(ヒトミ)なのです、善き火(ホー)に廻してやるのです、良き水(ホー)の御用にも廻してやるのです、しくじりも人間にはあるのです、しくじったらやり直してください、しくじりは火と水の違いです、この事は良く心得て行ってください、しくじりがしくじりでなくなるのです、何事も思案投首が一番罪深いのです、皆それぞれに喜びが与えられているのです、どうして不足を申すのですか、二二の盗み合い、世の乱れ、心して怪しいと思う事は、たとえ神の言葉と申しても一応は考えてください、神の言葉でも裏表の見境なくただ信じてはならないのです、サニワしてください、薬が毒となる事があると申してあるでしょう、馬鹿正直では誠の道を見失う事があると申してあるでしょう、道は易し楽しです、楽しくないのは道ではないのです、奉仕ではないのです、世界に呼びかける前に日本に呼びかけてください、目を醒まさなければならないのです、それが順序と申すものです、神示で知らせてあるでしょう、ここは種を作る所です、種は人民では作れないのです、神の申すように神の息吹きをいただいてください、天の道、地の道、天地の道があるのです、人の道があるのです、何も彼も道があるのです、道に外れたものは外道です、道は一筋です、二筋です、三筋です、曲っているのです、真っ直ぐであるのです、心得てください、節分からはオーヒツキオーカミと現われるのです、讃え祀ってください、三年の大暮れです、ビョー様、ビョー様、早い改心は結構です、道を知るだけでは何にもならないのです、道を味わって歩んでください、大神の道には正邪は無いのです、善悪は無いのです、人の世にうつって正と見え邪と見えるのです、人の道にうつる時は曇っただけのレンズを通すのです、レンズを通してもの見ると逆に見えるのです、神に善と悪があるように人の心には見えるのです、レンズを外してください、レンズを外すとは神示を読む事です、無き地獄を人が生むのです、罪であり曲がりなのです、今までは影の守護であったのが岩戸を開いて表の守護となり、裏表揃った守護になったら、誠の守護です、悪も善ももう隠れる所が無くなるのです、人民はそれぞれに用意してください、自分を出したら集団(まどい)が壊れて力が出ないのです、早く集団を作って的(まと)としてください、的とは光の射し入る所です、的として月に一度出してください、自分の小さい事を知る者は神の国に近づいたのです、神の道に進むために罵られることは人民の喜びです、その喜びを越えて神の喜びに入れば罵られる事は無いのです、神を敬うのはまだまだです、早く悟って神に融け入るのです、神国、神の宮を早く作ってください、今度ここに神が引き寄せた者は皆キリスト、釈迦であると申してあるでしょう、磨けば今までの教祖にもなれるミタマばかりなのです、それだけに罪深いのです、岩戸を開けて、メグリを清算したいのです、この事は肚から良く分かるでしょう、世界平等に胸の掃除からハラの掃除です、理智が誠の愛です、悪も神の御子です、絶対の責任は神、相対の責任は人民です、親よりも師よりも神を愛してください、その親や師は神から更に愛されるのです、オークニトコタチの神様がオースサナルの神様です、お父様がヒの大神様、お母様がツキの大神様です、奥山から出たものは奥山に帰り、また奥山から更に弥栄えとなって出るのです、大切なものは皆与えてあるのです、人民はただそれをどんなにするかで良いように楽にしてあるのです、誠に求めるならば神は何でも与えるのです、与えているではないですか、御用は神示を見ないと分からない道理が分からないのですか、誰にも分からない事を知らせて型を出して見せてあるのです、集団(まどい)は天国の組織同様にしてください、横にはウクスツヌフムユルウの十柱、縦にはアイウエオの五柱、結構なのです、横だけでも片輪、縦だけでも片輪、この方は見えないアであるのです、顕われは神示です、良く相談し合って結構に行ってください、弥栄えるのです、秘文(ひふみ)を読めば分かるのです、神業に奉仕すれば自らメグリが取れるのです、メグリの無い者はこの世には一人もいないのです、心次第で皆救われるのです、悪には悪の道があり、悪の道を知らない善の神では、悪を抱き参らす事は出来ないのです、因縁があっても曇りがひどいと御用は難しいのです、この世の人民の悪は幽界にうつり、幽界の悪がこの世にうつるのです、見渡せば見事に咲きたり天狗の鼻の、二人でせよと申してある事は裏表合わせて一つです、二人で一人でしなければなりません、統一ない所に力は生れないのです、人民の奉仕は神への奉仕です、生活は奉仕から生まれるのです、世界は大きな田畠、それ蒔けそれ蒔け種を蒔け、どうにもこうにも手がつけられないのです、この世は浮島で人民の心も浮島です、油断は禁物です、ひふみの食べ方を心得たら、今度は気分をゆるやかにして嬉し嬉しで食べてください、天国の食べ方です、一切は自分のものと申してあるでしょう、上も下も右も左も皆自分のものです、自分です、そこに誠の愛が生まれるのです

考察➡この世はどんな努力をしても出来ない事があります、この世で生き続ける事が出来ないようになっています、この世に産まれた人は必ずこの世を去るのです、その原因はこの世は汚れてしまったので、もはや長生きする事が出来ない、汚れてしまうという世界です、ピカピカのものが汚れて行くのです、新車を購入しても10年もすれば誰が見ても中古車となります、諸行無常の世界だと言われます、すべてのものは変化して行くのです、仏教ではそうなっています、未来永劫に変化しないものは無いとなっていますが、それでは永遠の生命は意味が無くなります、神様の愛は永遠に変化しないという信仰が無ければ命は終わってしまいます、諸行無常には一理ありますがすべては変化してしまうとなれば神様の愛も変化して失せてしまうかも知れません、この世は諸行無常であって天地を創造された神の愛は無常を超えているとなります、だから仏教を超えて神様の永遠の愛の世界に入らないと消されてしまいます、消えない信仰がイエス様を信じて最後まで耐え忍ぶとなります

㉕日月神示 黄金の巻①

元の元の元の神は何もかも終っているのです、終わりなく始めなく弥栄えているのです、友を作ってください、友を作る事は自分を作る事です、広める事です、自分を友の心の中に入れる事です、皆自分の目的をたてに来ているのです、それでは思惑は立たないのです、御光が愛です、真です、愛はマです、真は言です、これを誠と言うのです、誠は生きているのです、三千世界の生命です、和してください、和はむすびです、何もかも生まれるのです、息するのです、自分で勝手な事をしておいて親神様を怨んでいるのです、この巻からは人民の道しるべであります、近い事から知らせるのです、この神示が出たならすぐに血としておいて下さい、そなたの為なのです、そなたの為は人の為、世の為、三千世界の為でもあるのです、この巻は黄金の巻です、心の目を開いてください、日本が日本がとまだ小さい島国日本に捉(とら)われているのです、世界の日本だと口で申しているのですが囚われているのです、生き返る者は八分です、八分の中の八分は又生き返るのです、生き返っても日本に捉われるのです、おわり(尾張)の仕組みはみのおはり(身の終わり、美濃尾張)、骨無し日本をまだ日本だと思って目が覚めないのです、九十九十(コトコト)と申してカラスになっているのです、古い事ばかり守っているのです、古い事が新しい事と思っているのですが、新しい事が古いのです、取り違いしないでください、神は生命です、秩序です、秩序は法則です、為してください、行じてください、考えてください、考えたら良いのです、為すには先づ求めてください、神を求めてください、自分に求めてください、求めて理解した後に為してください、為して顧みてください、神の命はそこに弥栄えるのです、今までの日本の宗教は日本だけの宗教なのです、この度は世界の元の三千世界の大道なのです、教えではないのです、八分の二分は誠の日本人です、日本人とは世界の民の事です、一度日本を捨ててください、捨てると日本が掴めるのです、日本を掴む事は三千世界を掴む事です、悪の大将もその事を良く知っていて天地がデングリ返るのです、物の食べ方に気をつけてください、皆の者は物ばかり食べているのです、二分の人民は結構に生きて下さい、喜びは神なのです、神は神の中に宇宙を生んだのです、善の祈りには善、悪の祈りには悪、祈りの通りに何もかも出て来る事がまだ分からないのですか、時節には時節の事だと申してあるでしょう、これだけ世界に荒事(あらごと)をさせて見せて、神示通りに出て来ても、まだ目が覚めないのですか、まだまだ改心は難しいのです、悔い改めてください、顧みてください、恥じ畏れてください、慎んでください、その日その時から良くなるのです、人間には神は知れないものです、神のはたらきのみやっと知れるのです、神の能(ハタラ)きは千変万化、能(ハタラ)きを見て神そのものと思うのは人間心です、この神示は針の穴ほども違わないのです、書かせた事はそのまま出て来るのです、神は人となりたいのです、人は神となりたいのです、霊は形を形は霊を求めているのです、人は神のいれもの、神は人の生命です、ものを生む始めは女です、目的をたてるとスコタンです、種から生えたものは渋柿です、接木(つぎき)をしなければ甘柿とはならないのです、己のためにする事は人のためにする事です、思いは力、実在です、天地が混ぜこぜになったら、まだまだなるのです、どれもこれも何が何だか分からない事になるのです、早く神示を肚に入れておいてください、己に逆う事は神に逆う事です、己を拝む事は神を拝む事です、キリキリ舞が目の前です、今はまだなるようにしていてください、悪い事を通して良くなる仕組みです、良く心得てください、神体や神殿が神では無いのです、神でもあるのです、取り違いは禁物です、鼻高にはとても困るのです、他の教会は病を治して一人でも多く信者を集めて立派に教会を作ればそれで良いようにしていますが、この道はそんな所でまごまごさせてはおけないのです、高く光るのです、遠くから拝むようになるのです、一切の未来も一切の過去もすべてが現在です、中今です、この事を分かることが善です、神は総てを知っているのです、現在は永遠です、どこからともなく感じて来るものを尊んでください、取り次ぎ役員は信者より曇りがひどいのです、外にあるものは内にあるのです、この神示に縁ある者には天使の働き位の事がすぐに分かるミタマを授けてあるのに今の姿は何事ですか、ボタンを押してください、燈台元に来て明るくなると思うのは思い違いなのです、元に来て自分が灯りとなってください、光となってください、もう化けてはいれないのです、化けの世は終わったのですから人民はウソを行ってはならないのです、嘘を見分ける鏡を与えてあるのです、早く改心してください、仏教の取り次ぎ、キリスト教の取り次ぎ、天理、金光、大本教の取り次ぎさんは早い改心が良いのです、アラーの取り次ぎさんも道教の取り次ぎさんも同様なのです、人間はいつも造られつつあるものなのです、これでもう良いと言う事は無いのです、ゴッドも仏も神も皆その通りです、世の中も、大千世界もまた同様です、造られつつあるのです、愛と言うのも真と言うのも皆方便です、何れも誠の現われであるのです、方便の世は終わってハウベンの世となるのです、そのハウベンの世も終わって誠の世となるのです、善悪無い世となるのです、分かりましたか、今度の岩戸開きは神と人との九十運動です、建て替えの守護が大切です、先づ一筋の天地の道から変えるのです、次に人の道を作るのです、経(たて)と緯(よこ)を作るのです、人の道と天地の道とを間違えているのです、人の道は花が色々と咲き乱れ、織り交ぜて楽し楽しのそれぞれなのです、自分で自分の事をしているのですが、またさせられているのです、大きな自分に融け入ったとしても小さい自分が無くなってしまうのでは無いのです、神人、天地だと申してあるでしょう、善も仮です、悪も仮です、良く心得てください、守護神守護神と申していますが、魂の守護神は肉体です、肉体の守護神は魂です、くるくる廻ってまた始めからです、前の始めと始めが違うのです、皆が相談し合って良きに弥栄えるのです、為さねば後悔するのです、始めからの神示を読めば分かるように示してあるのです、神示を読まないから迷うのです、神は人民の気を引くのです、神示を読んでください、読むと神示が出るのです、神示は少しも違わないのです、違うと思う事があれば己の心を顧みてください、その心が曇っているのです、めぐりあるだけ神がうらめしくなるのです、めぐりが無くなれば神が有難いのです、人間がいなくて神ばかりではこの世の事は出来はしないのです、神が人間になって働くのです、分かりましたか、新しい神国が生れるまではメグリばかりがうようよして昔のした事ばかり恋しがっているのですが、そんな事は何時までも続かないのです、三年苦しみ五年もがき、七年でやっと気の付く人民が多いのです、皆で仲良く相談し合って力を合わせて進んでください、弥栄えるのです、二つに別れるのです、三つに別れるのです、別れて元に納まる仕組みなのです、結構結構です、理解大切、理解結構です、これからは思考しなければ何も出来ないのです、拝み合う事は理解し合う事です、手を合わせて拝むばかりでは何も分からないのです、なぜ心の手を合わせないのですか、心の手とは左行く心の手と右行く心の手と和す事です、悟事です、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて得た事は楽に得た事なのです、その楽に得た事だけが自分の身につくのです、血となり肉となるのです、印は⦿と申してあるでしょう、なかなか⦿になるのは出来ないのです、為して為して為せば成る時です、為さねば後悔するのです、元を立ててください、人から見てあれならばと言う様になればこの方の光が出るのです、行が出来なければお出直しです、お出直しが多いのです、独断は役には立たないのです、岩戸開きの九分九厘でひっくり返り、また九分九厘でひっくり返るのです、天明九十六才七ヵ月のかのととりで開くのです、羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)吹いている人民は欲を捨てると分かって来るのです、誠の欲深になってください、イロハの勉強とは日々の生活を神示に合わせる事です、この中から神示通りの型を出してください、出さなければならないのです、分かった人ほど口が静かになるのです、天狗が出て来ても三日天下です、三日天下も御役です、御役も御苦労な事です、良ければ立ち寄り、悪くなれば立ち去る様な人民は早く退いて見物していてください、日和見ばかりしていると気の毒になるのです、神に使われるには一通りや二通りの苦労では出来ないのです、宗教によるものだけが天国に行くと考える者、自分の教会だけが天国に通じると思う者、すべて悪の眷族ばかりです、迷わないでください、迷うのは欲からです、体験と理解のみが財産です、神示が肚に入ったら、もうそれで良いのです、去って花を咲かせてください、神示が肚に入るまでは去ってはならないのです、しっかりと心得てください、神を拝しても筋が違うと水の泡です、まだ迷っていますが、それでは仕組みは成就しないのです、褌を締めて一本道の真心が結構なのです、金がよければ金を拝んでください、人がよければ人を拝んでください、神がよければ神を拝んでください、祈れば祈るほど悪くなる事があるのです、この道は結構な道と分からないのですか、心をしっかりして迷わないでください、天国の門は貧者富者の区別は無いのです、区別する境界は作らないでください、世界中を一度に揺すぶると申してあるでしょう、ボタン一つで世界がでんぐり返ると申してあることが未だ分からないのですか、神罰は無いのです、道は一つ二つでは無く無数なのです、ただし内容は一つなのです、新しき道を拓いてあるのになぜその道を進まないのですか、下腹からの怒りは怒ってください、胸からの怒りは怒らないでください、昔から無かった事をするのですから、取り違いするのはもっともな事ですが、選り分けるミタマを授けてあるのです、高い天狗の鼻を曲げて自分の臭いを嗅いでみてください、鼻もちならないのです、今までの世界とは少しも交わらない新しい世になるのですから守護神殿にも分からない事をするのです、世界の民が皆一度に改心するようにどん詰りにはなるのです、それまでに一人でも多く、一時も早く改心させたいのです、気をゆるめたら肉体がゆるむのです、後戻りばかりとなるのです、霊人と語るのは危ないです、気をつけてください、人は人と語ってください、自分の行が出来ていないと人の悪口を言うのです、自分の心は日々夜々改めなければなりません、心とは身と心の事です、元の生き神が直接、直々の守護をする時が来たのです、気をつけておくのです、国国所々、村村、家家、すべてどんな事でもめぐりだけの借銭清算をしてください、大峠なのです、早合点しないでください、小さい入れ物では間に合わないのです、動かぬ富士の仕組みの鳴門の仕組み、ことだま、かずたま、ひふみ、いろたま、いろは

考察➡日月神示を世界に広めなさいという示しがあります、日月神示を転写して広める事は良い事です、何かの御用をするとすれば日月神示を転写する事ですね、自分の意見では無く、日月神示をただ写すだけです、写して公開すれば誰かが見てくれます、七人に伝えなさいとあります、一人の人が七人に伝えて、さらに七人に伝えると四十九人に伝わります、神様が嫌うのは懐手です、何もしないでいると時間だけが過ぎて終りが来ます、神様のお手伝いが出来たかどうかは神様が決めるのですが、何もしないでいると天使という役にはなりません、神様の言葉を伝えるだけでも天使です、皆さんもいろいろと真理は知っていると思います、自分の知識を広めて自分が偉そうにするのは天使ではありません、先生にはならないようにイエス様も申しています、先生の言葉を伝えるのが天使となります、唯一の先生はイエスキリストです、他の人は謙虚になって先生の言葉を伝えるだけで使徒や天使になります、聖書のパウロのように自分の福音を伝えて人を天国に入らせない、地獄の子にするのだとイエス様の言葉を聞けば分かります、パウロを先生にして福音を伝える教会では天国には行けないのです、お釈迦様は慈悲、イエス様があわれみではありませんか、あわれみの心が天国の心です、あわれみの無い人が天国に入れないのは真理の真理です、知恵や学問では無くて、あわれみが天国の心なのです、知恵を食べるとあわれみが消えて死ぬのですね