イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

⦿疑問点➡気前の良い神様

⦿考察➡仕事を求めて広場に来ている人にブドウ畑に行って仕事をしなさいと神様は言っています、朝から丸一日仕事した人にも夕方から仕事した人にも神様の賃金は一デナリでした、八時間仕事した人も一時間仕事した人も同じ賃金です、多く仕事した人は損をしたように思います、少しだけ仕事しても自分と同じ賃金なら不平不満が出るのは人らしいです、一時間だけ仕事して一デナリなら自分は八デナリくらいはもらえるだろうと計算します、今の時代でも時給で賃金が決まる場合もありますので、イエス様のたとえ話は良く分かる内容です、神様は気前が良いとなっています、ただし少しだけ条件があるように感じます、ブドウ畑に行くことと、少しでも仕事をすることです、ブドウ畑に行かない人にも賃金が支払われるという話にはなっていません、ある程度神様の言う通りにする、神様に従うと言う「法則」はあります、ほとんどの人は神様の言う通りにはしていません、イエス様の言葉も分からないと言います、イエス様は自分に何をしなさいと言っているのか良く分からないと言う人が多いのです、現実にイエス様の声は聞こえないのですから、2000年前のイエス様の言葉を基本にするしかありません、イエス様の福音を福音として咀嚼することが自分の栄養です、イエス様は天からのマナ(食料)です、イエス様は命(いのち)です、イエス様を食べなさい、言葉は命ですから、イエス様の言葉を毎日食べれば生きて行けるということになります、たまに聞くとかまとめて聞くとか申している人がいますが、それで主は喜ばれるでしょうか、自分の都合が優先してイエス様の福音は時間のある時に聞く、イエス様の教えはそのようになっていません、親の葬式に出るより、家族に別れを告げるより優先なのです、この世で一番大事なことよりイエス様を優先しなさいと申しているのです、地球全体が息苦しくなって来ています、地球人が地球で暮らすのが快適でない、ノアの時の洪水では人々は死に絶えました、必死で船に乗らないからです、今回は空中携挙です、どうすればイエス様に引き上げてもらえるか、必死で考えている人はいないのです、ノアは神様の言う通りに忠実に船を造ったとお伝えしても、イエス様の言う通りに忠実に行える人は見当たりません、マスコミの話や情報は全部ウソです、救われる話なんてしません、イエス様を必死で信じなさいなどと伝える人はいないのです、今回だけは必死にならないと危ないのです、自分の命のラストチャンスでラストピンチなのです、ピンチをチャンスに変えるにはどうするか、必死な人にしか答えは来ません、親の葬式より家族との別れよりイエス様に従って行くのが優先だと命をかけて教えたのがイエス様なのです、自分は毎日いいかげんですが、イエス様の言葉は命がけであります、イエス様に耳も傾けない人に言葉は聞こえません、イエス様の声が聞こえるようにいつもイエス様に耳を傾けることです。

日月神示 秋の巻

同じ神の子でも本家と分家とあるのです、本家は人間です、分家は動植物です、本家と分家は神の前では同じですが位置を変えると同じではないのです、三十年で世の立て替えを行うのです、これからは一日増しに世界から出て来ますから、いかに強情な人民でも往生するのです、神は喜びですから、人の心から悪を取り除かなければ神に通じないのですと教えていますが、それは段階の低い教えなのです、大道ではないのです、理屈の作り出した神なのです、大神様は大歓喜でありますから悪をも抱き参らせているのです、抱き参らす人の心に、誠の不動の天国が来るのです、抱き参らせれば悪は悪ではないと申してあるでしょう、今までの教えは今までの教えです、人民を土で造ったと申すと、すべてを土でこねてつくり上げたものと思うから神と人民とに分れて他人行儀になるのです、神の喜びで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさせているのです、取り違いしないように致してください、親と子と申してあるでしょう、木の股や土から生れたのでは誠の親子ではないのです、世界の九分九分九厘です、あり得ないような引くことも押すことも出来ない事がいよいよ近くなったのです、外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見、内は外を悪として考えるのですが、それは善と悪ではないのです、内と外であるのです、外には外の喜び、内には内の喜びがあるのです、二つが和して一となるのです、一が始めです、元です、和して動き、動いて和してください、悪を悪と見るのが悪です、霊界での現われは同じであっても、現実界に現われる時は違うことがあるのです、それはモノが異なるからです、二二はもとのキです、ナルトとはその現われのはたらきです、道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったものです、本質的には生れ出た神の息吹きによらなければなりません、神も世界も人民も何れも生長しつつあるのです、何時までも同じであってはならないのです、三千年で一区切りです、今迄の考え方を変えてください、道徳を向上させ倫理を新しくして法律を少なくしてください、何れも一段づつ上げなければなりません、今迄のやり方が間違っていたこと分かったでしょう、一足飛びには行かないですが一歩一歩上って行かなければなりません、だからと言って土台を捨ててはなりません、土台の上に建物を建てるのです、空中楼閣は見ていられないのです、臍(へそ)の緒はつながっているのですから、一段奥の臍に臍にと進んで行けば、そこに新しい広い世界が大きくひらけるのです、自分を無くするのではなく高く深くするのです、無我ではないのです、分かりましたか、海の底には金はいくらでもあるのです、幽界と霊線をつなぐと自己愛となり天国と霊線をつなげば真愛と現われるのです、喜びも二つあるのです、三つあるのです、大歓喜は一つですが、次の段階では二つとなるのです、他を愛するのは真愛です、己のみを愛するのは自己愛です、自己愛を排してはなりません、自己愛を広げて大きくして真愛と合致させなければなりません、そこに新しき理(ミチ)がひらけるのです、自己愛を悪魔と説くのは悪魔です、無き悪魔をつくり生み出してはなりません、一段昇らなければ分かりません、公のことに働くことが己のために働くことです、大の動きをなすために小の動きをなし、小の動きをなすために個の動きをなすのです、・に・があり、また・があると申しているのです、何事も喜びからです、結果からまた喜びが生れるのです、この道理が分かれば何事もありやかです、ミロクの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、独自のものとなるのですが、皆それぞれの国は一つの臍で、大きな一つの臍につながっているのです、地上天国は一国であり、一家ですが、それぞれの自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるのです、一色に塗りつぶすような一家となると思っていますが、人間の浅はかな考え方です、考え違いです、この根本を直さなければなりません、霊界の通りになるのです、外の喜びはその喜びによって悪を増し、内の喜びはその喜びによって善を増すのですが誠の喜びは外と内とが一つになり、二つになり、三つになった喜びとならなければ弥栄えないのです、親と子は、生むと生まれるとの相違が出来て来るのです、また上の子と下の子と、左の子と右の子とは違うのです、違えばこそ存在するのです、神に従ってください、理屈を言わないで従ってください、地獄はないと申してあるでしょう、人は神の喜びの子と申してあるでしょう、人の本性は神なのです、神なればこそ天国へ自づから行くのです、住むのです、人民はうそが上手になったから中々油断出来ないのです、下々の神様も、うそが上手になったものです、善である悪であると申していますが、人民の善はそのまま霊人の善ではないのです、そのまま霊人の悪ではないのです、心してください、グッと締めたり、ゆるめたりして呼吸しなければなりません、そこに政治の動きがあるのです、経済の根本があるのです、逆にしめる事もあるのです、善と申し悪の御用と申すことの動きがそこから出るのです、じっとしていてはならないのです、ジッとしている善は善ではないのです、どんなに世界のため、人類のためだと申しても、その心に我が強いから、一方しか見えないので世界のためにならないのです、人類のためにならないのです、洗濯してさらに洗濯してください、自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与えても無くならないのです、与えて与えてください、与えて無くなるものは自分のものではないと申してあるでしょう、無くなると思うのは形のみ見ているからです、カラのみ見るからです、本質は無限に拡がるのです、与えるほどよりよく、神から与えられるのです、井戸の水のようなものです、汲めば汲むほど良くなる仕組みです、統一ということは赤とか白とかの一色にすることではないのです、赤もあれば黄もあり青もあるのです、それぞれのものは皆それぞれであって一点の・でくくる所に統一があるのです、くくると申してしばるのではないのです、磁石が北に向くように総てが一点に向かうことです、これを公平と申し、平等と申すのです、悪平等は悪平等です、一色であってはならないのです、下が上に、上が下にと申してありますが、一度で治まるのではないのです、幾度も幾度も上下にひっくりかえり、またひっくりかえりビックリとなるのです、ビックリこねまわしなのです、神示が一度で分かる人民にはミタマ鎮めやカミ鎮めやカミカカリは要らないのです、分からないからやらせているのです、やらせなければ分からないですし、やらせると脇道に落ちるし、いやはや困ったものです、人民は神の臍とつながっているのです、臍の緒さえつながっていればよく、神人であるのです、・と・とつながって、さらに大きな・につながっているからこそ動きがあり、それぞれのハタラキがあり、使命を果たし得るのです、同じであって全部が合一しては力が出ないのです、早く心を入れ替えてくださいと申していますが、心とは外の心です、心の中の中の中の心の中には・が植え付けてあるのですが、外が真っ暗です、今迄のやり方では行けないことは分かっているでしょう、要らないものは早く捨ててください、直々の大神様は二(ツキ)の大神様です、中今(ナカイマ)と申すことは・今と申すことです、・は無です、動き無き動きです、よくわきまえてください、今までのやり方を変えてください、一段も二段も三段も上の広い深い、ゆとりのあるやり方、神のやり方、規則の無い世に、考え方やり方を変えるのが結構なのです、科学に・を入れると宗教となるのです、・は数です、カネは掘り出せないのです、生み出してください、和が根本であり和がよろこびです、和すには神を通じて和すのです、神を通さずに、神を無くして通じるのが悪和合です、神から分かれたのですから神に帰って、神の心に戻って和さなければならない道理です、神なくして和はないのです、世界平和と申していますが、神にかえって神に通じなければ和平は無く、よろこびは無いのです、十二の玉を十まで生んで後二つ残してあるのです、神に融け入ってください、次元が違い、戒律が出来るから分からないのです、解け入るのです、どうしても大戦(いくさ)となります、人の殺し合いばかりではないと知らせてあるでしょう、ビックリがあるのです、神が主で人民が従なのです、人民が主となっているので世が乱れているのです、結果があって原因があるのでは無いのです、今の人民は結構になり過ぎて天地の御恩を忘れているのです、いよいよとなったら泣面しなければならないと分かっているのでくどく気を付けているのです、誠のことはトリの年です、上から見ると皆人民です、下から見ると皆神です、分かったと思っているでしょうが神の仕組みは学や金銀を積んでもチョットやソットで分かるはずは無いのです、今までの三千年のやり方が違っていたと気づくならば、気づいて神示を読むならば、一切のことがありやかになるのです、肝心なことです、ウはムであり、ウとは現実界、ムとは霊界であるのです、ウもムも同じであるのです、ムからウが生まれて来ると申してあることを良く心得てください、神の仕組みは狂い無いのですが、人民が理解しないとそれだけこの世の歩みが遅れるのです、この世は人民と手を引きあってやらなければならないのです、千人万人なら一人づつ手を引いてやってもやりやすいのですが、世界の人民、動物虫けらまでも助ける仕組みなのですから、人民が早く改心しなければ、いよいよ気の毒なことが起きて苦しみが長くなるのです、中は無であり外は有であるのです、中になるほど無の無となるのです、同じことを繰り返すと人民は申していますが、まだ納得してはいないので肝心なことをくどく申しているのです、人民はそれぞれのミタマによって役目が違うのです、手は手、足は足の役目と申してあるでしょう、何もかも混ぜこぜにやるから結びつかないのです、型にはまることをカタマルと申すのです、こり固まっては動きはとれません、固まらなければ型は出来ないし、人民には理解出来ないですが、型を外して型を作らなければならないのです、法律は作らなければならないのですが、作ってはならないのです、神から命令されたミタマでも油断は出来ないのです、曇ったらすぐに代りのミタマと入れ替えるのです、コリ固まったものがケガレです、ケガレは祓わなければなりません、絶えず祓って祓って祓いながら、また固まらなければなりませんし、人民には理解出来ないのですが、肉体あるから固まらなければならないし、常に祓わなければならないのです、総てをこんなものだと決めつけてはならないのです、・が枯れることをケガレと申すのです、神界の立て替えばかりでは立て替え出来なにのです、人民界の立て替えはなかなか難しいのです、霊は物に付くと申してあるでしょう、お祓いする時は物につけて物と共にしてください、共に祓ってください、これほど誠を申しても残る一厘はいよいよのギリギリでないと申さないので、疑うのも無理のないことですが、見ていてください、神の仕組みは見事に成就させるのです、一厘のことは告げられないのです、申したら仕組みは成就しないのです、知らせないので改心は遅れるのです、心の心で受け取ってください、肉体は霊の衣と申してあるでしょう、衣が霊を自由にしてはならないのです、衣には衣の約束があるのです、衣だからと言って粗末してはならないのです、どちらも神の現われであるのです、内には内の内があり、外には外の外があるのです、人をほめることは自分をほめることです、人を褒めてください、この巻は秋の巻です

 

●疑問点➡罪を許してもらえるか

●考察➡イエス様を信じることを連日書いています、イエス様を信じるとは自分の判断ではなく、イエス様の判断に任せることだと結論しています、イエス様にすべての判断を任せると自分の善悪の知恵は消えるのです、アダムとエバが犯した最初の罪が消えるのです、生命の木つまりイエス様を食べると善悪の知恵の木を食べることは出来ませんから生命の木であるイエス様だけを食べるので永遠に生きるということです、このことが理解出来るか出来ないかでその人の運命は決まります、イエス様を信じて善悪の判断はイエス様に任せる、自分で善悪の判断はしない、自分の中の善悪判断はイエス様にゆだねて生きる、ずっと生きる、永遠に生きるとなります、イエス様の言う通りに生きることになります、他の神様ではありません、あくまでイエス様です、日月神示のてんし様を日本の天皇陛下にしている方もいますが、聖書ではあり得ないことです、聖書を理解するならイエス様を食べて、自分の善悪はもうやめることです、良いことが起きるか悪いことが起きるかイエス様に任せてください、あらゆる権威を持っているのはイエス様なのです、聖書を超えているのはイエス様だけなのです、イエス様の判断ですべてが決まる、だからイエス様を信じていればそれでいいのです、クリスチャンはダメですよ、イエス様が身代わりになって十字架で自分の罪を背負ってくれたという信仰では救われないのです、イエス様の判断で決まるのです、その人を救うか救わないかイエス様の判断なのです、イエス様の審判無しでは何も決まらないのです、あなたの罪は許されたと言われない限り、あなたの罪はそのままです、イエス様の言葉が無い限りそのままです、誰もがイエス様の判断、審判待ちなのです、本日の内容が理解出来た方はもう自分の善悪はやめることです、イエス様にすべての判断を任せることです、それが信仰です、イエス様信仰です、全能神イエス様ですよ。

日月神示 夏の巻

与えられたもの、そのものを喜ぶようにすれば楽に行けるように暮し向きも楽し楽しで暮せるようになっているのです、あり余る程与えてあるではありませんか、生かして使ってください、なぜ生活にあくせくするのですか、与えてあるものを殺すから自分も死の苦しみをするのです、有限でなければモノは顕われないのです、モノに顕わすと有限となるのです、すべてに感謝してください、総てのものに、それ相当の意義があるのです、全体的には喜ばなければなりません、愛をもって接しなければなりません、信仰をおかなければなりません、だからと申して局部局部においては、それぞれ、その時に応じて処理しなければなりません、ただしその場合はゆとりをもって処理してください、綱を長くしておかなければなりません、・が喜びです、また・の・はムでもあるのです、内から外に向って行くのが⦿のやり方、外から内に向って行くのが、外国(幽界)のやり方です、〇から・に行くのは誠が逆ですから、誠のことは分からないのです、外から行く宗教や哲学や科学が元を分からなくしているのです、元が分からなければ生きのイノチが分かるはずはないのです、今の世は逆様です、先祖から正してください、原因から正して行かなければならないのです、⦿から出て・にかえり、無限より出て有限に形して、有限から無限にかえり、また有限に動くのが誠のやり方です、誠の理解者には甘露の水なのです、人間は神と共に自分自身で生長して行かなければなりません、人間から見れば全智全能の神があるのです、このことをよく分かってください、誠の理解と迷信とが別れる大切なことです、何神様とハッキリ目標つけて拝んでください、ただぼんやり神様と言っただけではなりません、大神は一柱ではありますが、現われの神は無限であるのです、根本の大日月大神様と念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願い申してください、信じ合うものがあれば、病気もまた楽しく、貧苦もまた楽しいのです、例外と申すものはないのです、他の世界、他の天体、他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのです、心大きく目を開いてください、「なりなる」と申してあるでしょう、なると申すのは内分は同じで、形の変ることです、ウムとナルとは同じであって同じではないのです、本当にモノを見、聞き、味わい、消化して行かなければなりません、地の上にあるもの、人間のすること、その総ては霊界で同じことになっているのです、先づ霊の世界の動きが大切です、霊の食物、霊の生活を求める人民は少ないです、それでは片輪車でいつまでたってもトンテントンテンなのです、そのものを見てそのものに接して下肚がグッと力こもって来るものは良いもの、本物であるのです、キは総てのものに流れ込むものです、信仰は理智的にも求められるのです、完き情であるのです、真理を理解するのが早道であり確信となるのです、神も人間も同じです、同じではあるが違うのです、それは大神の中に神を生み、神の中に人民を生んだためです、自分の中に新しく自分を生むときは、自分と同じカタのものを生むのです、大神弥栄えなれば、神も弥栄え、神が弥栄えなれば人民弥栄えなのです、困るとか苦しいとか貧しいとか悲しいとかという事はないのです、理(ミチ)を踏めと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれと申すことです、人民がいくら頑張っても神の外には出られないのです、神がいくら頑張っても大神の外には出られないのです、見えるものから来る幸福には限りがあるが、見えないものから来る幸福は無限です、尽きない喜びは常に神からです、ウムと申すことは自分をよりよく生長させること、一つ生めば自分は一段と上に昇るのです、この道理は分かるでしょう、産むことによって、自分が平面から立体になるのです、毎日一生懸命に掃除していても、どこかにホコリが残るものです、まして掃除しない心にホコリが積もっていること位は誰にでも分かるでしょう、神示で掃除してください、大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、霊的大病は知らん顔でよいのですか、信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らないのです、奇跡的に治るとみるのは間違い、迷信です、時間もかかり手数もかかるのです、物も金もかかるのです、大きな努力がいるのです、取り違いが多いのです、過去も未来も中今(ナカイマ)です、神も人間と同じで、弥栄えして行くのです、悪い癖は直さなければいつ何時まで経っても自分に迫って来るものは変わらないのです、お陰が無いと不足申しているのですが、悪い癖、悪い内分を変えなければ百年祈り続けてもお陰は無いのです、理屈なしに子は親を信じるのです、その心で神に対してください、神が親となるのです、目と口から出るもの、目の光りと声とは、実在界にも実力を持っているのです、力は体験を通して出るのです、カタは形を持たなければなりません、念は語ることによって現われるのです、・が無(む)なればなる程〇は有となるのです、このことは良く分かってください、肚の中のゴモクを捨てると良く分かるのです、キが元と申してあるのです、人民は総てのもののキを頂いて成長しているのです、キを頂いてください、横には社会のキを、縦には神の気を頂き、悪いキを吐き出してください、よい気を養ってください、気を見分ける鏡を与えてあるではないですか、道が分からないなら人に聞くでしょう、分からないのに分かった顔をして歩き廻ってはならないのです、人に聞いてください、これと信ずる人に聞いてください、天地に聞いてください、神示に聞いてくださいウとムは相互いに相反するのですが、これが一つになって動くのです、ウム組み組みてと申してあるでしょう、今の人民の知恵では中々解けないのです、ウの中心はム、ムの廻りはウです、中心は無限、周辺は有限であること知ってください、上に立つ人ほど働かねばならないのです、働いても力は減らないのです、働くにはキを頂かねばならないのです、キから力が生まれるのです、働くと申しても動くばかりではないのです、動かないことも働き、動くのも働きですから良く心得てください、よせては返しよせては返し生きているのです、始めの始めと始めが違うのです、後になるほど良くなるのです、終りの中に始めがあるのです、祈り、考え、働きの三つが揃わなければなりません、生めば生むほど自分が新しくなり成り、大きくなるのです、人間は大神の渦の御子ですから親の持っている、新しき古きものがそのままカタとして現われ出て、弥栄えている道理です、人間の総てに迫り来るもの総てが喜びとなるように努力してください、物を喜ばせれば物は自分の喜びとなって自分となるのです、心の世界は無限に拡がり生長するのです、神に融け入って宇宙大に拡がるのです、神と共に大きくなればなるほど喜びが大きくなるのです、一神説いて多神説かないのもカタワ多神説いて一神説かないのもカタワです、一神則多神則汎神であるという事実を説いて聞かせてください、人民は神の入れものであると申してあるでしょう、神の・と人間の・と通じて居ればこそ呼吸するのです、・と・と通じて居ればそれで良いのです、神の・と人民の・と通じて居るならば、神の〇と人民の〇と同じようにしておかなければならないと申すのは、人間の誤りやすい、いつも間違いを起す元なのです、神の〇と人間の〇と同じようにしておくと思って、三千年の誤りとなったのです、・と・と結んでおけば後は自由です、人民には人民の自由があるのです、神のやり方と自ら違うところがあっても良いのです、天の理と人の理とは同じであって違うと心得えてください、神の姿は総てのものに現われているのです、道端の白い花にも現われているのです、ぞれを一度に、すべてを見せて飲み込ませてくれと申しても分からないのです、分かるところから気長に神を求めてください、すべては神から流れ出ているのですから、神にお願いして実行しなければならないのです、この分かり切った道理を疎かにしているのです、そこに天狗出ているのです、自分が自分を生むのです、陰と陽とに別れて更に別れると見るのは、人間の住む次元に引き下げての見方であるのです、陰陽に別れるのでないこと、元の元の元の誠の弥栄えを知ってください、その人その人によって、食べ物や食べ方が少しづつ違うのです、身体に合わないものを食べても何もならないのです、かえって毒となるのです、薬が毒となることもあるのです、ただ歩き廻っているだけではならないのです、しっかりと目標をつくって良い道を進んでください、飛行機があるのに馬に乗って行かないでください、先ず額に気を集めて肚でものごとを処理しなければなりません、形ある世界では形の信仰もあるのです、偶像崇拝であると一方的に裁いては誠は分からないのです、人民の知の中に現われて来る時には、もはや大神ではないのです、神であるのです、原因の原因は中々見当とれないのです、始めは形あるものを対象として拝むのも良いですが、行き詰まるのは目に見える世界のみに囚われているからです、タテのつながりを見ないからです、死んでも自分は生きているのです、大我に帰ったり、理法に融け入ったりして自分と言うものが無くなるのではないのです、霊界と霊と現界と現身(うつしみ)とのことはくどく説いてあるでしょう、神示を読んで読んで大往生の理(みち)が弥栄えに体得出来るのです、霊と体と同じであると申しても人間の世界では別々なのです、内と外、上と下であるのです、取り違いしないようにしてください、造り主と造られるものは無限に離れて行くのです、和は無いのです、和の無い所に天国は無いのです、こんな分かり切ったことがなぜに分からないのですか、尻の毛まで抜かれていると申してあるでしょう、早く目を覚ましてください、悪の道、教えにまだ迷っているのですから早く目覚めないと間に合わないのです、無限のものと有限のもの、ムとウを混ぜこぜにして考えるから人民の頭は兎角ウになりがちなのです。欲を浄化してください、すべて世の中の出来事はそれ相当に意義があるのです、意義の無いものは存在が許されないのです、人間心で、邪と見たり悪と感じて、狭い低い立場でいるから、いつまでたってもどうどうめぐりなのです、それを毒とするか薬とするかは各々の立場によって考え方や、処理方法や、いろいろの運び方によって知るのですから、心しなければならないのです、今に一生懸命になってください、二十二のように知らせるのです、神の仕組みは間違いなし、どしどしと運んでください

 

●疑問点➡天国に行けるか

●考察➡本日は自分が天国に行けるかどうかの考察です、聖書ではイエス様を信じる者は救われて天国に行けるのです、地獄に行きたいと思う人はいないと思うのですが、ふざけている人もいますから天国や地獄の存在に関心が無い人もいます、キリスト教徒であるクリスチャンはおそらく自分は天国に行けると信じていると思われます、自分は救われたと信じていますので、まさか天国に行けないとは夢にも思わないでしょう、イエス様を信じる者と教会の教えを信じる者はまるで違うとここでは書いています、イエス様を信じるとはイエス様に「ゆだねる」こと「任せる」ことです、たとえば大切な物を落としてしまった時に自分で探しても見つからない、どこに落としたかも分からない場合にイエス様を信じる者はイエス様を信じて任せることになります、イエス様なら何とかしてくれるという信仰です、その場合に見つからないという結論もあるのです、失った物が見つかって欲しいのは当然なのですが、出て来ない場合もあります、出て来なくてもイエス様を信じたので良かったとなります、家族や親しい人が死んだ場合も同じです、病気の時も同じです、皆が健康で死なないという状況にはなっていません、死ぬか生きるかをイエス様にゆだねるという信仰になります、天国に入れるかどうかもイエス様にゆだねた人がイエス様を信じる人です、イエス様を信じたら天国に入れると信じた人は入れないのです、イエス様を信じたら健康になれるとか、イエス様を信じたら資産家になれるとか、そんなことは何もありません、イエス様を信じても何が起きるか分かりません、何が起きてもイエス様を信じて耐え忍ぶという人生です、イエス様を信じているので天国に入れると信じている人はイエス様を信じているのではなく、自分が天国に入れることを信じているのです、自分がどうなるかはイエス様が決めるので、イエス様を信じるならば、イエス様に任せます、イエス様の御心通りになりますようにと日々生きるだけです、イエス様が自分をどうするのか決めてくれるのです、誰でも天国に入りたいのですが、天国に入れるかどうかはイエス様が決めるので自分ではどうにもなりません、イエス様にお願いすることは出来ますが、イエス様が申していないことを信じて天国に入ろうとするのはいけません、パウロの福音を信じて天国に入るのは無理です、パウロ信仰では天国には入れないのは確実です、イエス様がハッキリ申していることはそのまま伝えても良いのです、先生はイエス様だけ、パリサイ派のパン種(教え)にはよくよく警戒し、イエス様の後から来た悪魔の教えにはつまづかないことです、聖書はつまづきの石を置いて、人をふるいにかけているのです、悪魔は人をふるいにかけることを許されているのです、人がつまづく教えを広めるのは許されているのです、良いイエス様の教えと毒麦のパウロの教えがあるのが聖書です、どちらを食べて生きるのか、どちらを食べてつまづくのか、大いなる試しがあるのです。