これは生命科学に関する自分史であり、生命科学への呪詛であり、実験研究をやればやるほどその無意味さに気づかされるという体験談でしかない

実験研究をしたことがない人は、この先読む必要は無い

バイオ系の学部生や院生の一部にしか理解して貰えないだろうが、別に構わない

あなた方の研究熱に水を差すつもりはないし、これからもどんどん無意味・無価値な研究に時間を費やしていくがいい

ただ一つ肯定的に捉えるなら、とことん無意味だからこそ楽しいのであり、ゲームのようで面白い世界でもある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小学校低学年の頃、おぼろげにこんな光景が頭に浮かんだ

自分が白衣を着て、器具を持って何やら実験している、、、、

なぜかは分からないが、なんとなく将来自分が科学者になることは察した

 

小学生の頃はアシモが流行っていて、バイオ系よりも機械工学や電子工学に興味があった

だが、いつの間にか機械よりも植物や動物など生物に興味が移っていた

恐竜や昆虫は大好きで図鑑とかも買ってもらったし、植物を育てるのも、動物の世話(学校の飼育小屋にいるニワトリやうさぎに草をあげたり、池にいる亀にエサをやったり)も好きだった

 

中学生になるとそういう機会は失われ、なぜか数学に興味を持った

たぶんアインシュタインを知った影響だろうけど、画期的な理論を発表して世界から称賛されたいとか、そういう薄っぺらい承認欲求が原動力だったんだと思う

部活の先輩にリーマン予想の専門書を持ってる人がいたのでちょっと見せて貰ったり、数学オリンピックの問題を解いてみたり、とにかく数学にハマっていた

(ゼータ関数とか、複素数平面、虚数、オイラーの定理、フーリエ変換、ラプラス変換とか)

数学で世界が解明できるとまで思っていた

 

同時に物理にも興味があった

ふつう難解な物理方程式を中学生が理解できるはずもないが、クラスのなかには頭がいい人もいて天文単位の方程式を知ってる人もいた

(1光年は日心重力定数のルート3乗に比例するとか)

 

 

その影響もあって、物質の最小単位である素粒子(陽電子、ニュートリノ、クォークとか)について調べたり、元素表を暗記しようとしたり(40Zr=ジルコニウムとか、覚えてもしょうがないが笑)、とにかく物質の最小単位についてはすごく興味を持った

そして唯物論的考えにハマった

「すべての物体は元素の集合体でしかなく、人間も空気もマグマもすべて「元素の集合体」である

だから、人が死んで灰になっても「元素が移動しただけの現象」でしかなく、仮に地球が爆発しても元素レベルでは多少エントロピーが増大するだけで、人間の感情もすべて脳内にある元素の反応、動きでしかなく、それ以上の意味はない」

という、虚無主義の極地のような考えだった

 

(よくよく考えれば、こういう思想は仏教原典の「悟り」とか「万物は一つ」「一切の価値はない」「善悪など存在しない」などの考えとそっくり)

 


だが、あるとき家族で保養所に旅行中に、大栗先生の「超弦理論入門」を読んだ

そして本当の最小単位は波動であることを知り、唯物論的な考えも消えていった

11次元空間とか、トポロジー、ドーナツ型とか専門的過ぎて理解が追いつかなかった(いまはYotubeとかでいくらでも分かりやす~い動画が沢山ある)のもあるし、想像以上に複雑な概念だったので唯物論みたいな安易な思想が適用できないことを察した

 

 

そして、ちょっと気分転換に外に行き、ぼーっと空を眺めていると、ある考えが浮かんできた

 

これまで人類は数千年、数十万年生きてきた。

過去数多の人間が日々考え、あらゆることを考え、思いつき、行動し、思考し、実行し、悩み、ひらめき、、、気が遠くなる。

だったら、私が思いついたことや考えたことなんか、既に過去に生きた膨大な人間の誰かが当然同じように思ったり、考えたりしたはずで、果たして「過去の誰も考えたことがなかったようなことを考えたり、過去の誰も思ったことがないようなことを思ったりする」ことが可能なのか? 

と。

 

中学生の時点である程度そういう認識があった

数学・物理は哲学と通じているので、哲学的に考える習慣が付いていたからだけど、ふと「自分が過去にまったく提唱されたことのない思想や理論を生み出すことが出来るのか?」と無意識に自問したのだと思う。

過去に数学の天才や物理の天才が試行錯誤し尽くし、はてはもう超弦理論とかがある時代。もうあらゆることが考えつくされ、計算し尽くされ、試し尽くされた時代。

 

ここらへんは適菜さんやゲーテの考えと同じで、この地球は既に老年期に達していて、新しいことなどそう簡単にみつかるはずもない。

あらゆる種類の事象が既に試みられた現代において、オリジナリティーなど幻想でしかないということ。

 

そんな時代において、われわれ現代人はどうか?

歴史を知れば知るほど古代人、先住民の方が優れており、われわれ現代人の方がいかにバカで無知で思い上がりのアホでどうしようもないクズであるかを痛感する

古代から現代に至るまで人間は何一つ進歩していないこと、過去の膨大な積み重ねのおかげで現代の文化・文明はあること、その文化・文明を生み出した偉人と技術の積み重ねは偉大であるが、それを利用しているだけのわれわれには価値などないこと。

 

 

この「過去への畏怖」という感覚は実験研究にも文学にも、あらゆる学問に通じる

こういう思想の人間がはたして世の中にどれだけいるのかは知らないが、たぶん少数派だと思う。

 

おそらく大半は、過去に試みられたことのない「未開の荒野」が広大に存在すると確信し、自分の考えはオリジナルで、過去何万年の人間が考えもしなかったことを思いつく天才的人間だと自負し(どっからその自信が来る?)、未開拓の研究も山ほど存在し、未来には進歩しかないと考えている進歩史観的人間。

たぶん過去への想像力が欠如しているからそういう発想になるんだろうし、そんな人間ばかりだからこそいまの生命科学ひいては世界はこんな有様なのだと思う

 

 

 

とにかく、中学生の時点でそんな考えだったから、自分が天才的な思想や理論、哲学を提唱できるとは思えなかった

ただ、技術的な成果は努力すれば得られるんじゃないか? 理論じゃなくて技術ならノーベル賞とかも取れるんじゃないか?

そんなことを考えはじめたのが高校生の頃。

そして、高校生の頃にちょうど世間を騒がせたあの事件が起こる。