考察している記事があまり見つけられなかったので、自分の考えを記したいと思いました。拙いところはご容赦を…。皆さんのご意見が聞けると嬉しいです。

※以下、めちゃくちゃネタバレします。未読の方はご注意下さい。


 物語の構造

近づいては離れを繰り返し、

そのたびに距離は離れる


まずは塁とクーチとの関係性について、全体を通して考察をする。

2人の物語は

塁がきっかけを作る→クーチが反応する→急激に2人の距離が縮まる→時間の経過と共にお互い不満が募る→別れる

という一連を繰り返して、ラストに向かっていく。

重要なのは、繰り返すごとに2人の距離感(気持ちであったり物理的な距離であったり)が離れていくことである。

塁は小説を書く(=気持ちに整理をつける)ために。クーチは父の死期が近いことや結婚への焦りなどから、毎回極限まで近づいては、どちらかが別れを切り出す。

その中で2人は誰を大切に思うのか、宇宙の果てで迷子になったとき、誰と交信したいのかを考え、互いが互いをかけがえのない存在だと気づいていく。


 結末の考察

塁はクーチと永遠に一緒にいるために、

クーチの前から消えることを選んだ


アジアで一緒に過ごした時間は、塁にとってもクーチにとっても今までで1番幸せで、満たされて、安心した時間だった。

これ以上はないと思った塁は、この時間が、ずっと続けばいいのにと思った。

死に近づけば近づくほど愛は純粋なものになることを知っていた(極限状態で弟と愛し合っていた経験がある)塁は、2度とクーチの前に現れないことで、1番幸せで、純愛で満たされた時間で、時を止めようと思った(本文「時計の針が止まっていた」で暗示)。


なぜ2人で日本に帰る選択をしなかったのか?

それは、2人は会うたびに最終的にすれ違い、ケンカをして離れていくことを今までの経験から分かっていたからではないか。

加えて、会えない時間こそが2人の愛を育むことを塁は(クーチも)知っていたから。

そして、クーチに塁は死んだと思ってもらうことで、塁との思い出を一生美化し続けてくれる「バカな女」だと塁は知っていたから。

実際、冒頭の10年後のクーチは塁を思い続けており、異国にいてまで1人で放浪している。一見独り立ちしたようにも見えるが、RUIの小説を見つけたときには、10数年も前の記憶が鮮明によみがえり、愛し合っていた頃を想起し、本編への導入としている。

結果として、塁の思惑通りにクーチは塁のことを思い続けており、脳髄の裏の白い薔薇は枯れていない。帰れるものなら。帰れるものなら。と塁が遠くに行ったことを悲しんでいる裏には、2度と来ない開花の時を待っている白い薔薇がある。


 猫が居なくなっていく

塁はクーチが東南アジアまで来てくれるか

試していた


クーチが東南アジアに渡る前、塁の家に来ていた野良猫が少しづつ減っていくシーンがある。

これは、古巻(=塁の本の編集者)が引き取っていたと考えていいだろう。

根拠は、塁失踪後に古巻から送られてきた本には、可愛がっていた野良猫の毛が挟まっていたから。


ではなぜそんなことをしたのか?

完全に推察ではあるが、塁はクーチの愛を確かめたかったのではないかと考察する。

クーチが東南アジアに来る決心をしてもらうためには、日本にある塁の残滓を減らしていく必要がある。つまり、塁の代わりに猫の面倒を見なくてはいけないなどの、クーチが日本にいていい理由を減らす必要があると塁は考えた。そのために活躍するのが塁の理解者である古巻である。

塁がクーチに手紙を送っていたように、塁は古巻にも出来上がった原稿と共に、手紙を送っていたのではないだろうか?それもとても体のいい内容で「クーチの負担を減らしたいから、クーチには秘密で猫を少しづつ引き取って欲しい」というような。

つまり、クーチには猫に固執するように、古巻にはクーチの依存先を無くすように手紙を送っていたのではないかと考える。それはきっと狙ったものではなく、塁の心の叫びがそのような手紙を産んだと私は考えたい。


 塁の家に自転車で走り出す

最後に残った猫と最期の時間を過ごす


本書で最も不可解な点といえばここではなかろうか?ラストのラストは

「塁はずっと、ずっと、ずっと、ずっと、あそこでわたしを待っていたのだ。わたしは塁と行くつもりだった。白い薔薇の淵まで行くつもりだった」

で締め括られる。塁は死んだと冒頭で言っていたのに???読者は急に置いてきぼりにされる。

これをどう解釈するか。私は、塁は元々住んでいた家で死んでいたと解釈した。


東南アジアからひと足先に日本に帰った塁は、2度と会わないと決めていたにも関わらず、例に漏れずまた会いたくなり、自室でクーチをひたすら待っていた。主人の帰りを待つ猫のように。

しかしクーチは塁の家には行かなかった。いや、家に行くことより、父の死や新しい野良猫を手懐けることを優先した。その結果、クーチを待ち続けた塁は部屋で生き絶える。


クーチは塁の部屋に着く前に、塁がもう生きてはいないことに気付いている。ラストの「わたしは塁と行くつもりだった。白い薔薇の淵まで行くつもりだった」の部分では、クーチは塁が待っていることに気づいてからは、塁の元へ向かい共に死ぬつもりであったことを描写していると考える。


 感想

偏見の自覚と偏見故の美しさを感じさせる作品


あまり認めたくはないが、他の感想でもいくつか挙がっており、まぁ確かにそうか。と思ったので書いておく。クーチはなかなかのクズである。

本作は塁とクーチの愛と肉体関係に目がいきがちであるが、冷静に考えるとクーチは29歳独身。19歳(だと思っていた。本当は24歳)の塁と肉体関係になる。

そして、年下の塁に振り回されながら、ズブズブに共依存になっていく。途中幼馴染の男と結婚するが、塁を、いや塁とのセ◯クスが忘れられず、結局離婚して、消えた塁を海外にまで探しにいく。

いやぁ、なかなかのダメ女である(笑)

クーチを今風に、あえて悪く言うなら、依存・貢ぎ体質でダメ女好きのいき遅れメンヘラ女とでもなろうか。しかし読んでいると、2人の関係はとても美しく、尊く映る。


それはなぜか?私が思うに、女性同士の恋愛だからではないだろうか。私は研究論文のテーマにLGBTを取り上げたくらい、"セクシャルマイノリティ"という事柄に関心を寄せてきた。LGBTに当てはまる友人も少なくない。それなりに知識と実際を知っている立場とあえて自負させて頂き、私なりの感想を述べたい。


本作は2001年に刊行されている。今ではLGBTの一部として取り上げられる女性同士の恋愛は、その当時まだまだ受け入れられるものではなく、"異質"であったことは言うまでもない。本作でもクーチは塁と付き合っていることを1人の友人を除き、ひた隠しにしようとしている。

その異質さや希少性、女性同士のセ◯クスというほとんどの人が想像でしか知らない行為、触れてはいけないことを密に知ってしまう背徳感などがないまぜになり、2人の関係に神秘さを感じる基盤となっている。

それに加え、互いの狂おしいほどの依存と圧倒的な性行為の描写が強烈なスパイスとなり、2人の関係は尊く、孤独で、破滅的で、耽美なものに昇華されている。


ではなぜ、クーチはクズであるかのように映るのか。なぜそう思う人がいるのか。

これはLGBTが世の中に認知されてきたからではないだろうか?

塁とクーチを男女に置き換えて考えてみてほしい。ちなみに私は塁が男性的でクーチは女性的に映った。

「女性とか男性とかではなく塁が好きなのだ」という旨が本作にも書かれていたように、女性っぽい男性っぽいなどジェンダーロールに囚われた考え方をする必要は本来ないのだが、LGBT過渡期である今、理解を深めるためにもお付き合い頂きたい。


「白いバラの蓋まで」がもし男女間の恋愛を描いたものなら、本作はドロドロかつ純愛の恋愛劇の官能小説に分類されていたかもしれない。クーチの猫のような気分屋な態度はクズ男を思わせるし、クーチは都合よく男を選ぶビ◯チに見えたかもしれない。

しかし本作はそのようには見えない。

何が言いたいのか。本作に美しさを感じているうちはセクシャルマイノリティに対する偏見はなくならない。しかし、偏見がなくなるにつれ人と人が描く愛憎模様に煌めきはなくなっていく。


女性同士なら不倫をしていいわけではない。女性同士ならムカついたときに相手にコップを投げつけていいわけではない。そんなこと頭では分かっているのだが、私は塁とクーチに愛おしさを感じずにはいられない。私はセクシャルマイノリティに対し、自分の中でまだまだ偏見があったことを思い知らされた。


「白い薔薇の淵まで」は登場人物たちの様々な葛藤を通して読み手に偏見の自覚と偏見故の美しさを感じさせる作品である。


「塁との関係をみんなに認めてもらいたい⇄誰にもバレずに独り占めしたい」

「こんな関係よくない⇄また会いたい」

「塁とならどうなってもいい⇄結婚し安定したい」

そんなアンビバレント(=二面性)が各所に散らばっており、時に揺れ動き、時に振り切る心情の変化に本作の魅力を感じた。