メディアセンター会見に各局インタビューと超人的スケジュールの後、レジェンドオブユヅシェンコみたいなスペシャル練習情報に、自分史を振り返っているような淋しさもあり、思い切り楽しもうという健気さも感じる。
羽生結弦のオリンピック劇場のClimaxがまもなくやって来る───。
言ってる間に、エキシ始まっちゃった!
↑以下、記事は数日前から溜めてたやつ。何とか出番の前に上げたかった。
会見を半分だけ観てた夫が、「羽生くん何かおとなしいね」とのたまわった。
(そんなの怪我してるし、痛いし、辛いし、当たり前じゃ!)と心の中で突っ込み入れたけど、その後の単独インタビューでの整理された気持ちを穏やかに緩やかに紡ぐ言葉は、意外なほどストレートだった。
記者会見までは(何でこんなに穏やかなんだろう)とか、(自分で自分を納得させようとしてるのかな)と、まだ思っていた。
インタビューの彼は、静かなのに赤裸々だった。試合直後はトランス状態のままに見えたのが、まるで4日間で高野山にひっそり入って、覚りを得た聖のような感じ(実際にはゲームとチョコとカップラーメンという煩悩だったオチ)。
彼の人生観が漸く見えてきて、軽く衝撃を受けている自分がいる。それは感動というより衝動。
どうやったらこの境地に行き着けるのか、最初は不思議とさえ思った。
次第に、本当に心から悔しいとか無念とかを超越したような居ずまいに、何だか妙に腑に落ちてしまった。
現行の限られたルールの中で、自分の理想のスケートを体現する事が「正しい」と信念を持って貫いた。
それは技術と芸術表現の融合だし、究極の進化の追求は、現行で最高難度のジャンプの完璧な実践。
ルールがいかに首を傾げるような杜撰で粗悪な構築であっても、その「社会」に生きている限り、従わなくてはならない。
平昌までは結果を出してきたし、結果を出すことで、正しいことを証明してきた。
思うように評価されない自分の技術、演技。
では、平昌までが「正しく」て、平昌後が「間違い」なのか。
何が正しいのか。どうすれば自分の理想のスケートを達成できるのか。
ジャッジシステムのことでもあり、羽生結弦の4Aの『競技上』の要素としての『完成』のことかも知れない。
彼が繰り返し言っていたのは、羽生結弦のアクセルはこのオリンピックで最高のものができたということ。
───自分の中で、自分の理想の4Aは達成した───
自分が理想とする、跳び上がってから回転するジャンプ。子どもだった頃から、身に付けてきた「正しい」ジャンプ技術で実施するに、今の自分の身体では完全な着氷が不可能だと覚ったのだと、彼の言葉を聞いて私は感じた。
(靴の性能の進化と身体の強靭化?が、科学の発展の上で可能ならばあり得るかも)
ただ、数多くの経験値から知っていた、特別の場所の特殊な状況であったら(私も火事場の~と書いていたら、本人がそれを言っていたw)、余力のある時には敢えて発揮されないでいる眠っている能力を呼び覚ますことができるんだろう。
だからオリンピックという特別な舞台が寧ろ必要だったのかも知れない。北京への道は、彼自身の100%を超越するために不可欠な設定だったのだと思った。
───あの怪我が無ければ、あのアクセルにはならなかった───
足の感覚が無いまま、集中して跳べた。練習すれば跳べる、そんな簡単なものじゃない←これガツンと正論でしょ。『羽生結弦』式4Aユヅセルは。
あれが羽生結弦のアクセル。
絶体絶命のような展開で、入りをかつての自分と同じようにして(分かってましたよ!いつものステップとは違う!と)
思い切り締めた。
死にに行くようなジャンプを、まさしく死にに行った。だからできた。
怪我が無かったら───怪我を恐怖したら(身体が防衛本能で)最大限のガチで行けなかった、かも知れない。
9歳のあの子が手を貸して、4Aと刺し違える覚悟で跳びに行き、そうして感じた本当の4Aの景色。
誰もその景色を知らない。
自分以外は。
心の整理ができたような(憑き物が落ちた、と言っては語弊があるかも知れないが)穏やかな表情には、もうギラギラした少年ジャンプな羽生結弦は見えない。
この4年間に背負ってきたあらゆる不条理なものから解き放たれ、精神レベルがまた数段昇格して、本当に解脱してしまったかのよう。
そういえば釈迦は人間の母マーヤの脇腹から人間として産まれた。生きること、老いること、病になること、死ぬことの4つの苦しみから、人を解放する覚りを得たいと出家したのが29歳。苦しい修行を重ねたけど覚りを開くことができず、身体が限界に達した時、助けられて命を取り留め、菩提樹の下で瞑想の末の末に覚醒したと言われる。
苦しみ抜いて辿り着いた境地に、何故か仏陀を重ねてしまった私。
4つのAgony(苦しみにこじつけたのでこの単語)で、まさかの4Aだ。
『羽生結弦』を神格化したくなかったのに、今度ばかりは眩いばかりの後光を見てしまったような有り難さ。
───SPでのアクシデントの意味───
こうなってみると、オリンピックの神様は、羽生結弦に得点競技としての舞台では闘わせたくなくて、あの界隈の思惑をリセットするHoleをあの場所に用意したのではないかと思ってしまう。
実際、闘っている次元がこんなにも異なるのに、同じ表彰台の下段に乗る姿を見なくて、実はほっとしたのだ。
そして、そういう波動が共鳴して、さらに返還されて彼の活力になることを願っている一人である。
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