先生はどこに? 〜習う・学ぶ〜 | JIDAIの「食べて」「動いて」「考えて」

JIDAIの「食べて」「動いて」「考えて」

〜マイムから心と身体の平和を〜心態表現としての身体表現「オーガニックマイム」を主宰しています。

習うことは簡単
学ぶことは大変。

習うは受け身。
学ぶは能動的

習うということは、形やシステムなどを覚え真似ること。
学ぶということは、
その形やシステムにならしめる見えない力
を見つけ出すこと。

習ったことでは、応用発展をさせることは出来ない。
学んだことは、応用発展させられる。

習ったことを他に活かそうとすると、
誰の見た目にも分かる形で現れる。
学んだことを他に活かしたとき、
どこに活かされているか普通には見抜けない。


多くを習っても、知識が増えるようなもの。
多くを学ぶと、知恵が発揮できる。

ひとつの分野を習うことは、ひとつの分野でしかない。
ひとつの分野であっても深く学ぶと、他の分野のことが分かってくる。


教える際に、私はこのあたりのことが、とても気になるんです。
なるんですけど、
生徒に「習うんではない!学べ!」と言ったところで、
それは出来る人には当たり前に出来るでしょうけれど、
出来ない人には難しいんです。


ところで、教える側が「教える」という姿勢でいますと、
教わる側はどうしても、習うという姿勢
なってしまいやすいと思うんです。


習う側、学ぶ側の問題ではなく、
教える側が「教えられる」と思っているところに問題がある
わけです。

教える側が出来る事は、あくまで
「あなたは自分では分かっていると思っていることが、
実は分かっていないのよ」

分からせるようとすること。

(分からせることではありませんね。どこまでいきましても、
分かる分からないはその人自身のことですから、他人は何も出来ませんでしょ。

自分が分かるという行為を、他人に代わりにしてはもらえませんものね。)

それは決して否定的な意味ではなく、
分かっていないということを分かることが、
分かることの一歩目
になるからなんです。

ただし、言葉だけで分からせようとすることは、非常に難しい。
体感してもらうしかないのです。

それも、ただ分かっていない、出来ていないということを体感させたのでは、
ネガティブな気持ちになってしまいますから、

分かりそうな感じ、出来そうな感じ

というものを感じられるようにし、
分かったら、出来たら、楽しい、面白いだろうという
希望
が見えるものにしなければ、と思うんです。

そして大事なことは、
他の人との比較ではなくさっきまでの自分と今の自分との比較。
少しでもその希望に向かっている気がすればいいと思うんです。


習うということは、結果を重視しやすい。
学ぶということは、過程に喜びを見い出しやすい。

習うということは、自分のに先生を見つけること。
学ぶということは、自分のに先生を見つけること。

嬉しいことに、JIDAIマイムクラスのクラス生のみんなは
本当によく学んでくれます。

素晴らしいっ!



マイムから心と身体の平和を  http://www.geocities.jp/mime_jidai/

オーガニックな(生きた)カラダに  http://jidai.mond.jp/