森下舞

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「ええ、できますとも」
「私はあれを手放すのが惜しいような気がしますよ」とデュパンが言った。
「あなたにいろいろこんなお手数をおかけして、なんのお礼もしないというようなつもりはありません」とそ

の男は言った。「そんなことは思いもよらなかったことです。あれを見つけてくだすったお礼は――相当のこランセル バッグ

とならなんでも――喜んでするつもりです」
「なるほど」と友は答えた。「それはいかにもたいそう結構です。こうっと! ――なにをいただこうかな?

 おお! そうだ。お礼はこういうことにしてもらおう。あのモルグ街の殺人事件について、君の知っている

だけのことを、一つ残らずみんな話してくれたまえ」
 デュパンはこのあとのほうの言葉を、非常に低い調子で、非常に静かに言った。また、同じように静かに扉

の方へ歩いて行って、それに錠を下ろし、その鍵をポケットに入れた。それから彼は懐中からピストルを出し

、まったく落ちつき払ってそれをテーブルの上に置いた。
 水夫の顔は、ちょうど窒息しかけて苦しんでいるかのように、赤くなった。彼はすっくと立ち上がって、棍

棒を握った。しかし次の瞬間には椅子にどっかと腰を下ろし、がたがた震えて、まるで死人のような顔色にな

ってしまった。彼はひと言も口を利かなかった。私は心の底からこの男をかわいそうに思った。
「ねえ、君」と、デュパンは親切な調子で言った。ランセル バッグ「君は必要もないのにびくついているんだ、――まったく

さ。僕たちはなにも悪気(わるぎ)があってするのじゃない。僕たちが君になんの危害を加えるつもりもない

ことを私は紳士としての、またフランス人としての名誉にかけて誓う。君があのモルグ街の凶行について罪の

ないことは私はよく知っている。しかし、君があれにいくらか関係があるということを否定するのはよくない

。いま言ったことから、私がこの事件について知る手段を持っていたことは、君にはわかるはずだ、――君に

は夢にも思えない手段だがね。いま、問題はこんなことになっているのだ。君は避けうることは何もしなかっ

たし、――またたしかに罪になるようなことは何もしなかった。君は罪にならずに盗めるときに、盗みの罪さ

え犯さなかったのだ。君にはなにも隠すことはない。隠す理由もない。一方、君はぜひとも君の知っているだ

けのことをみんな白状する義務がある。一人の罪のない男がいま牢(ろう)に入れられているのだが、その男

に負わされた罪の下手人を君は指し示すことができるのだ」
 デュパンがこう言っているあいだに、水夫はよほど落ちつきを取りもどしてきた。しかし、彼の初めの大胆

な態度はもうまるでなくなってしまった。
「じゃあ、ほんとうに」と、しばらくたってから彼は言った。「あの事件についてわたしの知っていることを

すっかりお話ししましょう。――だが、わたしの言うことの半分でもあんたが信じてくださろうとは思いませ

ん。――そんなことを思うなら、それこそわたしは馬鹿です。でも、わたしには罪はないのです。だから、殺

されたっていいから、残らずうち明けましょう」
 この男の述べたことは大体こうであった。彼は近ごろインド群島へ航海してきた。彼の加わっていた一行が

、ボルネオに上陸し、奥地の方へ遊びの旅行で入って行った。そのとき、彼と一人の仲間とが猩々を捕えたの

だ。この仲間の男が死んだので、その動物は彼一人のものになった。そいつの手に負えない獰猛(どうもう)

さのために、帰りの航海のあいだじゅう彼はずいぶん困ったが、とうとうパリの自分の家に無事に入れてしま

うことができた。そして近所の人々が自分に不愉快な好奇心を向けないように、猩々が船中で、木片で傷つけ

た足の傷が癒(なお)るまで、注意深くかくまっておいた。それを売ろうというのが、彼の最後の目的だった

のだ。
 あの殺人のあった夜、いや、もっと正確に言えばあの朝、彼は船乗りたちの遊びから帰ってくると、その獣

が、厳重に閉じこめておいたと思っていた隣の小部屋から、自分の寝室の中へ入りこんでいるのを見つけたの

だった。猩々は剃刀を手に持ち、石鹸泡(せっけんあわ)を一面に塗って、鏡の前に坐って顔を剃(そ)ろう

としていた。前に主人のやるのを小部屋の鍵穴からのぞいていたものにちがいない。そんな危険な凶器が、そ

んな凶猛な、しかもそれをよく使うことのできる獣の手にあるのを見て度胆を抜かれてしまい、その男はしば

らくはどうしていいか途方に暮れた。しかし、彼はそいつがどんなに荒れ狂っているときでも、鞭(むち)を

使って鎮めるのに慣れていたので、今度もそれをやってみようとした。その鞭を見ると猩々はたちまち部屋の

扉から跳び出し、階段を駆けおり、それから運わるく開いていた一つの窓から街路へと跳び出したのであった


 そのフランス人は絶望しながらもあとを追った。猩々はなおも剃刀を手にしたまま、ときどき立ち止って振

りかえり、ほとんど追いつかれそうになるまで、手まねをして見せた。それからまた逃げ出した。こんなふう

にして追跡は長いあいだ続いた。かれこれ朝の三時ごろのことであったから、街路はひっそりと静まりかえっ

ていた。モルグ街の裏の小路へ通りかかったとき、レスパネエ夫人の家の四階の部屋の開いた窓から洩れる明

りに、猩々は注意をひかれた。その家の方へ走りより、避雷針を眼にとめると、想像もつかぬほどのすばやさ

でよじ登り、壁のところまですっかり押し開かれていた鎧戸をつかみ、その鎧戸で寝台の頭板のところへじか

に跳びついた。これだけの離れわざが一分もかからなかったのだ。鎧戸は猩々が部屋へ入ったとき蹴かえされ

てふたたび開いた。
 その間、水夫は喜びもしたが、当惑もした。猩々の跳びこんでいった罠(わな)からは避雷針のほかには逃

げ路はほとんどないのだし、その避雷針を降りてくれば取り押えることができようから、彼は今度こそつかま

えられるという強い希望を持った。また一方では、家のなかでなにをするかという心配が多分にあった。この

後のほうの考えから彼はなおも猩々のあとを追った。避雷針は造作なくのぼれるし、ことに船乗りにはなんで

もない。だが、彼が左方ずっと離れたところにある窓の高さまで行きつくと、それから先は進めなかった。せ

いぜいできることは、身を伸ばして部屋のなかをちらりと覗(のぞ)くことだけだった。そうして覗くと、彼

はあまりの怖ろしさに、つかまっている手を危うく放しそうになった。モルグ街の住民の夢を破ったあの恐ろ

しい悲鳴が夜の静寂のなかに響きわたったのは、このときのことであった。寝衣(ねまき)を着たレスパネエ

夫人と娘とは、部屋の真ん中に引き出してある、前に述べたあの鉄の箱のなかのなにかの書類を整理していた

らしい。それはあけてあって、なかの物はその側の床の上に置いてあった。被害者たちは窓の方へ背を向けて

坐っていたにちがいない。そして猩々の入りこんだのと、悲鳴のしたのとのあいだに経過した時間から考える

と、すぐには猩々に気がつかなかったらしい。鎧戸のばたばたした音はきっと風の音だと思われたのであろう