1日目は東松島市の野蒜(のびる)小学校周辺でしたが
2日目は少し南下して亘理(わたり)町というところに行きました。
イチゴ農家さんが、ボラ団体に助けを求めるメールを送ったことが
支援の始まりだったそうです。
8月中旬あたりからボランティアを派遣し、
がれきを撤去し、ハウスを建てる。
それまで地面で栽培していたらしいのですが
今回から胸くらいの高さにするそうで
こんな感じ。
周辺の土は塩害で使えないため、ヤシガラ(ココナツで作った土?)
を使うことにしたそうです。
1枚目の画像左にあるダンボールの中に、土を固めたものが
レンガ状になって入っていて、それを2個づつ袋に入れ、
水を入れて土を戻し(2枚目画像のラックの下にある袋がそうです)
戻った土を、上の花壇?なんていうのかな、イチゴ植えるところ!
に入れていきます。
すでに肥料の土がしいてあったので、そのうえに乗せていきました。
本当は下の土と混ぜるらしいんですけど、今回はひたすら乗せる乗せる。
水を含んだ土はとっても重く、上に持ち上げるのが重労働でした。
上に上げた土が少し固まっているので、今度はほぐしていきます。
イチゴさんのベッドだからね。
ふかふかにしてあげなくちゃね。
これものちに指が筋肉痛になるほど、大変な作業でした。
こうやってね。
黙々と作業を続ければ、いつ終わるかわからない作業も終わるものですね。
なぜ手伝いが必要か。
農家の方々が、細々やっていけばいいじゃない。
と、私はある人に言われました。
もともと、農家の人が1からやってきたんでしょ、始めたときは。
だったら、またそうすればいいんじゃないの?って。
そうかもしれない。
でも、農家さんは、一刻も早く通常の生活に戻らなければいけないんです。
一日も早く、復興したいんです。
クリスマスケーキ用のイチゴを作りたい。
勇気を出して、助けを求めてきた農家さん。
その再出発のお手伝いができて、私はとてもうれしかった。
後発隊が、イチゴの苗の定植を終えました。
農家さんは、私たち、お手伝いに携わった人たちの名前を書いた札を
イチゴの苗に一つ一つくくりつけてくださるそうです。
再びこの地を訪れて、まっ赤になったイチゴを見たいな。
わたしのイチゴ。
あたりはこのような土地が続いています。
そこがもとは、田んぼだったのか、住宅地だったのか、
まったくわかりません。
遠くにガレキが山積みになっています。
泊まったのは内陸部の公民館だったのですが、
そこで撮った景色と対照的すぎて
さらに、深夜東京に戻ってきたときのネオンの明るさ。
見慣れているはずの都会の明るさ。普通の生活。
あれが、なぜか私の心に焼き付いて離れない。
その瞬間、また行こう。と強く感じたのでした。
自己満足っていわれたっていいもん。
10月7日発で、また行ってきます!
今度は牡鹿半島です。
長文読んでいただきありがとうございました。
今回は、9月中旬に行った、震災ボランティアについての記事です。
ちょっと重い内容かもしれませんが、がんばって報告したいと思うので
よろしくお願いします。
今回私が行ったのは下の黒く印をしたところ(およその場所です)
1日目は東松島の野蒜小学校(上)
2日目は亘理町のいちご農家さんです(下)
野蒜小学校内にて、物資を仕分けしたり、運ぶのを手伝ったりしました
教室や廊下に支援物資が山積みで、ここから必要な場所に運ばれていくんですね
中古衣類の仕分けは、本当に大変です
大人用、子供用、赤ちゃん用、夏物冬物、男の子用、女の子用・・・
これらがごっちゃになって段ボール箱にたくさんつまっています
地味な仕事かもしれませんが、こうした衣類の仕分けも大事な作業なのだと
誰かがやらなきゃ被災者の手に渡っていかないんだと
ここを拠点にしている方がそう話してくれました。
1階のトイレをお借りしました。水道は復旧しています。
天井が汚れています。
というのも
1階と2階の間の階段から撮りました。
ここまで、津波がきていたことがはっきりとわかります。
ここの体育館に避難していた方が数十名亡くなっています。
ここに足を踏み入れたとき、
ぜったい泣かないと決めていたのに
ごめんなさい、涙がでてしまった。
画像左手側に振り返ると、献花台が設けてあり、お花や、お菓子が供えてあるんです。
線香が置いてあったので、火をつけて、静かに手を合わせました。
時計が2時46分で止まったままです。
ひと夏をこえた被災地では、雑草が伸び放題になっています。
草刈りをしているときにビデオのバッテリーやら、ガラスの破片、
鉄の棒やらがたくさん出てきます。
そして思い出の品・・・
拾って確認してみましたが、どちらが裏か表かわかりませんでした。
野蒜小学校の入り口に座って、コンビニで買ったお昼を食べていました。
見上げるとぼっかりと穴が。
わかりますか?
車のバンパーの跡がくっきり。
ここに、車が縦に刺さっていたそうです。
いまは周辺のがれきや車は撤去され、建物内もかなりきれいになっています。
黒板の「3月15日 日直○○」が消されずに残っていました。
が、ここに小学生が戻ってくるのはいつになるんだろう。
草が伸び放題の仙石線に駅が建つのはいつだろう。
私に何ができるんだろう。
半年たっても、マイナスになってしまったものを
一生懸命ゼロにしようとしている。
マイナスをゼロに戻すのは、相当のパワーがいる。
そのお手伝いを少しでもできたら、いいのかな。
ゼロに戻すには、まだまだ人手が足りないように思いました。
でも着実に前に進んでる。
2日目のご報告はまた次回。
ちょっと重い内容かもしれませんが、がんばって報告したいと思うので
よろしくお願いします。
今回私が行ったのは下の黒く印をしたところ(およその場所です)
1日目は東松島の野蒜小学校(上)
2日目は亘理町のいちご農家さんです(下)
野蒜小学校内にて、物資を仕分けしたり、運ぶのを手伝ったりしました
教室や廊下に支援物資が山積みで、ここから必要な場所に運ばれていくんですね
中古衣類の仕分けは、本当に大変です
大人用、子供用、赤ちゃん用、夏物冬物、男の子用、女の子用・・・
これらがごっちゃになって段ボール箱にたくさんつまっています
地味な仕事かもしれませんが、こうした衣類の仕分けも大事な作業なのだと
誰かがやらなきゃ被災者の手に渡っていかないんだと
ここを拠点にしている方がそう話してくれました。
1階のトイレをお借りしました。水道は復旧しています。
天井が汚れています。
というのも
1階と2階の間の階段から撮りました。
ここまで、津波がきていたことがはっきりとわかります。
ここの体育館に避難していた方が数十名亡くなっています。
ここに足を踏み入れたとき、
ぜったい泣かないと決めていたのに
ごめんなさい、涙がでてしまった。
画像左手側に振り返ると、献花台が設けてあり、お花や、お菓子が供えてあるんです。
線香が置いてあったので、火をつけて、静かに手を合わせました。
時計が2時46分で止まったままです。
ひと夏をこえた被災地では、雑草が伸び放題になっています。
草刈りをしているときにビデオのバッテリーやら、ガラスの破片、
鉄の棒やらがたくさん出てきます。
そして思い出の品・・・
拾って確認してみましたが、どちらが裏か表かわかりませんでした。
野蒜小学校の入り口に座って、コンビニで買ったお昼を食べていました。
見上げるとぼっかりと穴が。
わかりますか?
車のバンパーの跡がくっきり。
ここに、車が縦に刺さっていたそうです。
いまは周辺のがれきや車は撤去され、建物内もかなりきれいになっています。
黒板の「3月15日 日直○○」が消されずに残っていました。
が、ここに小学生が戻ってくるのはいつになるんだろう。
草が伸び放題の仙石線に駅が建つのはいつだろう。
私に何ができるんだろう。
半年たっても、マイナスになってしまったものを
一生懸命ゼロにしようとしている。
マイナスをゼロに戻すのは、相当のパワーがいる。
そのお手伝いを少しでもできたら、いいのかな。
ゼロに戻すには、まだまだ人手が足りないように思いました。
でも着実に前に進んでる。
2日目のご報告はまた次回。