Greg Bahnsenは、著書”Theonomy in Christian Ethics”の中で、マタイ5:17―18の精密な釈義により、それを証明している。彼はその中で次のように言っている。「廃棄」という言葉は、καταλυσαιで、Thayer's Greek-English Lexicon of NTによると”to destroy, demolish, overthrow, render vain"を意味する。

これは元来、建築物を破壊したり、引き倒したりする時に使われていた(マタイ24:2、26:61、27:40、マルコ3:2、etc.)。しかし、後に抽象的意味を持つようになり、「建てられた制度、法などを破壊する、廃止する、ひっくり返す等」の意味となった。例えば、Gospel According to the Ebionitesでは、καταλυωは、ταs θυσιαsと関係して用いられている。この場合、文脈により、いけにえの動物の体を引き裂いたり、バラバラにするという意味ではなく、犠牲の制度の廃止を意味している。(William F. Arndt and F. Wilber Gingrich, A Greek-English Lexicon of NT and Other Early Teaching of Jesus (New York : Charles Scribner's Sons, 1904)による)

このようにκαταλυωは、「破壊する、廃止する、ひっくり返す」の意味であって、「(法を)破る、違反する」の意味では用いられない。その場合は、λυωが多く使われている。καταλυω τον νομονが「命令違反」の意味で用いられた慣用表現もない。従って、マタイ5:17において主イエスは、ご自分が律法を破壊したり、廃止したりしようとされてはおられないことを言われているのであり、律法の違反について言っておられるのではない。

καταλυσαιと対置されているのがπληρωσαι(「成就する」(新改訳))であるが、この間には、反意接続詞αλλαが置かれている。αλλαδεと違って、全く逆のことを言うときに使われる言葉である。(Blass and Debrunner's A Greek Grammer of the NT and other Early Christian Literatureによる)

織田昭「新約聖書ギリシャ語小辞典」にも、次のように書いてある。「δε, 後置接続[小], ・・・しかし、だが、で、それで、さて、次に、また、他方、等。一般にαλλαほど反意の対照力が強くない。反意接続詞としてのみならず、整合接続詞としても用いられる。αλλαは純然たる反意接続詞でδεよりもずっと強く、前後の句または節を強く対照させ、”―ではなくてむしろ(反対に)―”、”―ではなくそれどころか―”、また、否定の先行なしでも、前の文(節、句)に対する反対、中断または別の思想への移行を表わす」20

このようにαλλαは前後を反意接続詞として結びつけるのであるから、πληρωσαιは、καταλυσαιと反対の意味として解さねばならない。καταλυσαιが「違反」とか「不履行」を意味しないことからπληρωσαιも、単に「護る」とか「従う」という意味ではない。καταλυσαιの語義「破壊する」「ひき倒す」の反意語として、「建て上げる」「確立する」が適当であろう。
多くの学者も、πληρωσαιを"confirm", "ratify"と訳している。カルヴァンは次のように言う。「これらの言葉(マタイ5:17)において、主は次のように宣言しておられる。それ(旧約)は、新約によって継承される時に確立(confirm)され、批准(ratify)されるであろう。」(J・カルヴァン、共感福音書注解)

J・マーレーも次のように言っている。「しばしば『充満(fulness)』と訳されるこの言葉の名詞形は、物の総数、総量、必要な総数を意味する。それゆえ、イエスが言おうとしたことは、主が律法と預言者を完成し、極点に至らせ、充分に結実させ、完全に成就するために来た。ここでイエスは、律法と預言者を確認(ratify)し確証(confirm)する働きを言っているのであって、自身に関する旧約聖書の預言の成就以上のことを含めている。(J. Murray, Ibid., p.169)スポルジョンは、この節を注解して次のように言う。「神の律法を彼は打ち立て(established)、そして確立した(confirm)・・・。我らの王は律法を廃するためではなく、それを確立し(confirm)、再び主張された(reassert)。」

H・リッダーボスは、"Significance of the Sermon on the Mount"の中で次のように言っている。「モーセの律法の原理と山上の説教のそれとの間には何のアンチテーゼもない。後者は前者を廃棄したのではなく、それを確立している(confirms)のである」(H. Ridderbos, When the Time Had Fully Come, p.42.) 21

また彼は、次のようにも言う。「”fulfiling”という言葉はイエスの教えについて言及しているのであって、彼の人生について言っているのではない。カルヴァンが言ったように、"De doctrina agitur, non de vita"(about doctrine is said, not about his life) である。新しい律法はイエスによって一つも与えられなかった。又、彼はモーセの律法を廃棄しようとも、又、それを取り替えようともしなかった。彼の意図は事実、彼の教えによって律法を成就(fulfill)しようとした事実にある。即ち、律法の本当の内容と目的を示そうとした事実のことである。」22

πληρωσαιが「成就(fulfill)」として訳される場合、そこには、イエスが律法を守られたということだけではなく、パリサイ主義者らの誤った律法解釈を否定し、真の意味を回復し、それによって律法を旧約聖書にあるとおりに確立する意味が含まれている。従って、5章の続く箇所において、パリサイ主義者らの律法解釈をあげ、ご自分の律法解釈を律法賦与者の立場から宣言しておられる。(21―48節)。

従って我々は、この箇所で主が主張されていることは、律法はキリストが来て、それを全て守り行うことによって、無効となったのではなく、それは存続し、むしろ真の意味が明らかにされ、人々がいよいよこれを守り行うために、確かな権威を与えられたのだ、ということであると知る。新約時代において、律法はさらに強調され、人間が守り行うべき神の命令として、今日の我々にも権威として存在している。

さらに、18節を見ると、一点一画さえ(ιωτα εν η μια κεραια)、天地の滅び去るまで、決してすたれることはない、とある。
新改訳においてはεωs αν παντα γενηταιが「全部が成就されます」と訳されている。これは、キリストの律法遵守の働きとしての「成就」を強調するための意訳であると思われる。なぜならば、一つの文において、εωs ανで導かれた節が二つ並列的に主節(ιωτα εν η μια κεραια ου μη παρελθη απο του νομου)を修飾している場合、同格として強調的言い換えとして訳するのが普通だからである。従ってこの場合、ルカ21:32にあるεωs αν παντα γενηταιと同じように「すべてのことが起こってしまうまでは」と訳し、18節前半の「天地が滅びうせない限り」の言い換えとして、従属節の原意をとどめた訳をすべきである。

ここで主張されていることは、17節でイエスが律法は廃棄されないと言われたことの強調であろう。ヘブル文字の似通った文字は、点や画によって区別をつける。その小さな部分でさえも変更されたり、失われたりすることはなく、旧約律法は天地の寿命と同じほど永遠的なものであり確実なものである、と言うことである。従って、我々は、新約時代だからと言って、律法をイスラエル人のための古い制度であるとして、それを軽んじたり無視たりしてはならない。一点一画に注意を払い、それを完全に守り行うようにすべきである。心に書かれた律法によってこの不滅の書かれた律法(written law)を無効にしてはならない。

O.P.Robertsonは、エレミヤ書における、神の律法の新約時代の特質について語る中で、書かれた律法は新約時代に不要になったという。「『彼らの時代の後に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主のみ告げ―。私は私の律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのようにして人々はもはや、『主を知れ』と言って、各々互いに教えない。それは、彼らが皆、身分の低いものから高いものに至るまで、私を知るからだ。―主のみ告げ―。私は彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。』(エレミヤ31:33―34)

律法の新約時代における特質とは、その内的な性格にある。外的に働くのではなく、律法は心の内側から働くのである。
エレミアによると、その結果は、神の律法の外的な提示の必要がなくなった、ということである。すべての人が律法を知り、自然に神の御心に従うことができるようになる。全く明らかなことだが、石の上に記されたモーセ契約は、新約聖書の栄光とは比較にならないのである。」(O.P. Robertson, The Christ of the Covenant)23

神の聖霊がクリスチャンの心に働いて、律法を守り行うように導くことは事実である(第二コリント3:17、ローマ8:4、ガラテヤ5:16等)。聖霊はクリスチャンが神の導きに従い、その御心に服従するための力を与える。パウロはローマ7章25節で、自分の肉の弱さにおいては罪の律法に仕えているが、心においては神の律法に仕えていると言っている。パウロにとって服従することは、神の律法に仕えることであった。そして、それは、無力になっている肉によってはできず、聖霊に従って歩む時に可能となるのであった(8:4)。聖書は、聖霊の内住が我々を罪―即ち、神の律法を犯すこと(第1ヨハネ3:4、9、5:18)―から守ると教えている。聖霊は神の律法を守り行う原動力である。しかし、Robertsonの言う「神の律法の外的な提示の必要がなくなった」という、書かれた律法の廃棄の主張は、果たして正しいのであろうか。

旧約聖書においては、預言者の霊体験は、イスラエルのすべての人に与えられていたわけではなかった(民数記11:29)。従って、人々は、預言者を通して神のみ声を聞いていた。このエレミヤ14:23―26の他に、旧約聖書の預言者によって語られた預言の数々(エレミヤ31:32―33、エゼキエル11:19―20、39:29、36:26―27)は、将来、全ての人がこの霊を持つような時代の到来について告げている。メシヤ(イザヤ11:2)が来る時に、イスラエルのすべての者(ゼカリヤ12:10)、そして全ての人(ヨエル2:28―29)は、ペンテコステにおいて立証されたように、その上に注がれた霊を持つはずであった。そして、それは新約聖書において事実となったのである。新約時代において聖霊なる神はその人のうちに働いて主の御意を教える。全てのクリスチャンは、聖霊によって個人的導きを受ける。しかし、それは、決して律法を離れてではなかった。

新約時代においても、律法は「知識と真理の具体的な形」(ローマ2:19、20)であり、主が言われるように、「人は、・・・神の口から出る一つ一つの言葉による」(マタイ4:9)であって、ただ霊によるのではない。聖霊はご自身からは語られることはなく、ご自身が聞かれたことをお語りになり(ヨハネ16:13)、御子の栄光を現し、御子を証し、御子の語るみ言葉を証される(ヨハネ16:14)と言われる。聖霊はすべてのことを教え、キリストが語られたすべてのことを思い起こさせてくださる(ヨハネ14:23―26)。聖霊は律法を超えて語られることはない。書かれた律法を行わせるように働かれるのである(第2コリント3:6)。エゼキエルはこのことを次のように言っている。「私の霊をあなたがたのうちに授け、私の掟に従って歩ませ、私のさだめを守り行わせる」(36:27)。
聖霊の無い律法は死をもたらし(ローマ7:8―11)律法のない聖霊は迷いをもたらす(第1テモテ1:13、3:16、ローマ5:13等)。
従って、我々は新約時代においても律法は聖霊の働きと共にあり、それは不要ではなく、信仰生活の不可欠の要素であることを知る。Philip E. Hughesは、次のように言っている。

「使徒は、『律法はそれ自体が悪いもので死をもたらすものだ』とは言っていない。逆に彼は、律法は聖く良いもので、生命に至らせる(ローマ7:10)と言っている。そして、彼は「律法の義を行う者は、それによって生きる」という旧約聖書の教義を是認している(ローマ10:5、ガラテヤ3:12、参照レビ18:5、ネヘミヤ9:29、エゼキエル20:11、13、21、箴言4:4、7:2、ローマ2:13)。
さらに、これは、我らの主の明白な教えである。(参照マタイ19:17、ルカ10:28)。パウロは、律法について悪く言うようなことは決してなかったという意味で、キリストの忠実な追従者であった。事実、キリストは、律法を成就(fulfill)するために来たのであり、それを破壊するために来たのではない(マタイ5:17)と言われる。そして、パウロの教義の目的も、律法を建て上げるためであった(ローマ3:31)。ここで(即ち第2コリント3:6で)パウロは、決して律法への攻撃をしているわけではない。我々が前にも観察したように、律法は、古い契約に優るとも劣らず、新しい契約においても、必要不可欠な構成要素なのである。」24