キリストが永遠の体である「御霊のからだ」を得たのが、アダムに連なる肉体の死の後であったことは、我々の朽ち行く肉体が刑罰に合わないにしても、やはりそこには限界があり御国を相続することはできないことを示している(第1コリント15:50)。キリストの復活は、物質等について言えば、この新しい肉体を中心とする物質世界の初穂であるが、この現世界において復活が続いて起こったことはなく、復活は全聖書を通じて、終末に起こることとして啓示されている(ダニエル12:2、黙示録20:12)。
以上の事実から言えることは、人間の肉体と物質世界は、業の契約の呪いの影響を受け続けており、物質世界における贖いの結果は、終末に続く新天新地において与えられ、現在は、御霊の命の約束を受けつつ忍耐する時期であると言うことである(ローマ8:19―23)。
ここから、次のように結論づけることができる。
神の国の拡大には、二つの側面がある。対人間において、我々は和解の務めを負うものであり、人間の再生に関与するという意味で、新世界に連なる連続的な働きをすることができる(第2コリント5:18―19)。
対世界において、我々は被造世界を神の律法の元に秩序立て、神の栄光を現す文化を築き上げる使命を負うが、それは、永遠の世界に対しては非連続であり、業の契約の呪いの影響の元にある世界は、神自身の御手によって復活されるまでその崩壊性から自由にはならない。これは人間の肉体についてもそうである。これは刑罰という意味ではなく、約束を持ち待ち望む信仰による忍耐の時期という意味においてである。しかしRushdoonyは被造物の回復について次のように言っている。
「堕落以前、人間がエデンの中で平和に住んでいたように天地も動物も同じように暮らしていた。彼らの平和は、人間の罪によって破壊されてしまった。パウロはこう宣言している。『全被造物が』熱心に、救いと回復がキリストを通して、又、神の子どもたちを通してもたらされることを待っている、と。
この平和の回復は、キリストの再生的働きによって人間が生命に復帰した時から始まる。人間は今や新しい創造である・・・。」(R. J. Rushdoony, Ibid., pp.778-9.)
ここにおいて、彼は、万物の回復はこの現世界(新天新地と対照して)において、人が新生した時からはじまると言っている。物質界も再生に与るというのであるが、我々は聖書本文からこの問題を直接検討しなければならない。
パウロは、ローマ8:19―23において次のように言っている。
19.被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
20.それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
21.被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
22.私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめ企図もに産みの苦しみをしていることを知っています。
23.そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、即ち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
被造物は切実な想いで神の子供達の出現を待ち望んでいる。
それは、被造物自体も滅びの束縛から解放されるからである。それではその滅びの職場からの解放はいつ実現するのであろうか。
そのためにまず「神の子供達の現れ」が何を意味するのか、そして、それはいつ起きるのかについて調べたい。Rushdoonyは、先の引用の中で「これは新生を指す」と言っている。もし新生を指すとすれば、被造物が解放されるのは、この現世界においてであるということになる。
19節の「現れ」は、原語ではαποκαλυψιsという言葉である。この言葉は、2つの言葉αποとκαλυπτωからなる合成語である。αποは接頭辞として「取る」という意味を有する。またκαλυπτωは「覆う、被せる、ベールで覆う」という意味であり、2つの意味を合成すると、「ベールで覆われていたものからベールを取って現す」という意味になる。Thayer's Greek English Lexicon of the NT 35は、αποκαλυψιsの意味として次のように言う。
「an uncovering, 1. a laying bare, making naked, 2. a. a disclosure of truth, instruction, concerning divine things before unknown - esp. those relating to the Christian salvation - given to the soul by God himself …」
ここに示されている他の例もすべて、この言葉が「何かもともとあった知られざる実体が、ベールを取って本当の姿を表わす場合」に使われるということを示している。そして、ローマ8:19の用例については次のように言っている。
「the event in which it will appear who and what the sons of God are, by the glory received from God at the last day」
即ち、神の子供達の出現とは、終わりの日に起こる出来事を指すというわけである。
クリスチャンは皆、内に神の霊を持っているが、外見は朽ちゆく肉体を身にまとっている。しかし、終わりの日に、すべての人の復活の時クリスチャンは栄光の姿に変えられて、実質に見合った外貌を備えるということがここで言われている。
生まれながら霊的に死んでいた(エペソ2:1)者で、「暗闇」(エペソ5:8)であった人間が、新しく生まれ変わり、生命を持ち(第2コリント5:17)、光となった(エペソ5:8)ことを表わす新生を表現するに、このαποκαλυψιsはふさわしくない。
ジョン・マーレーは「神の子供達の表れ」と関係している万物の再生は、使徒3:21にある「万物の改まる時」(αποκαταστασιsπαντων)が示している再生と同じであろう、と言っている。マタイ19:28「世が改まって」(παλιγγενεσια)もしばしばこのように訳されてきた。第2ペテロ3:13の新天新地がこの再生を指していることには、疑いの余地はない。そして、この「私たちは、・・・正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」は究極的終末を意味し、「神の子供達の現れの時に被造物が楽しむであろう解放」の状況描写は、これ以上の高く究極的な栄光にいかなる余地も残していない、と言っている。36
従って、我々は19説の神の子供達の現れとは新生ではなく、究極的救いである「栄化」を指していると結論することができる。これゆえ、19ー28節から「被造物が待ち望んでいるのは、クリスチャンの栄化の時であり、その時、被造物は滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由に入れられる」ということを知る。
次に22ー23節を検討することによって、被造物の現世界における漸進的回復の可能性についてさらに探ってみたい。
原文は次のとおりである。
22 οιδαμεν γαρ οτι πασα η κτισιs συστεναζει και συνωδινει αχρι του νυν
23 ου μονον δε, αλλα και αυτοι την απαρχην του πνευματοs εχοντεs και ημειs αυτοι εν εαυτοιs στεναζομεν υιοθεσιαν απεκδεχομενοι την απολυτρωσιν του σωματοs ημων
23節において、ου μονον δε, αλλα καιの構文が用いられている。これは、英語では、not only~, but also ・・・の構文であり、「~だけではなく、・・・も」という意味である。これは22節を受けている。この節では、被造物はともにうめき共に産みの苦しみをしている、と述べられている。この文の主動詞はσυστεναζει、とσυνωδινειであるが、これを受ける次節の主動詞はστεναζομενである。23節は新改訳では主動詞も「待ち望んでいます」であるかのように訳しているが、απεκδεχομενοιは分詞であって主動詞ではない。従って本来は、「待ち望みながら、うめいています」と訳すべきである。22節と23節は、同じ語源から出たσυστεναζειとσυνωδινειによって対照的に語が配置されている。即ち、22節では「全ての被造物(πασα η κτισιs)は共にうめいて(συστεναζει)いる」と述べ、それを受けて23節では「被造物ばかりではなく(ου μονον δε, αλλα και)私たち自身も(ημειs αυτοι)、うめいている(στεναζομεν)」と対置されている。
それでは、23節では何を求めて「私たち自身」はうめいているのであろうか。それは、υιοθεσιαν(子にしていただくこと)つまり、απολυτρωσιν του σωματοs ημων(私たちの肉体の贖われること)[をαπεκδεχομενοι(待ち望みながら)しているの]である。即ち「栄化」のことである。23節では、「私たち自身も、被造物と同じように、(私たちの)肉体の贖いを待ち望んでうめいている」という内容となる。
23節は、22節を受けて、このように言っているのだから、もともと22節においても、被造物がうめいて、産みの苦しみをして待っているものがそこにあるはずである。それは何であろうか。何を求めて、被造物は共にもうめき、共に産みの苦しみをしているのだろうか。それは、23節と対照して見ることによって類推することができる。
次のように整理すると分かりやすい。
http://millnm.holy.jp/...
22節において、全被造物が共にうめいている目的は、23節から全被造物の贖いであることが類推される。それは先にも見たように、21節にある「滅びの束縛からの解放と、神の子供たちの栄光の自由の中に入れられること」を意味する。
さて、クリスチャンが、その肉体が贖われ、栄化されるのは、終わりの日、キリストの再臨時であることは明らかである(第1テサロニケ4:16、第1コリント15:52など)。
22節と23節で「私たち」も「被造物」も同じようにうめいているという場合、「私たち」の肉体の贖いの実現は、再臨時まで待たねばならないのに、被造物の回復だけは、現在すでに漸進的に進行しているというのはおかしいので、被造物の解放、回復も、クリスチャンが肉体を贖われる時まで待たねばならないことになる。
これ故に、次のことが結論づけられる。非人格的被造世界の回復は、この現世界において、クリスチャンの再生ととともに進行するのではなく、それは、新天新地が到来することによって実現する。
それでは、聖書の中に出てくる様々な「回復(restoration)」の記事はどのように考えればよいのだろうか。イザヤ65:17―25は、新天新地の様子を現世界にある物によって比喩的に表現したものであって、現世界が発展し、この記事のようになるというわけではない。出エジプト23:25―26において、契約履行に伴う祝福が書かれている。パンと水の祝福、病気の除去など・・・。長寿(出エジプト20:12)、戦争の勝利(申命記28:7)、雨の祝福(12)、家畜や地の産物の増加(11)など、人々が律法を行うことによって祝福が訪れることが約束されている。
確かに、祝福はあるが、これをさらに発展させて人間が守り行えば行うほど土地が回復し、豊作になり、ついには原初的状態に復帰するというような回復(restoration)への連続は、聖書において保証されていない。これはあくまでも祝福として存在するのであって、回復の業ではないのである。
Bahnsenは次のように言う。
「全く明らかなことだが、遵法的な国民に約束された状態は、天国そのもののように思われる(天国は回復された!)。そして、確かに、それらの状態は終末に来る新天新地において完全に実現するだろう。」37
ここにおいて、律法の効用について大きな混乱があるように思われる。律法に対して従順であることは、大きな祝福をもたらすことは事実である。38 しかしそれは祝福なのであって回復ではない。律法は、この虚無性と崩壊性を持つ被造世界の中で、その傾向に抵抗する働きを越えることはないのである。
もちろん律法を法律の基礎に据えたことによって、近代市民社会は大きな政治的自由を得、又、領域法としての科学的法則の発見と適用によって大きな科学的進歩を獲得した。又、経済法則の発見と適用によって大きな経済的な発展も可能であったかもしれない。しかしこれらの律法の効用は、被造世界の基本的な傾向を止める事は出来ないのである。被造世界は常に崩壊し、虚無と無秩序に向かっている。これは新天新地が現世界にとって代わらない限り続いていく。「人間は被造物の冠であり、その堕落は、治めるべきすべての領域に対して、崩壊の連鎖を引き起こした。ただ贖いの完成によってのみ宇宙は、人間の罪によって被った呪いから解放される。」(The Zondervan's Pictoral Encyclopedia of the Bible, "Fall", p.493.)このように今日でも、物質界における崩壊と虚無性は進行している。