エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。
また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」
エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、
エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。(1列王記19・14-21)
1.
これは、イスラエルが危機的状況に陥ったときの話である。
イスラエルの人々は、神の契約を捨て、祭壇をこわし、預言者たちを剣で殺した。ただエリヤだけが残った。
しかし、彼らはエリヤのいのちを取ろうとねらっていた。
神の国は、絶望の一歩手前で回復する。
神は全能者なので、神の国が滅ぶことはありえない。
最後の人エリヤには、後継者が与えられた。それが、エリシャである。
そして、エリシャには次の味方が与えられた。
1.アラムの王ハザエル
2.イスラエルの王ニムシの子エフー
3.バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった7千人
エリシャの軍団は、神の権威を帯びているので、無敵である。
ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
ハザエル→エフー→エリシャの順番は、外国→イスラエル国内→神殿内という順番である。
神の敵は、イスラエルの外で殺される。たとえそれを逃れて、イスラエルに入っても、イスラエル王によって殺される。たとえそれを逃れて、神殿に入っても、預言者エリシャによって殺される。
神殿は、どの社会にとっても中心である。
あらゆる社会は、その社会の神とその教えを中心に回っている。
敵が神殿を破壊し、そこを支配したら、その社会は滅んだも同然。
神の国は、ハザエル→エフー→エリシャの三重の防衛によって守られている。
「キリスト教のヨーロッパ」は、啓蒙主義者(イルミナティ)が神殿(教会や学校)の中に入って、その神ルシファーを玉座に据えたときに、死んだ。
「キリスト教のアメリカ」は、啓蒙主義から逃れた人々が作った福音派の教会の中に、イエズス会士が入ったときに死んだ。
教会は、イエズス会士マニエル・ラクンザが作ったディスペンセーション主義という教義を受け入れた。
ディスペンセーション主義の神は、イエズス会の神ルシファーである。
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今日の教会は、教義における攻撃を受けて、ほとんど廃墟と化してしまったが、ミレニアムが残っている。
われわれは、教義的攻撃を耐え忍んで「現代のエリヤ」として立てられている。
われわれは、神の預言者としてイエスにあって召されている。
われわれが、聖書から離れず、神に忠実に仕え、エリシャのように、敵を神殿で撃退するならば、神の国は保たれる。
この記事から学べること:
(1)神の国はギリギリのところで残る。
(2)神の国は三重の防衛によって守られる。
(3)教義的敗北は「敵による乗っ取り」である。
2.
エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、
エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。
エリヤがエリシャを見つけたとき、エリシャは、12のくびきの牛を先に立て、その12番目のくびきのそばで耕していた。
12はイスラエル12部族、すなわち、神の民を象徴する。
1くびきで2頭ずつと考えられるので、合計24頭の牛を使用していた。
これは黙示録の24人の長老を彷彿とさせる。
これらの24人の長老たちは、12部族の2人ずつの証人であった。
律法では、1つの事実は2人によって確認されなければ証言として認められなかった。
彼ら24人は、神の預言者であり、神の御心を世に示す役割を果たしていたので、教会が世界に対して神の預言者として立てられていることを象徴している。
それゆえ、この象徴から「エリシャはすでに、神の預言者として立てられたイスラエル民族を整える役割を与えられていた」と解釈できる。
エリシャは、神に召されたとき、即座に従った。
エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。
24頭の牛は、非常に高価である。エリシャは金持ちだった。
その財産を放置した。
自分の財産をすぐに捨てるほどに、神の国に関心があった。
これは、ヤコブの兄エサウとは対照的である。
エサウは、空腹のため、一杯の煮物と引き換えに長子の権利を売った。
霊的な世界について無頓着だった。
「人が献身して神の働きをしようが、教会を建てようが、どうでもいい。神の国?神の国より自分の立身出世だ。」と考えるような人は、エサウのタイプ。
エリシャは、神の国の拡大に関心があった。
ほとんど廃墟と化していたイスラエルを立て直したいと思った。
神の民としてのイスラエル人をもう一度預言者の民として整えることを望んだ。
だから召命を受けたときに、すぐに従った。
「私の父と母とに口づけさせてください。」
エリシャは、一家の大黒柱だったが、家族を捨て、父母を神に委ねた。
一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。
家族の生産手段であった貴重な牛を2頭殺し、貴重な「牛の用具」でその肉を調理し、家族の者たちに食べさせた。
神の国を立て直すために召された人は、後のことを神に委ねているので、生計を立てるための手段をダメにできる。
イエスに従った弟子たちも、生計を立てるための手段であった網や舟を捨てた。
イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。(マタイ4・18-22)
今日的な常識から言えば、「網を捨てる?舟を残す?無責任だ!残された家族はどうするのだ?」となるかもしれないが、神の国のために献身した人々は、「すぐに」生計を立てるための手段を捨て、すべてを神に委ねた。
ヒューマニズムの倫理は、聖書の世界では通用しない。
「二人の息子ともいなくなったら、残された父ゼベタイの老後はどうするのだ?」
神は全能の力で、すべてを面倒見てくださる。
召された人は、ひたすらに「神の国とその義」を追求すべき。
人間的な心配をするな。
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9・62)
舟が波をかぶっても、寝ておられたイエス。
父なる神が、われわれのいのちについて心配してくださるとご存じだったからである。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6・31-33)