1.

「福音がないままに死に、救われるチャンスを与えられなかった人々はかわいそうだ」というような考え方を、人間教(ヒューマニズム)と言う。一見すると愛情ある考えに聞こえるが、実際は、次のサタンの言葉と似ている。


「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3・4-5)


この二つの言葉は、「神は人間が幸せになることを邪魔している」という訴えにおいて共通している。

サタンは常にわれわれに「神を裁きなさい」と誘惑してくる。

人間は、神の僕として創造されているので、神を裁くことはできない。神を裁く立場に立つとき、人間は疑似神となる。

アダムが善悪の知識の木から取って食べたとき、クーデターを行った。人間が神よりも上位に立った。

人間に許されているのは、神を基準とすることだけ。

神の言葉を評価するのではなく、ただ信じることだけが許されている。

2.

この世界のデフォルト設定は、「アダムの子孫はみな、憐れみを受けることなく滅びる」である。人間はみな、生まれながらに罪人であり、それゆえ、生まれながらに一切の憐れみを受けることなく滅びて地獄に行く定めである。

イエス・キリストによる救いは、そのデフォルトで地獄に行くことになっている人間に対する「特別ボーナス」である。

宝くじが当たったみたいなものである。それは、自分の労働に対する報酬ではない。あくまでも「恩恵」。

3.

人間は、自分の救いのために「労働」できない。なぜならば、自分を救おうとすればするほど罪を犯すからである。

神の救いにあずかろうと努力する過程で、必ず偽善の罪を犯す。善行をすると「自分はなんて善い人なのだろう!」とうぬぼれる。

泥靴をはいて部屋を掃除する人のようなものである。掃除すればするほど泥を落としていく。永遠に自分を救うことはできない。

4.

人間が救われるには、代償の死が必要である。完全に罪のない人が身代わりに死んで、刑罰を受ける以外に救われる道はない。

神は、デフォルトで地獄に行くべきわれわれのために、御子を使わし十字架につけて処刑された。この特別なプレゼントに対して「福音を知らないで死んだ人はかわいそうだ。神は非情だ!」という人は、あまりにも傲慢であり、あまりにも図々しい。

同じ罪を犯して刑務所に入っているAとBがいたとする。
ある篤志家が現れ「Aさんのために身代わりに刑務所に入りましょう」と言った。Aは晴れて自由の身になった。
それを見たBが「Aだけずるい。私のために何で刑務所に入ってくれないのか」と文句を言った。Bは正しいことをしただろうか。
Bは自分の罪のために刑務所に収監されている状態がデフォルト。身代わりが現れないのが普通。どうしてAを助けた篤志家を批判できるだろうか。