先日、とある友人と、ヘルパーの仕事や施設で暮らすことについて
マジメに話し合ったときのこと。
私たちにはとても想像できないような様々な人生を送ってきた、
人生の終焉を迎えた人たちが縁あって同じ建物の中に暮らしている。
その人たちの他人に対する接し方や態度を見て『あ~、この人は
こういう考えを持った人なんだな』とか、こういうところは好きだけど、
こういうところは嫌い、などと個人的な評価も織り交ぜながら、ある時は
優しく、ある時は平静を装って(苦笑)接している。
人って、そうやっていろんな人と関わりあって生きていくんだよね、
なんて、今さらながら考えさせられることも多い日々。
老人たちの人間関係を客観的に分析調査しているように見えるけど、
そういう私たち(同僚たちと)の人間関係を、老人たちも観察して
いるんだろうな~
そんな他愛もない話の中で、普段なかなか話題にできないテーマ、
死について結構本音で話す機会がありました。
命あるものには必ず訪れる死。
でも残念ながら死期は自分では決められない。
最近では医療の発達で不自然な状態で生を保っている方も
少なくない。
私の勤めるホームにも様々な考えの方がいらっしゃるようですが、
ほとんどの方は次から次へと対症療法を行って、一日でも長く生きて
もらいたい、という希望に必死でこたえている方も多い。
(もちろん、ご本人の希望という場合もあると思いますが‥)
その一方で、あえて診断や治療(投薬)を受けずに、来るべき時(死)を
受け入れるという考えで入居されたという方もいる。
どちらが良いとか悪いとかではなく、やはり共通して感じるのは
ご本人の意思を尊重したい、という想い。
しかし、こういった治療を受けている方の多くはご自分の意思を
伝えられない方も多く、残念ながらご本人がどうしたいかを
伺うことができない。
私個人の希望としては、人間としての(生を全うしたうえで)機能を
失って人間社会で自分のチカラで生きていくことが不可能に
なった時は、ジャングルの象(←これはクマだけど)のように、
コッソリ群れから離れて一人静かに死を迎える、というのが理想。
生同様、死も与えられるもの、受け入れるものとして自然にまかせる、
ことができないから医学や宗教が発達したんでしょうけど(;´▽`A``
どこで自分の人生に幕引きするか、その時自分の意思は
尊重されるのか、死ぬことは権利として認められないのか‥etc
(もちろん、自殺は絶対ダメですけど)なーんてことを、
とりとめもなく話していました。
結局答えなんかでないけど、こういう話をちゃんとできるように
親やパートナーとの関係を気づいていきたいね、ということで
お開きとなりました。
死に関してもそうですが、イヤなことから目をそむけずにキチンと
向き合っていけば、それは単なる恐いものではなくなるはず。
こういう話ができる友人て、やっぱ貴重だな~
感謝感謝