【ボツ】


無が相にあらはれるのである。歴史はそのあらはれた跡である。月宮殿はその全ての無の宮である。


無があらはれるとはどういうことか。内面的に観てみよう。


例えば岡先生第一の発見時、何もやることなく二ヶ月ほど経ったある日、何となく考えてみたいなぁという気がして、暖炉の前で座っていたと。この「なんとなく考えてみたいなぁ」が、まさに無があらはれようとしているのである。


私の場合も言っておこう。去る12月5日、やっと札幌も雪が積もった。私は先月の11月9日あたりから第二次精神統一が切れて、放心状態が続いていたのである。それで、その雪の積もった日、夜の帰り際、なんとなく家へはまだ帰らず散歩してみたいなぁという気がした。そして大学へ行って散歩した。そしたら実になつかしかった。そして雪がちらりちらりと降りくるのを見て、ああ本来の面目とはそうだったと思った(小我なき世界の今生的確認)。そしてできた歌が「白妙の雪の夜道に物思へば深き心ぞあらはれにける」である。


かように無が相にあらはれるのです。これは何も人だけではない。また生き物だけでもない(天地の再生を一括して見れば、大宇宙はひとつの生き物だと思えるでしょう)。




さて、日本歴史を見るのにそもそも進化とは何かということを考えなければならない。それは日本歴史は進化してゆく有様の一片だからである。


進化のあらましは、まず素粒子があり、それが原子をなした。次に分子、高分子となり、星が出来た。そしてある星で単細胞ができた。多細胞生物ができた。目ができて、魚ができた。上陸した。恐竜になったが絶滅した。今度は哺乳類が進化の道に入り、猿人ができた。その後人となり(天孫降臨)、旅を始める(出アフリカ?)。巡りに巡って列島に入る。勿論列島は造化が用意してくれてたのですよ。そこからは縄文弥生古墳…と続くのである。


さて、何故一部の生物は人になり、一部はそのまま止まったか。こういう問題があるが、これと、なぜ一部の粒子だけ生物になり、一部は物質に止まったか。この問題とがまったく同じであると思えるかどうか。


兎に角無が相に現れるのである。