こんばんは。
このごろ第二の心というものがはっきりわかってきました。もうこれが当たり前,これを認めざるを得ない,だって実際そうなってるじゃないか,と思える程にわかってきました。そんな中,今日,久々に岡潔先生の「紫の火花」を読み返してみました。すると色々思うところがありました。そのうちのひとつをちょっとお話したいと思います。
「春の日射し」の始めの方に,自分とは何かという問題を提起するところがあります。そして取り急ぎ二種類の自分を用意します。ひとつは,
自分は損をしたとか,自分は得をしたとかいうように使っていることが多い
時の自分。もうひとつは,
漱石はこういう人で,芥川はああいう人で,佐藤春夫はそういう人だとかいうふうに使っている
時の自分。
で,岡先生は言われる。「この第一種類の自分を自分と思っていると,死ぬのが恐ろしくなるものらしい」と。一方,「真善美妙の路を歩む人は,何となく第二種類の自分を自分と思っている。それであまり肉体の死を恐れないのである」と。よく納得する所である。私も,願はくば今生は長い旅路の一日であると心得て,無限向上の路を歩みたいものである。
しかしこんなことを思うのである。例えば自分が一国一城の主であると仮定した場合に,何か御公儀に見逃せない不正を見たとしよう。ここで本当ならば,「消えざるものはただ誠」,命を掛けるとか掛けないとかそんなことを迷う間もなく諫めるのが筋だと思う。しかし,そう思うのも竹の節の間,必ず次のような念が起こる。「いや,もしそんなことを言ったら我が家臣たちは今後何を頼って妻子を養ってゆけばよいのだろうか。こんな不肖の我が身に今までついてきてくれた御恩,何によって報ずればよいのだろうか」と...。実にむつかしい問題である。(因みにあまり関係ないが,越後守仲時は死を以て家臣に報いたわけである。)
さて,このように考えてゆくと,どうも小我といっても色々あって,情の通った小我もありそうな気がしてきますね。しかも日本人の場合はそれが多いように思う。
私は仏教(大乗仏教は特に)を詳しくしらないが,しかし仏教における苦しみの原因として紹介されるのは,何か,本能だとか何だとか,つまり真心故の自縛というものについて触れていないように思える。
返しきれない程の恩を感じたら,そこと絆を結んだことになり,自分の立場が確立してしまうわけである。まさに一家の主として妻子を養うこともそうだし,あるいは義理なんてのもそうだし。しかしそうなると,我が配下の者に影響が及ぶ場合は,頭としての自分は造化の心のまにまに身を処すことはなし難く,どうしても家臣保護に回るのだろう。これは,何か準小我のような感じがしてきますね。かといって妻子を置き去りにするのは誠に忍びない。
本当に生きようとする者からすれば,この世の中というのはまことに生きづらいものであると仰った岡先生の御言葉,身に染みる思いが致します。
世の中を何にたとへん朝ぼらけ
漕ぎ行く舟の跡のしらなみ