♀へ性転換実話
彼との別れは
電話口で、だった。
なにごとも
崩れるときは一瞬なのだと、
よく耳にする。
しかし。起こるできごとには、すべて、
予兆というものが
あるだろう。
気がつくか気がつかまいかは
さておきとして
たとえば内側がじりじりと
腐敗していたり、
あるいはつみかさねるパーツの
わずかなズレが
さらなるズレを産んでいたりして、
予兆はしだいに
かたちをおびてゆくものだとおもう。
わたしはうんと前から、彼とのあいだに、
別れの予兆を感じていた。
わかっていたんだ。
彼は、わたしから
離れてゆこうとしている。
そういった
声なき声を、発していること。
だから
電話口からきこえた彼のことばに、
それほどの
驚きはなかった。
むしろ自然なことだとさえおもえた。
水は、高いところから
低いところへと流れる。
そういったことと
おなじだった。
――……そっか。
はは。やっぱり。
そう言うとおもってたよ。
電話口の、わたしの口調は、
強がりをいったようだったかもしれない。
けれども裏腹に
からだは。こころは。
とても清々しくて、
ここちよかったことを覚えている。
わたしはむしろ
あるいは求めてすら、
いたのかもしれない。
この幸せは、
出来損ないのわたしなら
失ってしまって
当然の幸せである。
どうせ失ってしまうものならば
早いほうがよかったのだ、
と。
いや、その。
なんていうか。
俺が悪いんだ。ごめん。
○○は悪くなくて。
どうして謝るの？
それに○○くんは悪くないよ。
謝らないでよ。
悲しくなるから。
あ、うん。
そうだよな。……ごめん。
わたしが外で、
かかってきた電話をうけたのは、
空気が透明で白みがかる
早朝のこと。
わたしは未明にアルバイトをおえ
帰路につこうと、
とぼとぼと駅前の裏道を
歩いていた。そのときに
電話は鳴った。
ふしぎであった。
電話を切って、
溢れてきたのは涙、ではなく。
ほくそ笑むほどの
ちいさな笑いだった。
また。帰る場所
なくなっちゃったなぁ。
そう思い、
かつてのお金だけで繋がっていた
面々からの、
幾つものメールをひらけてみる。
たくさんの未読メールがたまっていて、
どれも欲望が露呈する
あわれな文面の数々。
いや、ちがう。
あわれなのは、
どっちだ。
わたしはめをつむって、
深く深呼吸をする。
いまだ穢れることをしらない
朝の清廉な空気が、
わたしの腐敗した内側から
ゆびさきの隅々にいたるまでを
風になって泳いでゆくような感じがする。
この白い朝の世界のなかで、
わたしという存在だけが
浮いて。
地に足がついていないように
おもわれた。
それがどうも、
どうにも。
はずかしくおもえて
そして。
とても不快であった。
わたしはビルで埋まる
窮屈な空をさがしながら、
今日は――、家に、
帰ろうかな。
そうおもった。
どうにもからだが疲れてしまって、
おもったように歩くことができない。
ちいさな笑いがとまらなくて、
そのうちしだいに、笑い声だって出てくるほどだった。
平日の実家だ。
親は共働きであるし、今日は、
二人とも会社へいっていることであろう。
それなら両親と顔をあわせることもない。
ちょうど食料も補充しなければならないし、
そのほかの荷物だって、
彼の家においたままだから
こんな電話の後じゃあ、
とりにゆくのもはばかれるわけで。
またあてもなく、さ迷う生活にもどるのなら、
どのみち近いうちに実家に戻って
ひつような衣服も補っておかなければならない。
ともかく家に一度、
帰らなければならないことは
必至である。
あと。時間がゆるすならば、
すこし眠りたい。
いま。
あたたかいお布団で
横になりたかった。
正午。
わたしは時間をみはからい、
久々に、実家へと帰ってきた。
玄関ドアのカギをまわし、
とびらをすこしだけあけてみる。
なかに人の気配はない。
大丈夫。
誰もいない。
ひとつため息をついて、
ぐっとからだを持ちあげた
そのときであった。
――ったく。やっと帰ってきた。
そう苛だちながら
あらわれたのは、
母親だった。
わたしは息をのみ、
束の間。
貧血をおこしたかのように、
キーンという耳鳴りにみまわれる。
いまのわたしのみなりは、
衣服やメイクもすべて
女のそれである。
そしてロングのウィッグもつけているから、
なおのこと。
ヤバい。
ばれた――……。
きびすを返そうにも、
にらみをきかされて動くことができない。
それにいまのわたしに、
逃げだせるほどの体力もなかった。
なに突っ立ってんのよ。
さきに風呂。着替えたら、
リビングにきなさい。
さきにちゃんと
風呂入ってきなさいよ。
あんた。臭うから。
母親はそういいのこし、
廊下をすたすたと歩いてゆく。
彼との別れ。
そのうらがわでは、
性転換するまでに至る
つぎなるステップへの予兆がすでに、
かたちをともないはじめていたのだろう。
わたしはそれに
気がつくことができないでいたんだ。
そして避けつづけてきた、
けっして避けてはとおることのできない、
家族との問題が浮上してくる。
わたしは怒った母親の後ろ姿を
ただ、呆然とながめながら
立ち尽くすしかなかった。
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