王さん 永遠なれ
王さんが引退した。
僕は、王さんの全盛期を知らない。
でも、いつもどこかに、物心がついた頃から
自分の周りには
王さんがいた。
通産700号を打った年、僕は小学校2年だったと思う。
715号よりも700号が強烈に残っている。
699本からあと1本がなかなか出なくて
打順も4番から3番にあがるなど
当時の長嶋巨人も王さんの為に打順を組みえたほどだ。
756号も印象深い。
後楽園球場のデーゲーム。対戦相手はヤクルト。鈴木-大矢のバッテリー。
王シフトをものともせず、ライトスタンドに高々と打ち放った。
王さんはダイヤモンドゆっくりと踏みしめるように一周した。
それまでのハンク・アーロンの持つ記録755号を打ち破る
「世界の王」になった瞬間だった。
通産本塁打868本。前人未到の世界記録。
現在MLB・ジャイアンツのバリー・ボンズがもっとも近い位置にいるものの
年齢と体力、またプライベート面からしても塗り替えるのは容易ではない
(怪我が多く、また薬物疑惑などで近年は全試合出場していない)
王さんは引退した年、30本ものホームランを打ちながら
「王貞治のバッティングが出来ない」の一言で、
現役を終えた。
(同年、長島監督も引責辞任している)
翌年、巨人軍助監督として、藤田新監督、牧野ヘッドコーチと、「トロイカ」体制で新スタートをきる。
この年、まさに巨人軍は見事なまでに世代交代がなされた。
それまでの、V9時代経験者中心の時代から
チームはばっさりと若返る。
その年のドラフト1位には、東海大の花形、
原辰徳(現巨人監督)を1位で獲得、
投手陣は江川、西本、定岡の3本柱を筆頭に
押さえは炎のストッパーといわれた角三男、
キャッチャーは早稲田大出身の山倉、
打線も、青い否妻松本、ディレイスウィング
王さんが引退した。
僕は、王さんの全盛期を知らない。
でも、いつもごこかに、自分の周りには
王さんがいた。
通産700号を打った年、僕は小学校2年だったと思う。
715号よりも700号が強烈に残っている。
699本からあと1本がなかなか出なく、
打順も4番から3番にあがるなど
当時の長嶋巨人も王さんの為に気を使っていた。
756号も印象深い。
後楽園球場のデーゲーム。対戦相手はヤクルト。鈴木-大矢バッテリー。
王シフトをものともせず、ライトスタンドに高々と打ち放った。
王さんはダイヤモンドゆっくりと踏みしめるように一周した。
通産本塁打868本。前人未到の世界記録。
現在MLB・ジャイアンツのバリー・ボンズがもっとも近い位置にいるものの
年齢と体力、またプライベート面からしても塗り替えるのは用意ではない
(怪我が多く、また薬物疑惑などで近年は全試合出場していない)
引退した年、30本ものホームランを打ちながら
「王貞治のバッティングが出来ない」の一言で、
現役を終えた。
(同年、長島監督も引責辞任している)
翌年、巨人軍助監督として、藤田新監督、牧野ヘッドコーチと、「トロイカ」体制で新スタートをきる。
この年、まさに巨人軍は見事なまでに世代交代がなされた。
それまでの、V9時代経験者中心の時代から
チームはばっさりと若返る。
その年のドラフト1位には、東海大の花形、
原辰徳(現巨人監督)を1位で獲得、
投手陣は江川、西本、定岡の3本柱を筆頭に
押さえは炎のストッパーといわれた角三男、
キャッチャーは早稲田大出身の強肩山倉、
打線も、青い稲妻・松本が好球必打または四球出塁し
2番河埜のディレイスウィングで2盗、
3番篠塚適時打で先制点、
中畑、原、ホワイトのクリンナップで追加点
という新たなパターンを確立した。
その年、このトロイカ体制の巨人は
リーグ優勝し、日本シリーズも
大沢監督率いる日本ハムも破り、日本一に輝いた。
このカードは、両チームが後楽園球場を本拠地としため
ユニホームとベンチが入れ替わるだけの珍しいシリーズだった。
(たしか優勝を決めたのは、キャッチャーフライを補給した江川だったと記憶している)
ダイエーの監督時代、それまで万年Bクラスだったチームを
遂に優勝に導く。
それまでのひどい罵声、誹謗中傷にもめげず
辛抱した結果のことである。
その直向さが、地元福岡の心をつかんだ。
「世界の王が、博多の王」になった」と。
ダイエースパイ疑惑というのがあった。
このとき、王さんは真剣に球界からの永久追放を覚悟したという。
人一倍責任感の強い王さんならではのエピソードだ。
ワールドベースクラシック(WBC)。
王さんはジャパンチームを率いることになる。
予選でライバル韓国に2敗を喫しながらも
本線ではその韓国や米国、キューバといった強国を倒し、この記念すべき第1回大会の胴上げ監督となった。
アマチュアの祭典といわれる五輪とは違って
この大会はまさにプロ同士のガチンコ勝負。
イチローは、五輪チーム招聘はかたくなに拒んだが
WBCに参加した理由はここにある。
そして、なにより、監督が
王さんだったからだそうだ。
※この大会は、野球の聖地、米国で開催されたにも係らず、
相次いで誤審がでたり、米国の試合に米国の審判が主審を務めたり
まったく、アメリカという国のナショナリズムがぷんぷんと漂う大会だっただけに
この優勝は本当にうれしかった。
優勝の祝杯の場(ピールかけ)でのシーン。
王さんの
「諸君は素晴らしい!!!!!!」
の乾杯の発声が今でも忘れられない。
今日のラストゲーム。
対戦相手は、野村楽天。
ともにプロ野球のひとつの時代を築いた盟友だ。
先発は、ソフトバンクは王さんが現役引退した年に誕生した松坂世代の杉内、
楽天は、高校時代、王さんの母校「早稲田実業」と死闘を演じた若干19歳、まーくんこと田中
両投手の投げ合いとなった。
試合は延長の末、楽天がサヨナラ勝ち。
いみじくもサヨナラ打を打ったのは自分と同年代の山崎。
記憶に違いなければ
王さんは、母と同年だ。
ちなみに野村監督は父と同年代。
こじつけかもしれないが
これから球界を背負ってたつ中堅~若手世代への
2人からの演出めいたものを感じた。
※パリーグ優勝を決めた西武も若返り効果でのこと。
渡辺監督に大久保コーチら、首脳陣は軒並み兄の同じ昭和40年代だ。
試合後、楽天のスタジアムでは
野村監督から王さんへ花束の贈呈があった。
楽天のベンチからも王さんへの
惜しみない拍手やねぎらいがあった。
試合後のコメントでも、
「試合は負けたが、延長まで野球が出来たことを嬉しく思う」
と語っていた。これも、
できるだけ長く野球をやりなさい、、、という神様のいきなはからいだったのではないか。
王さんの東京のご自宅は、我が家と目と鼻先の距離にある。
一時、朝の散歩でよく前を通った。
レンガで覆われた素敵な家だ。
しばらくはマスコミなどでまた騒々しい日が続くと思うが
この町の誇りとして、いつまでも輝いてほしい。
(サッカー日本代表元監督のトルシエ氏の住まいもこのあたりだったとか)
とある新聞記者の話だ。
スポーツ選手や芸能人、文化人、政治家などにたいして
取材をするとき、また周囲と話し合うとき
大概は敬称はつけない。よくて肩書き程度だそうだ。
しかし、王さんは違った。
「王選手」でも、「王監督」でもなく、
いつも「王さん」だったらしい。
王さんの周囲への気配りややさしさ、責任感など
一野球人である前に、一社会人、一人格者であった所以だろう。
(王さんの愛弟子ともいえる城島(ダイエー、ソフトバンク、現シアトルマリナーズ)が言っていた。
追う監督はいつも
「俺は優勝したんじゃない。お前らを優勝させたいんだ」と。)
王さんに始まり、小泉元首相、陸上の朝原、水泳の中村・・・
様々な分野で、ひとつの時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている。
特に今年、奇しくも同学年の桑田、清原が引退した。
この2人の存在は別格だった。
出会いも衝撃だった。
桑田は、3/22早生まれの自分より遅い4/1生まれだ。
そう、同級の中でもっとも遅く生まれた人である。
つい4ヶ月前まで14歳だった少年が
その年の甲子園で、背番号10のエースとしてあれよあれよの快進撃。
しなやかなフォームで相手打者をバッタバッタと三振にとる。
そして清原。
とても同じ年に生まれたものとは思えなかった。
甲子園通算本塁打13本は永遠の記録として君臨する。
朝日放送の名物アナウンサー、植草氏の、
清原がホームランしたときのあの名実況が忘れられない。
「きよはらぁぁぁぁ、お前は怪物かぁぁぁ、
甲子園は清原のためにあるのかぁぁぁぁぁ」
金属音とともにレフトスタンドへの大きな放物線を描く映像にのっての絶叫だった。
その清原のラストゲーム。最後の花束贈呈も
王さんだった。
清原にかけた言葉がこれまた忘れられない。
「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争しよう・・・」
PL学園3年のドラフトで、当時巨人と相思相愛にあった清原は巨人から指名されず
皮肉にも大学進学を希望していた桑田が巨人に入団。
その時くじを引いたのが王さんだった。
今日でパリーグペナントレースの全試合が終わった。
王さん率いるソフトバンクは今日の敗戦で最下位が確定した。
来シーズンは、秋山ヘッドが監督に就任することが決定。
今度は監督として「バク転」を見たいものだ(笑)
王さん。
僕にとって、ブルース・リーと王さんは
永遠のヒーローだ。
初現場にて
転職先決定以降、いわゆる「研修」を受けている。
最初は机上によるものと思っていたら、初日早々実技体験ということで
いきなり各カテゴリーをくまなく体験することになった。
「水泳」に「マシンジム」、「エアロビ」まで・・・
就職活動中、いや、それ以前から、
超・長いこと、身体を動かしていなかったため、
息あがりっぱなしのデビューとなった。
よくある「体験コース」ではなく、実際のレギュラーコースに混じっての参加の為
周囲はエキスバーターな会員様ばかり。ついていける分けない。
この日は帰宅後、バタン・キューとなった。
翌日から本格的にレクチャーが始まる。会社概要から、運営マニュアル、諸注意事項、勤怠まで
配布資料とにらめっこ状態で、長々とガイダンスが続く。
幸いにも研修担当者による内容がとてもわかりやすかったので、
研修にありがちな独特に疲労感はなかった。
そして、ついに現場デビュー。
予め申しあげておきますが、新たな職場は某スポーツ施設です。
そして遂に現場デビュー。
担当は「フロント業務」。いわゆる「受付」だ。
今まで即売などによる接客はあるが
本格的にこれを生業とするのは初めてだ。
この施設は会員制のため、ユーザーはメンバーズカードを受付で提示し
こちらをそれを預かり来店登録手続きをする。
登録後カードをお預かりし代わりにロッカーキーをお渡しする。
簡単だが、このサイクルだ。
しかしである。
今までの研修では上述のように、実践は学んでいない。
いきなりの現場、それもパソコンにレジ、スキャニング作業、キーの出し入れ、券売機など
一切の体験がない。
わかりやすくいうと、ゴルフの経験がまったくない状態で、いきなりコースデビューするようなもの。
なにがなんだかさっぱりわからない状態で、受付カウンターにたつ。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」等の声だしは
昔取った杵柄でなんとかなってはいたものの、
緊張のため、バーコードのスキャニングがうまくいかなかったり、
キーの保管先がわからなかったり
全身日焼けサロンなマッチョじじぃには
「ったく早くしろよ、おせぇんだょ」となじれらたり
あたふた状態の連続・・・。
おまけに、ここの会員様で
かつての同僚まで冷やかしのためやってきたりもして
ほろ苦いデビューとなった。
でも、ただでさえ、マイナスからのスタートだ。
周囲は皆若者。年齢も一回りどころか、半分以下の人もいる。
しかし何事も「社歴・芸歴」と考える私にとって、
それは謙虚に直向に、である。
(中には無愛想な小僧もいたが(笑))
終了後、当日学んでメモにしたことをメモにおさらいしようと
ノートを購入、帰宅後1から振り返ってまとめ始めたが
途中で表現にづらい疲労感に見舞われ
再び「バタン・キュー」となった。
デスク研修のそれと違い、やや長い睡眠となった。
そして、よく夢をみた。小刻みにショートストーリーが続いていく夢だ。
途中、 「NHKの勧誘」でたたき起こされたが
再び床に就く。
(そういえば、NHKって、訪問勧誘ってもうやらないんじゃなかったっけ)
ま、なにはともあれ、はじまったばかり。
焦らずコツコツ、やってきましょ。
内定
いばらの道まっしぐらであった就職活動も、ついに、ついに、ついに、、、
「内定」を頂いた。
思えば前職を退職してからここまでの道のりはまさに「いばらの道」。
持病の療養期間もあわせた約9ヶ月間。長いようで、もっと長く感じた。
転職という世界は、加齢とともに確率はが反比例するのか常だ。
前職時代に近い業態から着手していくのが賢明といわれる。
しかし、前述したように、小生のいた業界はこれでもかというくらいに
リストラの低年齢化が増し、四十路を過ぎたものには見向きもしない。
この業界への未練はないわけではないが、背に腹状態、かっこつけてられないので、
思い切って違う業界へのチャレンジを試みた・・・が、、、
「つぶしが効かない」。のである。
異業種の経験がないので、まったくその世界を知らないのである。
手に職があるわけでもなく、面接でも回答に困ること多数・・・。
正社員、契約、嘱託、業務委託、アルバイト・・・
肩書きなんて、もうどうでもよかった。
派遣業界にも足を運んだ。
交通費や写真、資料制作費など、「失職中」の身としてはとても堪えた。
連日の猛暑の中の活動。雨や台風にも出くわした。
合否の連絡をひたすら祈る思いで待つ心境。
いたたまれなかった。
1本の採用通知連絡。
その日は絵に描いたような爽やかな秋晴れ。
人目をはばからずの雄たけびだった。
理由なく、走った。ただ、ただ、走った。
兄への報告。
今件、一番心配してくれたのが兄だった。
朴訥ながらもお祝いの言葉を頂戴した。
直後、携帯メールが入る。
兄からだった。
心温まるメッセージに、
思わず涙腺がうるんだ。
それまでの苦労が、どこかへ吹っ飛んだ。
爽やかな秋晴れ。
視界に広がるその景色は
人生の中で、もっとも眩しいものとなった。