何でもない日々

何でもない日々

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僕は「能動なのか受動なのかどちらなんだ」と詰め寄ってくる言語を「尋問する言語」と呼んで、意志の概念と密接に関係しているのではないかと思われるのです。

 

古代ギリシャ語では「私は欲する」を”ファイノマイ”という中動態を使って、能動態が受動性をかき消しているかのような意味を作り出すのを批判的に検討した概念こそが「意志」として関わってきます。

つまり、「欲する」は中動態で、「水が飲みたい」時、私は少しも能動的ではありません。私は水への欲求に突き動かされており、寧ろ受動的意志とすら言える。

 

能動と受動の対立を改めて眺めると、この同じ事態を二つの表現として対立させるのだろうか?言語の整理には自発的に表れているのか、強制されていることを何としても区別するためです。

 

 

 

 

 

科学の決定論と対抗した不確定性原理と量子力学から

日本の住空間における柔軟性までを統括した、

Geminiと対話した驚きの発見結果の会話です。

 

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プライバシーの価値の問題を「疚しさがないならば

誰に見られてどう公開されてもいいのではないか?」
という問いに対し

「秘密を守る」という枠を超えて論理的に哲学的な

「尊厳と情報の規制」に対する議論はデジタル時代に於いて
自由な人格形成のために不可欠な「人間が人間らしく生きるための条件」

を問うものになっている。
「誰にどこまでどう見せるか」を自分自身でコントロール決定する権利」があってこそであるとした。

情報は医療、学校、職場、家庭ごとに適切なルールがあり、恣意的なそれを超えて流出することが
自由、安全ではないプライバシー侵害であるという考え方。

現代の規制は法律だけではなく、アプリの設計やAIのアルゴリズムというったアーキテクチャによって
行動を無意識に誘導(規制)していて、脳波や感情AIによっての監視資本主義は
ユーザーの個人の自由をどう奪い、行動データーをどう利益に変えるのかの仕組みを考察し続ける。

『観察資本主義ー人類の未来を賭けた闘い』/ショシャナ・スボフ
 

 

欲する能動態(アイウォント)と、欲する中動態(ブーロマイ)の対立から

能動態と受動態(現れる)の対立への移行には

どのような意味を持っているのか。

 

「私が何かを見せる」という動詞を中動態に活用すると

「私(自身)が現れる」という意味になる。

自動詞で表現出来る意味「私が現れる」も、

受動態で表現出来る意味「私が見せられる」も、

再帰表現(ファイロマイ)で出来る意味では

「私が自分自身を見せる」の三つが同意していることになる。

 

外国の人たちがレストラン等に赴いて、出された食材で乾杯することがあります。

食材は単なる栄養ではなく、

生命を維持させてくれる食料が確保出来たことを祝う文化

から「神からの贈り物」として「勝利」や「幸福」

のシンボルとして神聖化されてきています。

 

同じ食材を一緒に掲げ、分かち合うことは「仲間であり敵ではない」という信頼関係の確認を意味する。

各国での「乾杯」の意味として、多くは根底に健康を意味します。

食材の命を最大限に尊重して自分たちに取り込み、

お互いの健康や繁栄を祈るという意味合いがあります。

「食材の乾杯」には

素晴らしい時間、視覚的な楽しさを共有する

そのポジティブなエネルギーは全力で肯定されたの大きな意味

の一つです。

 

 

 

 

https://youtube.com/shorts/if9Rpihn9kA?si=LkzAyNErnMuqvpdL

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自然の世界には競争のプロセスをじて
劣悪な環境からでも搾取し受け取ったりしながら種を保存するための利他を当たり前のことにしてきた。


十七世紀の哲学者トマス・ホップスは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と言い、
人間のあまりにも闘争の側面に気を取られた在り方を利他的なものにしていくためには、
自然に対する捉え方を考えていかなければといけないかもしれないといった。


大阪で生まれ育った私の小学生の夏休みは母の田舎の鹿児島で過ごすことが多かった。
蒸せるほどの土と草の匂い、空気は澄んで風も微かながら汗さえ即座に蒸発させるほど暑いのに
空は深い群青色で、もくもく白い雲が青い山の奥に涼し気に鎮座している。
鹿児島の田舎は全て逆の説明が交換し発見され世界が刺激的で楽しんでいるようだ。

山を超えると砂浜になって、潮の香と波の音がする。
一直線のベージュの砂浜、青い海、止めどない白い波。
無邪気に浮き輪を持ってどんどん海に。波に溺れそうバタバタしつつも時々ゆらゆら。

 

 

 

 

 

 

噺は飛躍するが、ドイツの哲学者ヘーゲルは正→反→合。

という展開の果てに生まれる状態を止揚とした。

一つの仮説は、その反対の意見で批判され、最終的に磨かれ、

正でも反でもない第三の道を見出すというのだ。

 

この第二の「破」の視点は皮肉なことに主観的な感情を起動させ、

負の遺産のような挫折、逸れたやるせない経験などの悶々とした個人の経験が、

窮地からの逆転劇に圧倒的に役立ってしまうのである。

 

 

 

 

 

 

 

十八世紀には全ての分野を網羅する「百科全書派」という知識人もいたが
現代では自然科学、社会科学、人文科学と分かれた上に、
それぞれが細分化し更に狭い専門分野で高度知識職業を支配するようになり
二十世紀にはある意味でディシプリンまでもが縦割りとなり
「専門バカ」と揶揄されたりして、歴史の皮肉となって、
「頭脳的、管理的仕事」はかなりの部分が機械に委ねられるようになり、
技術を身体の外部に出すことが徹底された結果、
頭脳の中での作業までもが外部化されていく。

巨大市場となったネットサービスの価値は、
顔も名前も失った人々が、その能力を広く評価され存在を認められ、
閉じられた、不透明となった自分を消費を通じてそれを回復し、
人格を取り戻そうとする願いを表している。

グローバル化された金融や資源、情報の市場に於いて、
個人の興味も財布もそれに連動して動かされることになると、
反比例して不安な個人は自分に対するケアを求める傾向が増すのだという。

ダニエル・ベルは、多数の内の誰かから、
顔のある個人として扱ってくれる「人間が人間を相手に働く」市場によって
感動や共感、驚きといったものを供給する娯楽が
これからは求められるといい、もう一段個人の努力や要求が進むと、
機械と人間のインターフェイスによって、
多様化、多文化に対して柔軟な社会が循環し発展する余地が
これから大いに発展する可能性が期待できると予想した。
 
自然科学は教学的に或いは技術的に著しく近代化に向けて進展したが、
そのことは遺憾ながら本来的な自然存在から遠ざかり、
存在を通り過ぎ落ち着く場を失いつつ、
不安な状況の中で生きることを余儀なくされることを意味したのである。

ハイデガーは行き違いの根源は「存在の忘却」にある以上、
もう一度「存在の回想」へと存在論の軌道修正すべきという。
一見簡単なようで実は存在論の回帰は大認識論に浸りきった我々にとって
認識論に代わるべき思考法があるはずなのに、
その身に着け方を知らないので、
科学が複雑系に直面したときの戸惑いはそのことを如実にしている。

回想とは本質と実在の区別付け以前に戻って、
生成するものの在処に触れている境域に達し思考すること。
知性というものは新たなフレームを提示し続け既成の枠組みから染み出てくる。
それは奇を衒(てら)うことを狙うのではなく、
内側の根本の原理、土台を掘っていったが故に外側に出てしまうもの。
複雑とは(続く)
 
จำฉันวันนี้ - POTATO「Official MV」
 
 
 
2025-09-10 15:39:28に追記
2025-09-17 13:34:08に追記
「なぜ自分が」「あの頃は良かったのに」と嘆きつつも
ユニークな善良な人をも感情や心理的次元で人々は
不遇な理由と増悪する動機が低位にあると考えさせられ欺く。
現象学や生理的次元では原因でしかないことを認識すれば、
他人に対し余計なことを考えなくていはずだ。

約束と脅かしの少年期の世界を受け止めて
臆病な人の不器用、空腹や暑さ、寒さに佇む人の表情から
「悪意があるだろう」と予測する人の思考で
やがて自分も世界にそう働きかけていき、
送り返されるイメージに自分をすり合わせては
架空の敵を描き、重要性を持ってくるが故に意味ある敵を作り上げる。

スピノザは云う「私の中庭が卵の中に飛び込んだのだ」
人間全存在の通俗的な無意識は「運命の徴の解釈」が大きな場を占めている。
重要なのは心理が滑るままに小さくされるのではなく
魂のことを気にした途端そういう風に壊される。

この世の秩序は愛憎という無秩序に従って作られていれば
理性からの考察というものが何だか判らなくなるが、
自分の印象を動き回り固定せず眺めて観たり
十分に論拠を持つ現実性のある仮説として承知したり。

更に自分は今も尚「何かの喜びの始まり」として自分をそこで止めず
自然は科学の理性からでも導いていける。
そんな探求心ある暖かな、柔らかな被造物であると懸命に願うところには、
情けなくても科学に出会えたら感謝から微笑めるだろう。

呪いのような上辺の装いが
内に宿る道徳律を型取るとしても
束の間の愚かな生のあくせくを忘れ
偏見と悲観との山のような荷物を一緒に振り落とそう

一切を圧倒する堅実な感覚の身に囚われずに
ダイアモンドのような頭脳の上の永遠の宝物よ
明るい精神の高嶺を目指し
至上に楽しい思索する精神の星空の泉になり
相応しい天分が静かに微笑み
自ずから煌びやかに装い
遂には輝き出せ

dharmajāti (ดัม-มะ-ชา-ติ) ≠ bodyslam「Official MV」
再投稿のこの曲は鳥肌が立つほど大好きです。

2025-07-30 12:28:28に追記

挑み続ける女王の宮廷に尊敬すべきが流れ込み
僅かな自由を手にするより、
更なる高みと普遍的な広がりを求め
風や空の巨大な力に怯むことなく
夢の翼はどんなに遠くとも力の及ばない夢の向こう側となることはない。
明日に希望と知恵の両翼で飛んでいけるならば
私とあなたが共に微笑み合うように
揺るぎない互いの力になって償い、犠牲のなしで達成する。
プラトンは人生最高の価値ある目的は
一つの存在(一般者)の内包から
特殊で多様な外延知識を導き出すことといい、
なので哲学での「真善美」追求は根本原理の追求というより(以下略

พลังของพลัง TOON ARTIWARA x ALLY [Official MV]