8月15日
「終戦の日」
先人烈士英霊
黙祷
最敬礼
-終戦の日
8月15日以降も収まらない地があった
満州、樺太、千島列島の、ソ連との戦線である
「日ソ中立条約」を一方的に破り、
8月9日、ソ連は満州に侵攻してきた
戦車5,000両、飛行機5,000機、火砲24,000門、兵員174万名という圧倒的なものであった
一方の関東軍は、ほとんどの戦力が南方、本土に送られており、
わずか戦車200両、飛行機200機、火砲1,000門しかなかった
兵士には銃器さえゆきわたっていなかった
ソ連軍の南下は止めようがなかった
新京(現長春)にあった関東軍司令部も
撤退を余儀なくされ、
司令部は満州南の通化に移されていく
悲惨だったのは、関東軍司令部が撤退となり、
取り残された日本人たちであった
兵士はもちろんのこと、満州には、女性や子供達を含む、
数多くの民間人がいた
彼ら彼女らは、ソ連兵による容赦ない略奪、蹂躙にも哂された
大陸の満州から南下する部隊とは別に、
ソ連軍はまた、樺太方面から、
それにカムチャッカ半島から千島列島沿いに、
ニ経路に分け侵攻してきた
ここでも多くの日本の民間人が犠牲となっている
8月15日にポツダム宣言受諾の意を表明したあと、
関東軍も武装解除を準備する
19日になると、ソ連極東軍司令部から、
関東軍に通達が来た
ソ・満国境近くの町、ジャリコーウォにて
「話し合い」を持つために出向くように
とのことであった
ソ連側からは、極東軍司令官のワシレフスキー元帥、
日本側からは、総参謀長の秦彦三郎以下二人の参謀が同行した
そこでワシレフスキーは、次のように命令を示達している
「即刻、関東軍を武装解除すること」
「解除した上で、1,000人単位で大隊を作り、
指令がでるまでそれぞれの地で待て」と
示達を受けた関東軍は、
ワシレフスキーの言葉通りに従った
関東軍兵たちは、
「1,000人単位で大隊を作り待てということは、
きっと、我々を日本へ
帰国させてくれるからだろう」
と勝手に思い込み、喜んでいた
やがて列車に乗せられ連れて、
その先は日本への帰国の道ではなく
シベリアの収容所だった
ワシレフスキーの命令示達から連行までには
一週間ほどのブランクがあった
この間に、スターリンとトルーマンとの間で、
"勝ち戦"に乗じて日本の領土が
欲しかったスターリンは、
トルーマンに「我々は関東軍を掌握し、
北海道方面に侵攻している
ソ連の制圧地域として北海道を認めて欲しい」
と要求していた
しかし、トルーマンは、決して認めなかった
スターリンはもう一度、
「北海道が欲しい」と重ねて訴えるが、
やはり断られてしまう
ならばと、「領土の代わりに、
関東軍の兵を労働力としてもらう」
と勝手に決めてしまった節があるのだ
こうして「シベリア抑留」が行われた
多くの日本兵が、極寒の地で強制労働につかされた
宿舎に暖房らしい暖房はなく、
粗末な食事しか与えられなかった
そのうえ、スターリン主義への洗脳教育が強制された
そんな抑留が、長い者で13年近くも続けられたのだ!!
昭和31年、「日ソ共同宣言」時のソ連側の発表では、
抑留者の総計は6万人とされた
だが、事実はそんな生易しいものではない
少なく見積もっても60万人、
一説によると100万人の日本兵が抑留され、
戦後に犠牲になった兵士は
10万人近くに及ぶとの説があった
また、ソ連軍は8月15日以降も、
攻撃の手を緩めなかった
樺太、千島列島に侵攻を続けていたのである
8月18日、激しい砲撃の末、
千島列島北端の占守(シュムシュ)島、幌筵(バラムシル)島に侵攻
28日には択捉(エトロフ)島、
9月8日には歯舞(ハボマイ)、色丹(シコタン)島を占領している
そして、今でも北方領土は日本に還ってきていない
『日ソ中立条約』を破り、
8月15日以降も侵攻、
それどころか9月4日までも侵攻を続けていた
ソ連の言い分とは
「我々にとっては、日ソ中立条約より
ヤルタ会議の"秘密議定書"の方が国際的にみて意味が大きかった
日本が降伏文書に署名したその日(9月2日)が戦争の終わりであり、
それまでは戦争状態だったのだ」
日ソ中立条約を破り、
侵攻し続けた際の言い訳に使われたヤルタ会議は、
昭和20年2月11日
米英ソの指導者が結んだヤルタ協定
樺太の南半分と千島列島が
ソ連に引き渡されるよう決められていたが、
これをさらに北海道北半分にまで
拡げよというのがスターリンの新たな要求だった
樺太、千島列島、北海道北半分を
ソ連圏内に収めてしまえば、
オホーツク海はソ連の内海となり、
太平洋へのシーレーンも自由になる
このスターリンの野望により、
終戦後も激しい日ソ間の戦いが
樺太と千島で展開されることになった
このような日本の領土に対する野心を
剥き出しにするソ連に対して、
疑うことなくアメリカとの仲裁を
お願いしようとしていたのだから皮肉なものである
戦争終結日は、
ミズーリ号で降伏文書に
正式調印した
昭和20年9月2日であり
昭和27年4月28日まで、
GHQによる軍事占領につき、
国際法上「戦争状態」であり、
国民に主権がない状態が続いた
そして現在も続く
北方領土、竹島、尖閣諸島と
続く領土問題に
家族へ国家へ子々孫々へと命をかけて
日本の為に散華なされた烈士英霊に
大和の民として恥じないように
我々日本人は覚悟を持つべきである


















