みなさん、

おはようございます。

 

【朝の道標】を見に来ていただき、

ありがとうございます。

 

 

今日も夏休み特別企画、

「学校教育の闇」をお届けします。

 

 

いよいよ今回から、

この企画の最終段階に入ります。

 

これまでに学校教育全体を見渡して、

負の部分と改善の可能性を模索してきましたが、

現場では新たな学校教育の方法がすでに見え始めているのです。

 

そこで【見え始める第三の学校】と題して、

その新たな学校教育とあり方を、

以下の4つの段階に分けてお話をしていきます。

 

①問われる学校の存在意義

②人材不足を補う分業化と委託業者

受験のない学校と並行授業方式

小集団と個人が主体の教育者

 

 

【見え始める第三の学校】の1回目となる今回は、

そもそも学校って何のためにあるのか、

その使命について考えてみたいと思います。

 

とはいえ、

あまり大きく展開してしまうと、

また概念的なボンヤリした結論になりそうなので、

今、この日本で身近にある学校の中から、

その使命を見出していこうと思います。

 

 

今ある学校から得られること、

子どもや親がそこに求めていることは何か。

 

 

各種学校がある中で、

特に小学校に対する必要性は、

コロナ禍の中ではっきり見えたと思います。

 

 

実際、

学校側はオンライン授業などで「学力の保障」を重視して、

GIGAスクール構想を打ち出して急ピッチにタブレットを配り、

その環境を整えました。

 

しかし保護者達の反応は良くありませんでした。

 

なぜなら親が学校に求めていたのは、

「学力の保障」ではななかったからです。

 

親が求めていたのは、

仕事をしている間子供を預かってもらえる、

「託児所」としての役割だったのです。

 

 

この傾向は都心部に多く見られました。

 

 

では「学力の保障」はどこに求めているのか。

 

 

進学を意識している親たちが、

「学力の保障」を求めていてるのは、

「学習塾」のような専門の民間組織であり、

残念ながら学校ではなかったのです。

 

この事実は何年も前から明確にされていましたが、

学校はその事実を受け入れ見直すことができませんでした。

 

(資料のリンクを添付します。

 2003年に行われた民間のアンケートですが、

 学力が求められていないことは顕著です。)

https://www.manabinoba.com/images/content/3646/needs_enq.pdf_031119.pdf

 

 

どうして見直せなかったのか。

 

それは学校としての存在意義が、

「学力の保障」を第一にしなければならない、

理由があったからです。

 

 

その理由が大学受験です。

 

 

全ての公立学校では、

その学習内容をどうやって決められているのか。

 

本来は社会に出て必要となる知識や技能であるはずなのに、

いつの間にか大学受験で困らないように、

基礎学力を身に付けることが求められるようになったのです。

 

理論的には、

公立の小中高の内容から、

国立大学の受験問題の内容を作らなければならない。

という関係性であったはずが、

 

実際の教育現場では、

国立大学の受験問題の内容を解くことができるように、

公立の小中高は基礎学力を身に付けさせなければならない。

という関係性に逆転していたのです。

 

 

だから、

文科省をはじめとする教育を導く立場にある組織は、

この関係性を壊すわけにいかず、

すでに小学校に「学力の保障」を求められていないという事実を、

受け入れられなかったのです。

 

 

では「託児所」のような役割は重要でないのかというと、

決してそうではなく、

むしろこちらの方が重要な役割なのです。

 

 

学校は社会のミニチュアといわれるように、

子どもたちはその人間関係の中から色々なことを学びます。

 

 

それは、

 

成績がいいといって人から慕われるわけではないこと、

 

自分のことより友達のことを大切にできることの尊さ、

 

どんな人にも見えない心があり常に変化していることなど、

 

教科書では学べない社会を生きる上で必要な感覚を、

体験を通してを学ぶことができます。

 

 

これを「社会性の学び」とぼくは呼んでいます。

 

この「社会性の学び」は、

いろんな家庭環境の子供達が集まる学校でなければ、

修得することができません。

 

 

しかしそれを避けて、

金持ちのいい子ちゃんばかりが通うような学校で育った子供は、

社会という広い世界に出た時、

多種多様な人の心を理解することができず、

良好な人間関係を築くことができないでしょう。

 

もしそのような偏ったエリート意識を持った人が、

国家の中枢を担った場合、

その国の人々は偏見や差別に苦しみ、

国民のまとまりがない分断された社会になってしまうのです。

 

 

そんな社会にならないように、

学校教育は「心」を育てなければなりません。

 

それこそが、

学校意義の存在意義なのです。

 

 

文科省が民間に委託して行ったアンケートにも、

学校で身に付けるべき能力は何かという問いに対して、

「人間関係を築く力」と答えた意見が半数を超えていることからも、

「社会性」という「心」を育てる事への要望が強いことが分かります。

 

(資料のリンクを貼っておきます。)

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/05072201/s002_2.pdf

 

 

小学校に求められているのは、

「託児所」としての役割といいましたが、

その中にある学校へ期待は、

子供社会で身に付ける人間関係を円滑に築くという、

「社会性の学び」なのです。

 

それは小学校に限らず、

中学校になっても高校になっても同様だと思います。

 

この「社会性の学び」こそが、

今の学校に求められている、

本当の存在意義だとぼくは考えています。

 

 

長い人類の歴史を見てみても、

個人の能力を頼みにする指導者より、

周りの人たちから協力を得ることのできる指導者の方が、

成功を収めている例は多くあります。

 

武力の信長より、知力の秀吉より、徳の高い家康とか、

 

武功の高い項羽より、人望に熱い劉邦であるとか、

 

ほら、学級や職場の中でも人気者ってそういう人でしょ?

 

 

今、学校は存在意義を見直す時期に来ています。

 

そして「学力の保障」というこだわりを手放し、

「社会性の学び」に焦点を合わせ、

新しい学校教育へ転換するチャンスなのです。

 

 

次回以降は、

その「社会性の学び」への方策を模索していきます。

 

どうぞお楽しみに!

 

 

さあ、今日も新しい一日のスタートです。

元気に、いってらっしゃい!