みなさま、こんばんわ🌜
今日の鹿児島は雨☔のちくもり⛅でした🙂
銀河鉄道の父
Amazon プライム ビデオで『銀河鉄道の父』を観ました。
著名な文学者 宮沢賢治 とその家族を描いた映画でした。
めっちゃ良かったです😊️
宮沢賢治
宮沢賢治といえば、めっちゃ有名ですよね。
我が国で知らない人はいないのではないでしょうか❓
私も宮沢賢治が大好きで、たくさん読みました。
「銀河鉄道の夜」が特に大好きで、何度も何度も読んで、ほぼ暗記しているぐらいです。
宮沢賢治の文章は、まるで乾いた岩に水がしみ込むように、すーっと心に沁み入ってくるんですよね。
映画の主人公は、我が国を代表する宮沢賢治・・・ではなくて、お父さんの 宮沢政次郎 でした。
映画は宮沢政次郎の目線で物語が進んでいきます。
社会不適応❓
素晴らしい物語を書いた文学者宮沢賢治は、さぞかし素晴らしい人格者だろうと思っていました。
しかし、実際は中学卒業後に進路に迷い、社会不適応に至っていたようです。
突然日蓮宗に改宗してお坊さんの恰好をして練り歩いたり、部屋に引きこもって、今でいうひきこもりみたいになっていた時期もあったようです。
宮沢賢治は自身の存在意義を見いだせず、とても苦しんでいました。
思春期特有の一過性のものかと思いきや、宮沢賢治は青春の病をこじらせます。
道に迷う間に社会不適応となってしまい、家族とも不和となり、家出をして東京に上京し、無軌道な暮らしをしていたこともあったようです。
社会に居場所を見いだせない宮沢賢治の苦しみはまだまだ続きます。
見ているだけで辛い様子でした。
そんな宮沢賢治の元に、心の支えだった家族、妹のトシが結核を発症したという電報が届きます。
妹のトシが自分が書いた童話を読みたがっていたことを思い出した宮沢賢治は、原稿用紙を買ってきて、童話を書き始めたのです。
雨にも負けず
妹トシの結核発病と死をきっかけに、東京を引き上げ、故郷の盛岡に帰ってきた宮沢賢治。
盛岡で自給自足の暮らしを立てつつ、農業講座を開いたり、童話を書いたり、コンサートを開いて東京で習い覚えたチェロを演奏したりして暮らしました。
やがて宮沢賢治も結核を発病し、病に倒れます。
有名な「雨にも負けず」の詩は、死期が迫る中、病床で書かれました。
療養と家族の懸命な看護の甲斐なく、宮沢賢治は37歳でこの世を去りました。
心に沁み入る理由
この映画を観た時に、私は人生に悲しみや苦しみが必要な理由がわかりました💡
宮沢賢治の物語は、疲れているときにも辛い時にも、すーっと頭と心の中に入ってきます。
物語を読んでいると、別世界というか、仏教でいうところの蓮の上の世界に入り込んでいくような気がします。
苦しみの多い現実が泥の中だとすると、蓮の上は神仏が実在する天国のような位置づけです。
宮沢賢治は生前、社会に適応できず、何年も何年もとても苦しんでいました。
現実を受け入れられないことに、自分の存在意義を見いだせないことに、社会に居場所を見つけられないことに。
苦しんでいたから、あんなにすごい物語が書けたのです。
苦しまなければ、宮沢賢治は文学者になれなかったのです。
「苦しむこと」には意味があったのです。
一陽来復
松下幸之助氏は「苦しみ」について以下のように書いています。
一陽来復(抜粋)
何の苦労もなく何の心配事もなく、ただ凡々と泰平を楽しめれば、これはこれでまことに結構なことであるけれど、なかなかそうはことが運ばない。
悲嘆のなかから、人ははじめて人生の深さを知り、窮境に立って、はじめて世間の味わいを学びとることができるのである。
頭で知ることも大事だが、身をもって知るということが何よりも大事。塩の辛さはなめてみてはじめてわかる。
窮境に立つということは、身をもって知る尊いチャンスではあるまいか。そして、禍いを転じて福となす、つまり一陽来復、暗雲に一すじの陽がさしこんで、再び春を迎える力強い再出発への道がひらけてくると思うのである。
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松下幸之助(1968)『道をひらく』PHP研究所. pp.140 |
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苦しみなんてない方がいいと思いがちですが、実際に苦しんでみるということは、とても大事なことなんですね。
人間になるための方法
私は自他共に認めるとても優しい人間です。
しかし、10代の頃は優しい人間ではありませんでした。
人生で様々な経験を積み、時には窮境にも立ち、人並みに苦しんできました。
苦しみや悲しみの中で人格を磨き、だんだんと優しい人間になっていったのだと思います。
そう考えると、苦しむことは「ヒトが人間になる方法」なのかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました😄
また来てね~😄👋