人として基本的なこと
最近よく家事をしながらポッドキャストを聴いている。本当は家事に集中した方がいいと思うけど(マインドフルネス的にも)何かをしながら耳から聴けるので、いろんな人の話を聴いている。その中で、歳を取り、排泄も自分ではできなくなって、人として基本的な事も出来なくなり、ひとにお世話してもらうようになった時、自分の生きている意味や価値を見出せない人が多い、という話をしていた。元気な時に、自己肯定感が高かった人でも、そういう状況になると、気弱になって、こんな自分が生きていていいんだろうか、と思ってしまうらしい…それを聴いた時、吃音者は挨拶や自分の名前が言えない人もいる事をふと思い、それって人として基本的な事だよなぁと思った。幼稚園児でも言える事なのに、それが言えないなんて……と、何度自分を責めた事だろう…難しい事が出来ないなら、ここまで自分を責める事はないけど、誰でもできる、誰でもやっている簡単な、しかも人として基本的な事が出来ない、という事の辛さ自己肯定感の高い人でもそういう状況になると、自分を責めて、自分に価値を見出せなくなるのなら、吃音者がそうなっても仕方ないなぁと思いました。でもこれは、出来ない事にフォーカスした時にとても辛くなるけど、誰でも出来てるところってあるんだよね。自分にとって、出来てるところは当たり前だから、ありがたいとも普段は思わないんだけどσ(^_^;)フォーカスする場所を変えるっていうのも大事だと思うし、お年寄りで、身の回りの事が本当に何も出来なくなったとしても、『人に助けさせてあげる』ことは出来てる。人に迷惑かけてるんじゃなくて、人に自分の世話をさせてあげることで、世話している人は自分に価値を見出しているかもしれないし、『人を助けている』という自分に喜びを感じているかもしれない。嫌々やってる人はダメだと思うけどだからきっと、自分で何も出来なくなっても、人に助けさせてあげることは出来るんだと思う。これは心屋さんから教えてもらったことだけどσ(^_^;)でも、人っていうのは、人として基本的な事が出来ない時に、とてもダメージを負ってしまうんだなぁという事が改めてわかって、吃音の辛さをしみじみと感じました。