小澤征爾さんを失って 村上春樹さん寄稿 2024年2月11日
亡くなってしまった小澤征爾さんのことを思うと、いくつもの情景が次々に頭に蘇ってくる。様々な思いももちろん胸に去来し、それなりに渦巻くわけだが、それより前に浮かび上がってくるのはいくつかの断片的な、具体的な情景だ。そしてそれらのエピソードのほとんどにはユーモラスな要素が含まれている。
ジュネーヴの古いコンサートホール、その楽屋で僕は征爾さんの手を思い切りごしごしと撫でていた。征爾さんはその夜、ヨーロッパの学生オーケストラを指揮したのだが、指揮を終えた直後に倒れ込んで、意識を失ってしまったのだ。まわりに医師もいないし、どうしていいかわからないので、とにかく僕は楽屋のソファに横になった彼の手を握って、「征爾さん、征爾さん」と声をかけながらその手足をこすり続けた。少しでも血行を良くしようと思って、ずいぶん長い時間。でも意識はなかなか戻らなかった。
もしこのまま亡くなってしまったらどうしようと思うと、正直言ってとても怖かった。この大事な人をこんな風に簡単に失ってしまうわけにはいかない。でもとりあえず、必死に手足をこすり続ける以外に僕にできることは何もなかった。でもそうしているうちに、やがて意識は少しずつ戻り、目が開き、なんとか身体を起こせるようになった。そのときどれほどほっとしたことか。
「指揮する前に、腹が減ったんで、つい赤飯をぺろっと食べちゃったんだよね」と翌日、けろりと回復した彼は告白した。「きっとそれがいけなかったんだな」
当時征爾さんは癌の手術を受け、食道の一部を切除したばかりだった。重いものは食べてはいけないという厳しい指示を医師から受けていた。赤飯みたいな消化の良くないものを食べていいわけはないのだ。それでも「すごくおいしそうだったから」と赤飯をぱくぱく食べて、そのまま舞台に立って指揮してしまうのがこの人の生き方というか、あり方だった。音楽的成熟とは対照的に、子供がそのまま大きくなってしまったような部分がこの人にはあった。おかげで僕は、夏のスイスで大量の冷や汗をかかされることになった。ちなみにその夜の演奏は素晴らしいものだった。
ウィーンの街角を二人で歩いているときのことだが、短い距離を歩くのにずいぶん時間がかかってしまった。というのは、征爾さんはウィーンの街の辻音楽師のほとんどと知り合いらしく、「よう、マエストロ」と声をかけられると、歩を止めてそのままじっくり話し込んでしまうからだ。だからなかなか前に進めない。でも、そういう街角の音楽家と話をしているときの征爾さんの顔は、本当に楽しそうだった。おそらくマエストロは、彼らの「自由人」としての生き方が好きだったのだろう。そんな気がした。当時の征爾さんはウィーン国立歌劇場の音楽監督という重責を担っていた。言うまでもなくやりがいのある仕事だし、その栄誉ある職に就いていることを征爾さんは誇りに思っていた。しかしそれと同時に彼の中には、巨大な組織に手足を縛られることなく、広い草原を吹き抜ける風のように、自由気ままに音楽を奏でたいという強い気持ちがあったのではないか。その魂のおそらく半分くらいは、そういう世界を夢見ていたのではないか。そのような印象を僕は受けた。
ホノルルのカピオラニ公園を夕方散歩していたら、前から征爾さんが一人で歩いてきた。両手に北京ダックを抱えている。「それどうしたんですか」と尋ねたら、「北京ダックが急に食いたくなって、電話で注文したんだけどさ、手違いでダブってしまって、二個も買うことになったんだよ」ということだった。そのとき征爾さんはホノルルのアパートメントで一人で生活していた。「で、どうするんですか?」と尋ねると、「まあしょうがないから、一人で食べちゃうよ、ははは」ということだった。かなり大きな北京ダックだったので、ジュネーヴの二の舞になるんじゃないかと不安に思ったが、なんとかそのときは無事だったようだ。しかし本当にあれ、一人で二個も食べちゃったのかな?
そんな情景が次から次へと脳裏に浮かび上がってくる。もちろん征爾さんとはいろんな音楽の話もした。言うまでもないことだが、征爾さんは特別な才能を持った特別な音楽家だった。天才的と言ってしまえばそれまでだが、脳味噌の大部分が音楽関係の細胞でできているんじゃないかという気がするほどだった。音楽の話をしていると、その脳の働き具合の特別さに驚かされ、言葉を失ってしまうようなこともたびたびあった。彼にとっては当たり前のことなのだろうが、一般の人間にとっては――少なくとも僕のような音楽の門外漢にとっては――驚嘆すべきことが数多くあった。
征爾さんがオーケストラと練習するところを見ているのが好きだった。指揮者にはいろんなタイプがいる。独裁者タイプ、教師タイプ、寡黙な人、饒舌な人、のんびりした人もいればすぐに癇癪を起こす人もいる…征爾さんはあまり感情を表に出すことなく、ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に細部のネジを締めていく人だった。オーケストラの出す音に注意深く耳を傾け、問題があればそれを指摘し、どこがいけないかをユーモアを交えてフレンドリーに説明し、その部分のネジを締める。それを何度も何度も繰り返して、彼の求める音を、音楽を、辛抱強くこしらえていく。
そういう作業をリハーサルの現場で見るのはとても興味深いことだった。不思議なことに、彼がネジをひとつ締めるたびに、その音楽は少しずつより自由で、より風通しのよいものになっていくのだ。そのことはいつだって僕を感心させた。どうしてそんなことが可能なのだろう? ネジを締めていけば全体は硬くなる――それがものごとの通常のあり方だ。でも征爾さんの場合は、ネジをぎゅっと締めることによってその結果、驚くほどすんなりと演奏から肩の力が抜けていくのだ。そしてその音楽はよりナチュラルな、より柔軟性を持つものとなっていく。生命が吹き込まれていく。僕はそれこそが「小澤マジック」のひとつの神髄ではないかと思っている。
そういうことが可能になるのは言うまでもなく、征爾さん自身の中に揺らぎない音楽像が確立されていたからだ。彼はそれをただそのまま、持てる技術の限りを尽くしてオーケストラという総合楽器に移し替え、委ねていくだけだ。そこには過度なメッセージ性もないし、大げさな身振りもないし、芸術的耽溺もなく、感情的な強制もない。そこにあるのは、小澤征爾という個人の中に確立された純粋な音楽思念の、虚飾を排した誠実な発露でしかない。彼はそれを立体的な音像として、満席のコンサートホールに鮮やかに再現することができた。作家が文体を真摯に追求すればするほど、文体自体が消えていって見えなくなり、あとには物語だけが残る――そういうことが小説の世界にはある。征爾さんの晩年の演奏は、あるいはそういう熟達の境地に達していたのではないだろうか。
そんなことができる人は――彼ほどうまく自然にそんなことができた人は――他にちょっと思い浮かべられない。もっともっと小澤征爾の音楽を聴いていたかった。それがどんな方向に進んでいくのか、どこにたどり着くのかを見届けたかった。それが僕の正直な気持ちだ。あとに残された多くの過去の音源ももちろん貴重ではあるけれど、果たされなかった未来の音源の存在=非存在が僕にとっては残念でならない。
「僕がいちばん好きな時刻は夜明け前の数時間だ」と征爾さんは言っていた。「みんながまだ寝静まっているときに、一人で譜面を読み込むんだ。集中して、他のどんなことにも気を逸らせることなく、ずっと深いところまで」
そんなときの彼の頭には音楽だけが鳴り響いていたのだろう。おそらくは無音のうちに。総譜を開けば、そこには純粋な音楽世界が展開した。それは哲学の理念と同じように、どこまでも純粋な、それ自体で完結したものだったかもしれない。それは夜明け前の暗闇を必要とするものだったかもしれない。
並べて語るのもおこがましいのだが、実を言えば僕も小説を書くとき、いつも夜明け前に起きて机に向かうようにしている。そして静けさの中で原稿をこつこつと書き進めながら「今頃は征爾さんももう目覚めて、集中して譜面を読み込んでいるかな」とよく考えた。そして「僕もがんばらなくては」と気持ちを引き締めたものだ。
そんな貴重な「夜明け前の同僚」が今はもうこの世にいないことを、心から哀しく思う。
【全文】安倍元首相「国葬」 菅前首相 追悼の辞
【全文】安倍元首相「国葬」 菅前首相 追悼の辞
2022年9月27日 16時23分
安倍元総理大臣の「国葬」で、菅前総理大臣が友人代表として追悼の辞を述べました。
以下、その全文です。
菅前首相 追悼の辞
7月の、8日でした。
信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。
その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。
あの、運命の日から、80日が経ってしまいました。
あれからも、朝は来て、日は、暮れていきます。やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。
季節は、歩みを進めます。あなたという人がいないのに、時は過ぎる。無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます。
天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか。
口惜しくてなりません。哀しみと、怒りを、交互に感じながら、今日の、この日を、迎えました。
しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。
ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。
20代、30代の人たちが、少なくないようです。明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。
総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。
そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。これが、あなたの口癖でした。
次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。
いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。報われた思いであります。
平成12年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。
私は、当選まだ2回の議員でしたが、「草の根の国民に届くならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。
すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。
「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。
信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。
その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感いたしました。この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。
私が、生涯誇りとするのは、この確信において、一度として、揺らがなかったことであります。
総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。そのことを負い目に思って、2度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶんと迷っておられました。
最後には、2人で、銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命、あなたを口説きました。それが、使命だと思ったからです。
3時間後には、ようやく、首をタテに振ってくれた。私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。
総理が官邸にいるときは、欠かさず、1日に1度、気兼ねのない話をしました。いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざと、よみがえってまいります。
TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。
一歩後退すると、勢いを失う。前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。
安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立をさせることができました。
どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。
国難を突破し、強い日本を創る。そして、真の平和国家 日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。
そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。
総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8か月。私は本当に幸せでした。
私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が国日本にとっての、真のリーダーでした。
衆議院第1議員会館、1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が1冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。
ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
総理、いま、この歌ぐらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当に、ありがとうございました。
どうか安らかに、お休みください。
令和4年9月27日 前内閣総理大臣、菅義偉
パラダイム・シフト
圧倒的な災禍の中で考えたのは震災後の新たな価値観について。
全てに賛同できるわけではないが村上春樹氏は一つの方向性を示したと思う。
以下 備忘録として
村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(上)
9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)
「非現実的な夢想家として」
僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
どうしてか?
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k
0000m040017000c.html?toprank=onehour
村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。
