Whitsundays
Amebaでブログを始めよう!

薄い陽性と近所のGP初診

生理開始予定日に検査してみましたが、終了線に比べて色がかなり薄かったのです。

心配になってネットで調べまくりました。初めての妊娠だったので、何も知識がなかったのです。

私が使ったのは生理予定日から1週間後に使うタイプのものでした。尿中のHCGが少ないので薄いのかもと思っいましたが「生理予定日に線が薄かったら、その後流産した」人が少なからず居たので不安は増すばかりでした。

心ここにあらず、とはまさにこんな状態を指すんだろうなと思うような1週間でした。あまりに不安がる私の為に、ダンナが毎日検査薬を買ってきてくれました。

幸いな事に、線は少しずつですが濃くなっていきました。でもやはり、終了線よりは薄いのです。

生理予定日1週間後にGPと言われる地域の医者のクリニックに行きました。エコーで赤ちゃんを確認して「おめでとうございます!!」という場面を創造していましたが、オーストラリアではエコーの様に高価な医療機器は街の小さな病院にはありません。

妊婦検診の間にエコーは2回のみ。紹介状がないとかかれない国立病院や大学病院に行って妊娠12週とあと1回(何週だったか忘れましたが)見てもらうだけ。妊婦検診は近所の病院でドップラーなどを使うだけだそうです。

全国どんな小さなクリニックでもエコーが当たり前の様にある日本とは大違いです。卵巣嚢腫の時も、婦人科にエコーが無くて、紹介状を持ってエコーのある大きな病院に行かされ驚きましたが、まさか産科もとは。

結局家で使ったのと同じ妊娠検査薬で陽性反応を確認して「一応妊娠はしてるみたいだけど、薄いわね。エコーで見られるのは12週だからそれまで待って。その前に出血などあればまた来てね。何も無ければ12週前に紹介状を書くから大学病院に行って。」とインド人のおばちゃん先生に言われてすごすごと家に帰りました。

毎週胎嚢や胎芽の育ちをチェックして、ビクビクドキドキ過ごす日本の産科との違いには本当に驚かされます。流産は自然淘汰という考え方なので、基本的に手術はしないそうなので、12週までに流産してしまえば、それは運命という事の様です。

その前に切迫とかになったらどうするんでしょうね。医療のシステムに関して言えば、日本の方が何倍も恵まれていると思います。

にほんブログ村 マタニティーブログ 不育症へ
にほんブログ村
↑↑参加してみました。

卵巣嚢腫の手術

Whitsunday諸島から帰ってきて、すぐ婦人科を受診しました。

オーストラリアでは1年同居すると法律上は結婚カップルも事実婚カップル同じ扱いになるので、今までは婚姻届を出す必要性はあまり感じていませんでした。

だけど今回永住権の為とは言えせっかく正式に結婚したのだし、年齢的にも子供が居てもいいなと思い始めました。海外で出産して、子供を育てる事の不安感は大きく、しかも自分の精神状態を考えると、今までは子供は無理かなと思っていました。

もう少し職場で認められる様になるまで、貯金も2千万ぐらい無いと子供を育てるのは無理かも、とか考えすぎて堂々巡りになっていたのですが、その頃は日本に帰る方に気持ちが大きく傾いていたので、細かい事はどうでも良くなっていました。

とりあえず妊娠しなきゃ、とまずは生理不順の件で婦人科にかかると、予想もしなかった事が分かりました。左の卵巣に大きな塊があるので、それを切除して組織検査に出さないと良性か悪性か分からないと初診でいきなり言われたのです。

結婚して1週間でいきなり手術の宣告を受けてショックで呆然となりました。英語で、卵巣とか卵管とか嚢腫とか、日常会話では出てこない内臓の名称や、手術や薬の説明で頭がもっと真っ白になりました。

辞書を引きまくって単語を覚え、再度医師と面談をしました。

手術は全身麻酔の上、腹腔鏡で行い、何と日帰り。日本なら最低2泊3日はするのではないでしょうか。
嚢腫の内容物は切って病理検査に出さないと分からないと再度言われました。もし悪性だったら卵巣も子宮も全摘になるので、子供が持てないという事が分かり、ネットで情報を集め続けました。もし悪性だった場合は、採卵して卵子の冷凍保存をする方法がある事が分かり少し安心しました。

手術自体はあっという間に終わり、まだ麻酔も冷め切れないまま車椅子でエントランスに連れて行かれ、ダンナの車に移され家に帰されました。

術後は据え膳上げ膳の日本の病院との違いに驚きました。

後日、日本で子宮鏡によるポリープ切除をしましたが、術後24時間以上絶食で導尿の管がしばらく入ったままベッドの上で絶対安静でした。

オーストラリアの病院では、手術が終わって回復室で目が覚めると、目の前にローストビーフとオレンジジュースが置いてありました。麻酔から覚めると「たくさん食べてね。」看護師さんがにっこり笑って言ったのが印象的でした。(笑)

前夜からの絶食でお腹が空いていたのでガツガツ食べ終わると、笑いながらすぐにお代わりを持ってきてくれました。何でしょうね、この違いは。

後で知ったのですが、異国で暮らすストレスや食生活の違いのせいか、海外で働く日本人女性の婦人科系トラブルは大変多く、特に卵巣嚢腫はとても多いそうです。

私の個人的な予想ですが、この頃不育症も発症したのではないかと思っています。

抗リン脂質抗体は原因不明とされていますが、膠原病類縁疾患なので免疫に強く関係しているはずです。私の知人も職場のストレスが強い時期に、特定疾患の難病である潰瘍性大腸炎を発症しました。強いストレスは免疫系を乱し、膠原病を始めとする様々な病気が発症する原因の一つだと思います。

ところで、病理検査の結果は良性でした。嚢腫の中身は髪の毛や爪でいっぱいだったそうです。ブラックジャックのピノコと同じデルモイド嚢腫ですね。

この手術の後、最初の排卵でいきなり妊娠しました。陽性反応のピンクのラインを見た時には嬉しすぎて天にも昇る気持ちでした。

鬱と結婚

日系企業の海外支店で働くという事は私の想像以上に大変な事でした。

数名いる男性の海外駐在員の他は100名近いオーストラリア人。オーストラリア人と言っても、移民の国なので、普通の日本人が想像するイギリス系の白人は本の一部だけで、あとは世界中の色々な国から移住してきた人たちばかり。

英語の訛りもそれぞれで、慣れるまでは聞き取れずに大変でした。

一番つらいかったのは日本人の駐在員と現地採用の人たちの板ばさみになってまう事でした。私は日本人ではあるけれど、現地採用で、気持ちの上ではオーストラリア人の側にいるつもりでしたが、彼らから見ると私は日本人で、自分達の上司でもある分からず屋の日本人のオジサン達の仲間としか見てくれませんでした。

駐在員達からは「現地採用」と差別され、現地採用のオーストラリア人達からは「自分達の敵(日本人)」と見られてしまって、どっちにも入れないつらさ。

あとは世界中のどの都市にでもあると聞きますが、永住日本人達の独特のコミュニティの中でうまく生きていく事が何よりも難しかったです。

狭い街の中人の陰口や噂話にいじめ。駐在員に対する変な対抗意識、日本でももはや存在しないであろう年功序列制度。○○さんに逆らうと、この街では生きていけないよ、と渡豪早々色々な人から忠告されました。

マンションの隣人の名前も知らない様な場所でしか生活した事のない私にとっては、みんながお互いの事を把握しあうのが当たり前の様なコミュニティに属さなければいけない事は苦痛でたまりませんでした。

自分が興味が無くても、必ず誰かが他の人の家族構成や出身校、奥さんの出身地や果てはお子さんの通う学校や成績の事まで教えてくれます。それって逆に私の事もあれこれ言われるって事でしょう?もう誰も信じられず、他の日本人とは距離を置いていましたが、日系企業に勤めているとまったく無関係ではいられませんでした。

ある週末、当時メルボルンの大学に留学していた弟と中華街で夕食を食べていたところを誰かに見られた様で、次の月曜日には「Sarahさんが年下の男性と中華街をウロついていた」という噂が流れているのを知り、本当にぞっとしました。

その頃から、常に誰かに監視されている様な恐怖を感じ、いつも後ろを振り返って誰もいないのを確認する様になりました。職場でのストレスもマックスになり、いつもドキドキ動悸がして、眠れない様になってしまいました。

そのうち生理も不順になり、過食とまったく食べられない日々が交互に訪れ、だんだん精神的におかしくなっていきました。

曜日の感覚もおかしくなって、惰性で会社には行っていましたが、感情の起伏も乏しくなり、ダンナへの愛情もまったく感じなくなっていました。今思うと、この頃に鬱を発症していたのかもしれません。

この頃から日本に帰国する事を考え始めました。永住権を取って就職して、ある意味海外からのお客さんだった学生時代には想像もしなかったリアリティを突きつけられ、このままメルボルンに永住する気持ちが揺らぎ始めたのです。

ちょうど同じ頃、ダンナの就労ビザが切れる時期になったので、結婚してダンナも永住権を取る事にしました。Whitsunday諸島の一つ、ヘイマン島の教会で挙式、その後ハミルトン島でダイビングやサイクリングをしながら1週間過ごしました。

メルボルンから離れ、わずらわしい人間関係から開放されて、久しぶりに本当の笑顔になれました。やっぱりこのままメルボルンにいるのは無理かもしれないと本当に思いました。